八十三話『灰色の雲』
ぽつりぽつりと軽やかに弾ける雨音を背景に、狭い円の中を二人で共有して歩く。
「にしてもカピュアが傘忘れるなんて珍しいな」
「そういうイッセイだって、交換で傘くらいいくらでも作れるじゃないですか」
「正直言うと、今みたいな分かりやすいイチャイチャってあんまりしてこなかったから、すっごい楽しんでる」
普段なら傘を差すかどうか判断に困る小降りの中、少し大きめな傘の下、たまに肩や腕が当たるような距離で並んでいるこの瞬間は、カピュアとの思い出ランキングを作るならば一位タイだ。
「それで、一緒に行きたかった店って?」
「はい! ここのカフェのオムレツがふわふわで、中のチーズは丁度良くとろりとしてて、是非食べてみて欲しいんです」
木の少し古い扉を開けると、ベルの軽やかな音が店内に響いた。艶のある木製のテーブルと、少し擦れた革張りの椅子。案内された窓際の席からは店内の様子がよく見える。この雨の影響か他の客は数人で、帰り支度をしている人もいる。確か予報ではこの後雷になるそうだ。こちらの予報の仕組みは分からないが、当日の一時間毎の天候的中率七割らしいので信頼してもよいのだろう。
「イッセイはどうしますか?」
机の上に開かれたメニュー表に目を落とす。プレゼンされたチーズオムレツの他にもナポリタン、サンドイッチ、ピザトーストといった、懐かしい名前が並んでいる。ナポリってどこだよというツッコミはぐっと堪えて、飲み物へと視線を移す。分かり切っていたことだが、炭酸飲料は存在せずコーヒーや紅茶、ココアなどが並んでいる。コーヒー入り練乳しかまともに飲めない俺は変な見栄を張ることなくミルクを選ぶ。
注文を待つ間に雲もかなり近付いてきたようで、ゴロゴロと大地が揺れるような低い音が聞こえてくる。
「流石に帰りはテレポ使う?」
「そうですね、この様子だと危ないですし。私の部屋のアンカーに飛びましょうか」
何気にカピュアのお部屋初訪問だな、と心弾ませていると料理が並べられた。キュウリや卵、トマトで彩り鮮やかなミックスサンドに、湯気の立つ紅茶。正面には、具がたっぷり詰まってふくらんだオムレツとミルク。
皿の上の黄金色は、シンプルなのに不思議と食欲をそそる輝きを放っていた。スプーンで一口大に切り出せば挽き肉やキノコが顔を覗かせる。口に含んだ瞬間、卵のやわらかな層が舌の上でほどけ、チーズがとろりと溶けて広がった。溢れる肉の旨みに、キノコの弾むような歯ごたえのアクセント。ひと口ごとに塩気とコク、そして軽やかな甘みが重なり、想像以上に食べ応えがある。これはカピュアがオススメするのも頷ける。
「ところで、これだけオススメしておいて何故カピュアは違う料理を?」
「だって同じのにしたら一口だけ交換……みたいなことが出来ないじゃないですか」
「真面目な顔でイチャつきをご所望されると反応に困るからもっとして欲しい…………ところでこれは一体何をされているんですかフェルトさん」
新しいスプーンを取ろうと伸ばした手を掴まれた。
「いや、えっと、その……」
目線の先は俺の手にあるスプーンだ。
「それは俺が恥ずかしいからできればもう少し人目のない場所を選んでもらえると大変嬉しいんだけど」
「なら今日の夕飯にお願いしますね」
覚悟を決めなければならない時が来たようだ。
今晩の一幕を想像してもう緊張していると、窓に打ち付ける雨音が一層激しくなる。
「本格的に降ってきましたね。雷が落ちないといいですけど」
窓の外を眺める彼女に釣られて暗い屋外へと意識を向ける。
「カピュアって雷怖かったりする?」
「そこまで怖くはないですよ。中々ないとは思いますが、当たるのが怖いなって感じです」
「俺は割と怖いけどな。特に家に落ちた時の被害を考えるとどうしても雷怖いってなる」
大事な大事なデータの詰まったデスクトップパソコンが壊れることに怯えながらゲームをしていた日々を思い出す。
オムを口に運びながらなんとなく眺めていると、ふと稲妻が見えた。少ししてバリバリと空気を引き裂く音が窓を揺らす。
「結構近くに落ちたみたいだな。談笑って雰囲気でもないし、食べ終わったらすぐ帰るか。……カピュア?」
彼女はじっと窓の外を見つめたまま、右手に持ったサンドイッチを落とす。いや、雷を見て固まったと言うが正しいか。
「大丈夫か? 雷が怖いならもう帰る?」
話しかけても反応がない。心此処に在らずといった様子でただ白い軌跡があった場所を眺めている。
「カピュア? ……カピュア!?」
流石に心配になって席を立つと、彼女がピクリと動いた。かと思えば次の瞬間には、つんと鼻をつく酸の臭いが波のように押し寄せた。
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「……すみません、色々とご迷惑を」
「いえいえ、何かあった時はお互い様ですよ。それに、お嬢さんには何度か力を貸して頂いているので、恩を返せて嬉しいくらいです。……このような形は想定外ですが」
「本当に、助かりました」
あれから、バックヤードを借りてカピュアを休ませている。俺が面倒を見ている間に、テーブルや椅子の後処理は全部店長がしてくれたらしい。
不幸中の幸いと言うべきか、あの瞬間に他のお客さんはいなかった。それだけが救いだ。
「しばらくここを自由に使って良いので。そろそろ私は仕事に戻ります」
「分かりました。ありがとうございます」
ソファに回復体位で寝かせた今のカピュアの様子と言えば、気を失っている……という訳ではなく、上の空、茫然としている感じだ。俺が見た雰囲気では、頭が真っ白になったのがずっと続いている、という表現が適切だろうか。
こんな時の対処法など知っているわけがないので、そっと頭を撫でたり、短く声掛けをしてみるが、効果は見えない。
十分ほど経っただろうか、カピュアが「……ぁ…………んん……」と声を漏らす。
「カピュア?」
喉の調子を確かめるように小さく咳払いをして、のそのそと身体を起こす。
「……やっと、整理が、できました。心配かけてごめんなさい」
「カピュア、大丈夫か? 具合が悪いなら今からでもお義父さんに――」
「大丈夫です、大丈夫ですから。でも、ごめんなさい。折角のデートなのに、こんなになってしまって……」
心配させないためか、はたまた余裕がないのか、彼女にしては珍しく、俺が話し終える前に口を開いた。
「そんなの気にしなくていいから。後でいくらでもしような? だから今はしっかり休んで」
「ちょっと喉の奥が酸っぱいくらいで元気そのものですよ。ちょっと……長い間ビックリしちゃっただけです」
本人にこう言われては信じるしかない。詮索をして余計な記憶を呼び起こしてしまうことを考えると深堀りする気になれず、ただ平常運転を意識して動く。
「とりあえず、口を漱ぎに行こ。それで、三十分くらい水飲みながら休んで、その後店長にお礼を言いに行こう」
「はい」




