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スマホで小林多喜二を救出せよ

作者: 松田寿生

1933年29才で特高警察によって虐殺された小林多喜二を救出し、世界中の戦争や格差社会をなくし平和で生まれて来てよかったという理想の社会を200年後の未来に作るためにスマホのタイムトラベルアプリで奮闘する若者たち。

 日が落ちて外は雪か冷たい雨が降っているようだ。時折激しく窓ガラスを突風が叩き付ける。

毎年二月は寒い日が続く。

やがて迎える春に、冬が抵抗しているようにさえ思える寒さである。


それでも、酒が好きな塚本一郎は寒さに震えながら、コタツに入って焼酎を炭酸水で割って、ポッカレモン液を少し入れて薄めのチューハイを楽しんでいた。

<本当はビールが飲みたい>

一郎はあの苦いキリンのラガーが好きなのだが、最近は酒税が高くなって庶民には手が届かないものとなってしまった。か、と言って発泡酒や第三のビールは口に合わなかった。

そこで一郎が選択した酒が「甘くない自家製のチューハイ」となったわけだ。


「ピンポーン・ピンポーン」

そんなところに玄関のインターホーンが鳴り宅配便が届いた。

今時、何時だと思って腕時計を見るともう夜の八時を過ぎていた。


一郎はコタツから出て冷たい玄関のドアを開けた。

若い宅配便の青年が寒そうに立っていた。


「こんな寒い中、ご苦労さん」

と受け取りの判を押して宅配便を確認したところ、差出人は親父の塚本源治の名前になっていた。


<親父からの宅配便か?そんなことはないだろう。親父はもう二年前に亡くなっている。何かの間違いだろう>と思いながら宅配便を開けた。


一郎が35才の時に父親は60才で亡くなった。母親は15才の時に亡くなり、今年で37才になる一郎は、これといった仕事がなく、結婚もせず孤独な生活をしていた。貯えもなく、親父が残してくれた古い家と狭い畑で野菜をつくり、コンビニや手伝いなどで収入を得て細々と生活することが精いっぱいで、結婚するなんて考えることもなかった。

でも、そんなにつらい人生とは思っていなかった。一郎には夢があった。いつか必ず実現したい夢があった。


届いた宅配便を開けると、質札と手紙が入っていた。

「美濃屋と言う質屋ですが、お父さんから預かっている品物が期限切れになり処分の方法の判断をしなければなりませんのでご連絡しました。お金は振り込まれていますけど、品物の引き取りがないために期限までお預かりしていました。どうぞよろしくお願いします。ご連絡をお待ちしております。」

今では珍しく手書きだった。住所は熊本市内であり、ここ水俣から車で一時間ぐらいであった。

<親父はいったい何を預けていたのだろう。親父の趣味はカメラだったから、カメラかもしれない。しかし、あまり質屋の話は聞いていないし、そんなに価値のあるものでもないだろうから、わざわざ熊本市まで取りにいくこともあるまい>そんなことを一郎は考えながら、眠ってしまった。


青く澄んだ空を背景に記念写真を撮っている親子三人の姿があった。近づいて見ると、親父とおふくろと自分がいた。幸せそうであった。やがて母が居なくなり、親父と自分が高校の卒業式で写真を撮っていた。次にあるのは自分とその隣に女性が映っていた。しかしその女性の顔ははっきりしていなかった。一体誰だろうと思っていると、その女性がさっき送って来た質札を持っていた。

<何だこれは>

一郎は目が覚めた。

まだ、時計は5時を回ったところであった。その後は眠れなくて夢のことを考えていた。

<やっぱり、熊本に行ってみるか>


 一郎は早めの新幹線で行くことにした。

日頃からJRを利用していないこともあるが、新幹線なんて遠距離旅行ぐらいしか使わない。しかし、せっかく熊本から鹿児島まで九州新幹線が開通したということもあって新幹線を使うことにした。

新水俣駅の改札口を出て二階の乗車口で上りの新幹線を待っていた。


「お母さん早く、早く」

まだ小学一年生ぐらいだろうか、女の子がお母さんと思える若い女性に声をかけていた。

「大丈夫よ、まだ到着まで時間があるから、そんなに急がなくても」

改札口からエスカレーターで上がって乗車口がある。

赤いリュックを背負った女の子は頬を紅くして母親がエスカレーターを昇ってくるのを待っていた。


一郎は幼い頃の記憶を思い浮かべていた。親父と母と自分の家族三人で裏山にワラビ採りに行った。ツワンコもあったけど親父がワラビの方が好物だったので、一郎はワラビを主に見つけていた。まだ母も病気をする前で、親父も元気で働き盛りであった。まさに家族が幸福を迎える直前であったが、その後母が病気になり一郎の家族はどん底へと転がり落ちたのである。


午前10時を過ぎた頃、熊本駅に着いた。

久しぶりに熊本市に来た一郎にとって、完全に街の風景が変わっていた。そういえば熊本に来たのは10年ぐらい前のことであった。父親と一緒に熊本城に訪れたことがあった。父親の仕事の関係で来たことがあったように思う。


熊本駅から電車で約15分、下通り街にその質屋「美濃屋」はあった。茶色い木造の古い建物であり、周辺には高層ビルが立ち並んでいた。


「ごめん下さい」

暖簾を左手で持ち上げ、ガラスの格子戸を開けた。古い建物の割には、軽くスムーズに動いた。

「はーい」

若い女性の声がした。

「すみません。水俣から来たのですが」

一郎はショルダーバックから例の質札と手紙を取り出しながら店の奥へと進んだ。

「どうもお待たせ致しました」

年恰好は30才を少し過ぎたような和服姿の女性が出て来た。

身長は割と高く170ぐらいで瞳が大きく髪は長いストレートだった。

「すみません。先日こちらから届いた手紙を持って来たんですが」

一郎はショルダーバックから取り出した手紙を差し出した。

「あら、何でしょうね」

女性は手紙を手に取って見ていたが、急に思いついたように、

「あら、あなたは塚本さんですか」

と、一郎の顔をしげしげと見ながら言った。

「少々お待ちください。父を呼んできます」

奥の間に向かって行った女性に何となく覚えがあるように思った。

しばらくして父親と思える男性が姿を現した。

「やあ、よくおいでになりましたですね。まあ、かけてください。

白髪であご鬚の男性は一郎の父と同年ぐらいに見えた。一郎は土間に置いてある木造の椅子にかけた。テーブルも木造で家の雰囲気に合っていた。

男性の名前は甲斐健太郎と言い、父塚本源治の友人であった。

「源治君とは昔からの飲み友達でした。あなたのお母さんとの結婚式にも出席させていただいたものです」

あいさつ代わりに自己紹介をしいてるところに、さっきの女性がお茶を持って来た。

「どうぞ、お茶でものんでゆっくりしてください。そうそう、この子は沙織といいます。まだあなたが三才ぐらいの頃よく一緒にお父さんと見えてこの子と遊んでいましたよ。この子もあなたと同じ年です。今だに独り者ですがね」

健太郎と名乗る男性は娘の沙織を見ながら言った。

「余計なことは言わなくてもいいの」

娘の沙織は一郎に笑顔を見せながら言った。

「親父とどういう関係でしょうか」

健太郎や沙織が何の目的があって突然現れたのか不思議に思ってたずねた。

「そうそう、突然のことで不思議に思われるでしょうね。実は私達もこちらに引っ越してくる前は水俣に住んでいまして、お父さんと同じ組織にいましてね。一緒に活動をしていたんですよ。ところがある事情があってこの子が三才の時に熊本に引っ越してきました」

一郎はそういえば親父もある会社の通信部門に勤務していたが、事情があり若い頃退職したと言っていたことを思い出した。

「組織といえば、よく組合の行事や運動会、メーデーに連れて行かれていて、熊本であったメーデーにも行ったことがありました」

「そうあなたのお父さんとは同じ職場で仕事をしていました」

「どうして退職したんですか」

一郎は親父のことが知りたくてたずねた。

健太郎は湯のみを口に運び一口飲むと、昔を懐かしむように一郎と娘沙織の顔を見て話を続けた。

「実は二人は日本共産党員だったんですよ。あの頃は反動勢力が強くて、結果的に退職という形で解雇されたのです。それから私は熊本に引っ越して今の稼業を行っているんです」

そうなんだ、親父は共産党員だったのか。だからよく政治の話をしていたんだ。一郎は何となくそんなことではないかなと思っていたが、事実がわかり納得がいった。

「源治くんは退職してからも、昔から丈ていたエレクトロニクスをひそかに研究していて、亡くなる前に完成させてわたしに預けていたのです」

 一郎はだんだん、話が見えてきたように思った。そうかだから質札が送ってきたのか。

 「分かりました。でも先日の宅配の差出人お宅の名前ではなく親父の名前になっていたのですか」

 「わたしも、自分の名前にしようかと思ったのですが、名前も知らない者から質札が届いても信用してもらえないと思ったんですよ。親父さんの名前にすると興味を持ってもらって、連絡があると思ったものですから」

 健太郎は話を進めた。


 「実は、預かっていたものはこれなんです」

 金庫から取り出してきた木箱を開けると赤いスマートホンが出て来た。


 「このスマートホンは特別に源治君が作ったもので、アプリにダイヤリーと言うものがあります。そこを開いてもらうと源治君からのメッセージが入っています。その中にマイスケジュールという項目がありますから、これを開いて使ってくださいということです。くれぐれも紛失しないようにしてください」


 健太郎から受け取ったスマホをショルダーバックに入れるとお礼を言って別れた。

 「いつでもおいでください。暇な仕事ですので。それでは・・・」

 娘の沙織にもあいさつをして美濃屋を後にした。


 縁と言うものは不思議なものだな、ただ何となくこれで終わりではないような気持を感じながら帰りの新幹線に乗った。

 時折トンネルに入ると車窓に映る自分の顔があった。<親父に似て来たもんだなぁと思いながら、何でスマホを俺に渡したかったのか>と考えていた。帰ってからゆっくり親父のメッセージを見てみるかと思って車窓を見ると太陽は西に沈もうとしていた。


一郎は帰宅し家の掛け時計を見るともう午後6時を回っていた。

途中で買って来た惣菜を酒の肴にしながらスマホのダイヤリーを開いた。


「一郎元気でいるか。このメッセージを君が読むころには俺はすでにこの世に存在しないと思う。どうしてこんなことがと君は不思議に思っているかもしれない。もうすでに健太郎君から聞いたと思うが俺は日本共産党に所属している。君にも話をしたが小林多喜二という共産党員作家がいた。29歳で特高警察による拷問で獄死したことを覚えているだろう。当時は戦争に反対するだけで警察に捕まって拘束された。わたしは最近の世の中がまたきな臭い時代に戻ろうとしているように思えてならない。特に今の政権になってから、機密保護法、戦争法、集団的自衛権、憲法9条の改定への法案作成など、これまで作り上げて来た民主主義がことごとく壊されようとしている。そこで私はこのことを阻止し、本当に生まれてきてよかったという理想の社会をめざし、子どもたちに残さなければならないと思い生命をかけてある装置を作成し完成させることができた。この装置を使って私のやり遂げられなかった使命を君に託すことにした。かと言って俺の我がままを押し付けるのではない。きみがいやならしなくてもよい。その時はこの装置は廃棄してくれ。それでは元気にいろよ」

親父は何を言いたかったのだろうか。一郎はよくわからなかった。何を俺に託そうとしているのか。

そんなことを思いながら、マイスケジュールを開いた。

「一郎さんこんにちは、西暦で年月日と時間および場所を音声またはテキストで入力してください」

スマホが音声でガイドした。

良くできているものだと思いながら、何か予定はなかったかと同窓会の開催日を入力し、時間は30分早めとした。するとスマホがパッと緑色に光り、戻るには、「戻るの矢印キー」を押してくださいと音声とテキストでガイドした。

そして風景が一瞬で変わった。驚いた一郎があたりを見渡すと、同窓会の会場であるホテル「海と夕焼け」に居た。そこでは開場の準備で実行委員たちが忙しそうに動いていた。

一郎はスマホを見つめ<これは何だ、タイムマシンか>と思った。

慌てた一郎は実行委員に見つからないようにとトイレに駆け込んだ。

ところが、である、そこに実行委員の緒方君がいた。


「おっ、塚本君。早かったね。それにしてもその恰好はなんや」

一郎は、さっきパジャマ姿に着替えて、自家製のチューハイを飲んでいたのだ。

「いやいや、着替えようと思ってトイレに来たんだ」

とっさに言い訳をした。

「あっそうか。それでは後で」

慌てている一郎を何か変な奴という素振りで緒方は出て行った。

慌てた一郎は急いで戻るキーを押した。

すると瞬間にさっきまでいた我が家にもどった。

<なんや、これは>

まだ、チューハイを飲み始めただけで酔っていなかったことは事実だった。

<今日はいろいろあったから、もう寝ることにしよう>


一郎は、床についたがなかなか眠れなかった。

<なにか引っかかるものがあるようだ>そうだ父からのメッセージが気になっていた。

一郎は眠ることを諦めスマホのダイヤリーを開いた。

「追伸、ごめんごめん。肝心のことを書いていなかった」

父からのメッセージはまだ続きがあった。


昨日の出来事があまりにも衝撃的であったのか、父親のメッセージを理解できなかった。

一郎は、自家製チューハイのアルコール濃度を強めにし、あぶったイカゲソをくわえながら考えていた。しかしなかなか思考が前進しなかった。そのうち自家製チューハイとイカゲソの効果があったのか、上と下のまぶたが仲良くなり睡眠に入って行った。


一郎は爽快に目が覚めた。昨日のことは夢ではなかったのではないかと思いながらスマホの電源をオンにした。


「一郎さん、お早うございます。よく眠れたでしょうか」とスマホの画面にテキストが流れた。

なんやコイツ、俺の生活を管理しているのかと少し不機嫌になりながらも

「今日は何や」

と、スマホに話しかけた。

「今日は、スマホを手にして二日目でございます。あなたが今日学ばなければならないのは、マイスケジュールを使いこなす訓練をしなければなりません。いつでも自由に移動し、いつでも危険から逃れて帰ってきて、次の任務のために訓練を繰り返さなければなりません。もちろん、知能的にも運動機能的にも能力を高めなければなりません。そして、数日後運命の日が来るのです。さあ、訓練をする用意をしてください」


一郎は良く意味が理解できなかったが、興味もあったのでマイスケジュールを起動させた。

「移動する年月日と場所を音声またはテキストで入力してください」

スマホは課題を出してきた。


一郎は移動訓練を行い、一応間違わなく操作できるようになった。それと便利な機能も発見した。「戻るキー」は一回押すと前の場所に戻り。続けて二回押す二つ前の設定場所に戻るということが分かった。しかし、のちに分かるが「進むキー」には気づかなかった。


一郎は、昨日親父からのメッセージの追伸を思い出した。


「要するに私の使命は拷問で亡くなった小林多喜二を救出して蘇させることであった。そしてまた作家としての彼をこの世に出して戦争への道を食い止め、しいては理想の未来社会を誰にでも分かりやすく創造してもらうこと。そのためには、タイムトラベル機能を使って小林多喜二が亡くなった時代に行きその対策をおこなうことであった。

お前は、そんなことができるのかと思うかもしれないが、わたしが仕入れた情報に、小林多喜二は拷問により29才で虐殺された。死体の後始末を言われた警察医の助手がその拷問の時に切り取られた腿の肉片を冷凍保存した。この警察官は田口タエの女性の友達の夫であり、多喜二との面識もあつた。その遺物を入手して、後世で何とかしたいと思っていた。しかしそれが俺にはできなかった。だからお前がその肉片を入手し、タイムトラベルを駆使して多喜二を現代に復活させるのだ。その方法については任せる」

という親父のメッセージに<とんでもない事を考えていたんだなぁ>改めて感心すると同時に、そんなこと実現可能なのだろうかと思った。


また、「追伸」が出て来た。

「ごめんごめん、また言い忘れたが、お前ひとりでは大変だろうと思って、甲斐君の娘の沙織さんにもスマホを渡してある。そしてこのメッセージも伝えてあるので二人で協力して・・・。よろしく頼む」

<何だ、自分勝手に進めていやがって。俺の勝手だと言いながらすでに準備しているではないか>と思った。まあしかし、一郎も興味があったので沙織に連絡してみようと思った。


今日は朝から天気が良かった。隣の家の鶏が、<ケコ、ケコ・・・。コケ、コッコー>とセリフにひっかかりながら雄たけびを上げていた。いつもはうるさい鶏め、早く焼き鳥にして食っちまえと思っていたが、今日は<よし、言って来っでね>という感じで一郎は玄関を出た。


今日は、沙織と打合せをする必要があると思ったら、交通手段は新幹線でなく車の方がいいかなと思った。

と、その時思い付いた。いい移動手段があるじゃないか。そうスマホを使って移動すればいいんだ。

一郎はスマホに話しかけた。

「熊本市の美濃屋に移動」

「はい、分かりました。タイムトラベルではなく。現時限への初めての瞬間移動ですので、情報処理に多少時間がかかります。そのままお待ちください」

スマホはそう返事すると、画面から青白い光を発光していた。しばらくすると今度は緑色に変わった。とその時周辺の風景や音が変わった。

<あっ、ここは美濃屋の前だ>

一郎は、帽子を脱いで手グシで髪をさばいて、美濃屋の中に入った。

「こんにちは、あのーっ、塚本ですが、どなたかいらっしゃいませんか」

二回ほど呼んだ頃、沙織が姿を現した。

今日も着物姿だった。一郎は着物のデザインには疎かった。でも良く似合っていた。白地に赤い格子の柄が入っていて、年齢よりも若く見えた。


「あら、一郎さん。また見えたのですね。今日はどうやってみえましたか。やっぱり新幹線ですか」

「いえ、今日はスマホで来ました」

「えっ、大丈夫ですか」

「はい」

「具合が悪いんですか。こちらに掛けてゆっくりしてください」

「えっ、知らないんですか。スマホには瞬間移動アプリがついているんです。沙織さんにもスマホを渡してあると父が書いていましたけど」

沙織は確かに以前、一郎の父からスマホをもらっていた。しかし、冗談だろうと思っていた。

「そのスマホはまだ持っていますか」

一郎の問いかけに沙織はスマホを取りに奥に入って行った。

<なんか、話が違うじゃないか。きっと俺のことを変人だと思ったようだな>

やがて沙織がスマホを持って来た。

一郎は沙織からスマホをとり電源を入れた。そして自分のスマホを取り出して電源を入れると二つのスマホが白く光りだし「同期」を始めた。画面に「同期完了」と文字が現れた。驚いたようにスマホと一郎の顔を代わるがわる見つめる沙織であった。

「そうなんです。瞬間移動とタイムトラベルができると言うのは本当の話なんです」

まだ信じられないという表情で見つめる沙織にスマホを渡そうとすると、沙織は手を引っ込めた。

「嘘、そんなことあるはずがありません」


信じない沙織に一郎はこれまでの経過と体験を話した。

やがて信じてみようと思ったのか、沙織はスマホを受け取り指で画面を恐るおそる指で触り始めた。


「それでは試しにどこか移動してみますか」

そう言う一郎の顔を見て

「ちょっと待っててください」

沙織は着替えてきますと言って奥の部屋に向かった。

<やっと信じてもらえたか>ひと安心していると、着替えた沙織が小走りで姿を見せた。

ピンクの帽子をかぶり、黄色のТシャツに黄色いホットパンツで現れた。そして割と長い沙織の足につい見とれてしまった。

「あら、おかしいですか」

「いえいえ、しかしそんな恰好でまだ寒いんではないんですか」

一郎は沙織のあまりにも大胆な恰好に戸惑いながら尋ねた。

「大丈夫です。暖かいところにいくつもりですから」

「えっ、どこに。まさかハワイではないでしょうね」

「いえいえ、沖縄に行きたいんです。友達がいるから」

「まさか、観光旅行ではないんですよ。ゆっくりしている時間なんてありませんよ」

「大丈夫です。ちょっと友達の姿をみてきたいだけなんです」

「友達の住所は分かりますか」

「住所はわかりませんが、どうにかならないんですか。そう、Googleマップで探してはどうでしょう」

「えっ、住所が分からないのにGoogleでは探せませんよ。友達の名前は分かりますか」

「友達の名前は具志堅庸子さんです」

「それでは名前で検索しましょう」

一郎はスマホに向かって

「沖縄の具志堅庸子さんのところに移動」

と、話しかけた。

「分かりました。対象者は一名だけです。安全確認後移動します」

スマホはそう返事すると、二人のスマホが青白い光を発光し緑色に変わった。思わず沙織が一郎の腕をつかんだ。一郎は沙織と手をつないだ。その瞬間またもや周囲の風景と音が変わり赤瓦の塀の前に現れた。ここは真っ青な空がどこまでも続いているような沖縄であった。気温もそんなに高くなく気持ちが良かった。


「あら、早いのね、あっと言う間に着いてしまった。あまり旅の楽しさなんて感じられないわ」

一郎は握っていた沙織の手を放して周囲の様子をうかがった。すると赤瓦の家の横の方で洗濯物を干している女性の姿を発見した。

「ほら見て。あそこにいるのが友達ではないですか」

二人は塀の影から女性の姿を覗き込んだ。

「あら、庸子さんだわ。元気そう」

そんな沙織の声が女性に聞こえたのか振り返って二人を見た。

「しまった。見つかったかもしれませんよ」

振り返った女性は一郎たちの前に小走りに近寄ってきた。

その女性も白いホットパンツと白いタンクトップだった。髪は短く赤いバンダナを巻いていた。赤いサンダルを履いていた。

「あら、沙織さん。どうしてこんなところに」

不思議そうに尋ねる庸子に

「ちょっと旅行で来たの。でも元気そうでよかったわ」

しばらく二人を見ていた庸子は

「あーっ、そうなんだ。こちらの方が旦那さん」

どうも新婚旅行と勘違いしているようだ。しかし、まさか本当のことを言うわけにはいかないので

「妻がお世話になっています」

一郎はいかにも新婚旅行で来たかのように話を合わせた。

「あら、新婚旅行だなんて。わたしたち、まだ結婚していませんわ」

せっかく一郎が話を合わせたのに、沙織は否定してしまった。

「えっ」

しばらく庸子は考えたのか

「分かった分かった。まあーそういう事情ね。よくある話だと思うわ」

庸子は勝手に納得してしまった。一郎は体の中から熱くなってきた。同時に沙織がどんなことを言うのか気が気でなかった。


「でも良くここが分かったわね」

「感よ。わたし感がよいから」

そんな風に答える沙織に一郎はあきれ返った。

「そうね。沙織さんは昔から感が良かったから」

あっさりと受け入れる庸子に一郎は、またあきれ返った。

お茶でも飲んでいかないという庸子に、一郎たちは今日帰らなくてはならないからと言って別れを告げた。

「年賀状ちょうだい」

そう言う庸子に

「分かったわ。スマホに現在地登録しておくから」


見送る庸子の割とかわいい姿が見えなくなってから二人は手をつないで「戻るボタン」押した。

スマホが緑色に光り元の美濃屋に着いた。


「すごーい。本当に瞬間移動できたんだ」

目を丸くして驚く沙織に、少し疲れたのか一郎はお茶を注文した。

しかし、今まで考えていた沙織のイメージが変わったことだけは分かったのは確かだった。

少し気を利かせたのか、沙織はコーヒーを入れて来た。一郎のは白いカップで沙織のは赤いコーヒーカップだった。

沙織はシュガーを入れながら一郎にたずねた。


「ねっ、今後はどうするの」

せっかちで天真爛漫・春爛漫な沙織とこれから本当に付き合っていく自信が一郎にはなかった。


「実はね。親父はこのスマホを使って、社会を変えるようにメッセージを残したんだ」

一郎は父親からのメッセージを沙織に見せた。

しばらく読んでみて、驚いた沙織は

「すごい。未来がかかっているんだ。このままでは戦争が起こってしまうのではないかと言っているんですね」

「そう、だから今から85年前に特高警察に殺された小林多喜二を救出して現代で活躍をしてもらうようにということなんだ」

「過去に行って小林多喜二を救出して来るなんて、できるわけないじゃないの。もうすでに亡くなっているわけだから、そんなこと不可能だわ」

「確かにそう思う。でも何か方法があるのではないかと思うんだ」

二人は、小林多喜二のことを調べることにして、今日は別れることにして、一郎は「戻るボタン」を押した。

後で分かったことであるが、別れた後沙織は「進むボタン」を押してまた沖縄に行き一晩庸子宅で遊んでいたのであった。


調べて分かったことがあった。親父は「小林多喜二は拷問により29才で虐殺された。死体の後始末を言われた警察医の助手はその拷問の時に切り取られた腿の肉片を冷凍保存した。この警察官は田口タエの女性の友達の夫であり、多喜二との面識もあつた。その遺物を入手して、後世で何とかしたいと思っていた」

 父の源治は田口タエの友達の夫に逢いに行って、多喜二の冷凍保存されている肉片を入手しクローンを作ることはできないかと考えていた。


翌日、一郎は再び沙織に会って考えていることを伝えた。

問題もあった。確かに現在の技術でもクローン作成することはできる。しかし成長させるためにはその分の時間がかかってしまうのだ。つまり、29歳に成長するには29年の時間が必要なのだ。

とてもそんなに待てるものではない。そこで一郎は細胞増殖強化装置を使ってクローンを成長させるということを思いついた。

しかし、いつの時代にその装置があるのか、つまり何年未来にその装置は存在するのかを知る必要がある。


沙織が思いついたように言った。

「私達もずっと先の未来にいくのよ。そしてその時代のパソコンを使って検索したら、いつ作られたか分かると思うわ」

確かにそれは理論的には可能だろうと思われた。


一郎は2000年未来に移動するようにスマホに入力した。少し興奮していて言葉がつまり、何度か入力し直した。ところがスマホから予想もしない答えが返ってきたのである。


「現在の状態では、2000年先には行けません。ご存知のようにスマホを使ったタイムトラベルはその時代にインターネットが存在していることが条件になります。現在のような世界情勢では、つまり国連で決議した核兵器全面禁止条例をアメリカが拒否しているため、現段階では今後核戦争が起こり地球的規模の環境の破壊によって、未来が破壊されている場合があります。アメリカが核兵器全面禁止を守り核兵器をなくすことで動き始めると2000年先へのタイムトラベルも可能となります」


二人は困った。いいアイデアであったのに残念だった。しかしスマホの答えも理解できた。現在の社会情勢によって未来は作られていくわけだから、確かにそういうことだ。だから、現在の社会の在り方は現在だけの問題ではなく、未来社会にとっても大変重要な問題なのだと思った。

そんな時、ふっと親父の声が聞こえたように思った。

<頭脳を固定概念から解放せよ>と言っているように感じた。


一郎は目をつむり腕組みして考えた。

<そうだ、このスマホは未来をも網羅しているはずである、でないとあのような答えも返ってこないし、そもそもタイムトラベルもできないはずだ。だったらマイスケジュールのタイムトラベル用検索機能を使えば未来に行かなくても現在の範囲で分かるのではないか>と思い付いた。


「クローンの細胞増幅強化装置は何年に開発されるか」

と、スマホで検索した。

「今から200年後に完成しその10年後に使用されることになりました」と返事があった。

「そうだ、だとしたら多喜二の細胞を持って200年後の未来に行き、細胞増幅装置で成長させた多喜二のクローンを誕生させるのだ」


一郎たちは、多喜二の肉片を手に入れるために過去にさかのぼることにした。多喜二は1933年に死亡した。そこで田口タエの女性の友達の夫に逢うことにした。スマホで田口タエの女性友達で夫が警察医助手を検索した。

女性の名前は畠山みさ子と言い、その夫は畠山徳次郎と言った。


一郎たちは、スマホに1993年小林多喜二の死亡日時の2月21日午後5時、場所は築地署前と音声入力した。

スマホが「安全確認がかなり困難ですが続けますか」と表示した。

「どうする。大丈夫かな」

戸惑っている一郎に

「大丈夫よ。危険だったらすぐに戻るボタンを押したらいいわ」

沙織の発言に心強さを感じ一郎はタイムスリップを決断した。今度は黄色く発光した。そうなんだ、緑に発光するのは安全で黄色は注意ということか。信号機の色なんだと思い付いた。

二人は木造の築地署に着いた。

「ここで今多喜二が拷問に合っているということだ」

一郎が声をひそめて沙織に話しかけた。沙織は眉をしかめて辛そうにうなづいた。

「やがて多喜二の遺体がうらの築地病院に移動される。その間に畠山徳次郎を見つけるのだ」

沙織は頷いた。


築地署のドアが開いた。慌てて担架で運ぶ白衣を着た医師が出て来た。その後をニヤリと笑いながら二人の特高らしき者が出て来た。警視庁特高ナップ係の中川成美やその部下であろう。

一郎たちは前もって持って来た白衣を着て築地署に入って行った。

「何だ、お前たちは」

中で掃除をしている警察官が聞いた。

「はい、後の消毒に来ました。薬品を巻きますのでしばらく外で待っていてください」

如何にもなれた様子でこなす沙織に一郎は感心しながら警察官に頭を下げた。

「早く片付けろよ」

警察官は何も疑わずに外に出て行った。

部屋の中は酷かった。まさに豚の解体が行われた後のように至る所に血の跡があった。

当たりを見渡すと、たった今準備したのか、部屋の隅の机の上に瓶に詰められた肉片があった。

「たぶんこれだよ」

沙織は肉片を取り出しカッターナイフで切り取り消毒箱に似せたクーラーボックスに入れた。

「畠山さん、終わりましたよ」

沙織は警察官の名前を確認するようにあいさつをして出て行った。

「おっ、ご苦労さん。割と早かったな」

警察官は軽く手を上げて部屋の中に入って行った。


「何じゃこれは、まだ汚れているじゃないか。全く最近の若い連中はまともに仕事もできない」

と、言いながら真っ赤に血で汚れたシーツで床の飛び散った血のりを拭き始めた。


「間違いないわ。あの畠山という警官医助手だわ」

一郎はとっさにこなす沙織の器用さにまた感心して頷いている自分に気づいた。

二人は一度現代に戻ることにし、沙織の家に着いた。あたりはすっかり暗くなっていた。


「おお、帰って来たか。無事でなにより」

沙織の父甲斐健太郎がコーヒーを飲みながら、老眼鏡の奥から話しかけた。

「ただいま。予定通りに検体は手に入れたけど、うまくいかないみたい」

沙織は、健太郎にこれまでのことを話した。

「そうか、それは大変だったな。調べるのならそのスマホで検索してごらん。未来に繋がっているスマホだからきっとヒントが見つかると思うよ。まあ、今日は疲れただろうから、お風呂にでも入ってゆっくりしなさい」

「そうね。一郎君今日は一緒にご飯を食べて泊まっていったら」

誘う沙織に健太郎も頷いていた。

「家に帰っても食べるものもないし、甘えさせてもらいます」

一郎は、お風呂に入り、健太郎の普段着を借りてくつろいだ。


湯上りの沙織は石鹸の香りを漂わせながら一郎の隣に座った。

「それじゃ、乾杯でもするか」

一郎は沙織のお酌でビールを飲んだ。

美味かった。久しぶりに飲んだビールで疲労と緊張感から急に解放されたようで、いつもより早く酔いが回った。


「おはよーっ」

そんな明るい声に一郎は起こされた。

「いつまで寝ているの、もう朝の八時だよ」

沙織はだんだん親近感を覚えたのか、言葉遣いが変わっていた。

一郎も同じようで親近感を持っていた。

「あっ、おはよう。つい寝坊してしまった」

「ほら、朝ごはんを用意したわ」

沙織の後をついて一郎はキッチンに着いた。

「一郎君ゆっくり眠れたかね」

「はい、とても気持ちよく眠れました」

「はい、わたしも気持ちよく眠りました」

沙織は笑顔で話した。

「はははは、二人は相性がいいようだ」

一郎はまんざらでもない自分の気持ちに少し赤くなったようだ。

「あら、一郎さん顔が赤くなったわ」

一郎と沙織は顔を見合わせて笑った。

「お前だって赤くなっているぞ」

健太郎は笑いながら言った。

久しぶりの朝食は家庭料理の味がして懐かしかった。


二人は沙織の部屋でこれからのことを話し合った。

二人は多喜二のクローンを作って、増幅強化装置で成長させても多喜二の記憶は残っていないことに気が付いた。

「やはり、無理だわ」

沙織はあきらめて言った。

「何か方法はないのかな」


「あなたのお父さんが言っていたクローン計画は問題がありできそうでないわ」

「だとしたら、どうしたらいいかな」

「そうね・・・」

しばらく考え込んでいた沙織が

「そうだ、このさい多喜二本人を連れて来たらどうかしら」

「えっ、だって多喜二は殺されたではないか」

「だから、殺される前に多喜二を救出するのよ」

「そしたら、歴史が変わってしまうではないか。そんなことはできないよ」

「大丈夫、代わりに誰かと取り換えるのよ」

「そんなの無茶だよ。だいたい代わりになるものなんていないし、顔を見ればすぐにばれてしまうよ」

「そうね」

二人はまた考え込んでしまった。

「まぁ、コーヒーでも飲みましょうか」


二人は居間でコーヒーを飲んだ。テレビでは娯楽番組が放送されていた。

「いつ見てもうまいわねコロッケの物まね」

「そりゃープロで経験も豊かだからね」

テレビではコロッケが五木ひろしのロボットを演じていた。

二人はあまりにもおかしく笑った。

「よく似ているなー、そうとう研究しているんだね」

と、その時沙織の表情が変わった。

「そうよ、変装すればいいんだわ」

「えっ、変装」

「そう、誰かを多喜二に変装させればいいの」

「そういうけど、簡単にはいかないよ。誰を変装させようと言うんだ」

「多喜二はあれだれけの拷問にあって殺されたのよ。それはいったい誰の性かと言うと、警察のスパイの三船留吉の性よ」

「そうか、三船と多喜二をすり替えればいいのか。しかし、どうやってすり替えるのか、また仮面はすぐにはぎとられてばれてしまうし」

「そこよ、ポイントは」


二人はいろんな方法を話し合った。そしてこの計画を実行するためには三つの条件をクリヤーしなければならなかった。

つまり、

①多喜二に接触して納得させること

②三船留吉に仮面をつけること

③仮面がはがれないようにすること

まずは、高い精度の仮面を作成するところを見つけなければならなかった。

二人は「変装技術」と「仮面」で検索した。すると以外にも近未来にその技術があった。

それは、映画を作っているハリウッドにあった。しかし、その仮面はすぐに脱げるものであった。


 二人は仮面の接着技術を検索した。

200年後には、手術の傷口や皮膚の移植である方法で完全に接着し皮膚と同化する技術があることを知った。その研究室が存在していることを確認し、さっそくスマホで200年後にタイムスリップした。


200年後にタイムスリップした二人が見た風景は以外にも環境が良く。空は青く澄んで、高層ビルはほとんどなくなっていた。

二人は空中を飛んでいる自動車みたいなものを見て驚いた。

「自動車が空を飛んでいるわ」

「そうだね。仕組みはどうなっているんだろう」

「建物も少なくなっているわ」

「空を飛ぶ自動車など空中の交通量が増えたので邪魔で危ない高層ビルは少なくなっているんだろうね」


二人はある大学の研究室に向かった。

「その研究室には多部千佳という研究員がいるらしいの、田口タエの友達の畠山みさ子の子孫ということよ」

いつの間にか沙織は調べていた。


色とりどりの花に囲まれた小高い坂道を右手に海を見ながら登って行くと白い建物の前に着いた。大学とは離れて小さな家の白い壁に「未来研究室」と小さく表札がかかっていた。


「すみません。どなたかいませんか」

ドアホーンを押しながら沙織が声を上げた」

奥の方で人影がすると白衣の女性が現れた。

割と背は低く、ショーカットの髪が良く似合っていた。

「こちらに多部千佳さんという方はいらっしゃいませんか」

たずねる沙織に

「私ですけど」

と、両手で髪をなでながら返事をした。

「そうですか、会えてよかった」

「どちら様でしょうか」

「すみません。私達はこちらで皮膚と融合する物質を作っているときたいものですから」

すると多部千佳は驚いたような表情を見せた。

「ここでは何ですので、室内にどうぞ」


ふたりは千佳の案内で研究室の中に入って行った。しばらく進むと白壁にいろんな小さな絵を飾ってある部屋に通された。


「すみませんが、何故あなたたちはそのことをご存知なのでしょうか。まだ完成したばかりで発表してはいないのですけど」

「そうなんですか、未発表の段階でしたか」

不思議そうにしている千佳に、この間のことを沙織が話をした。最初はまじめに聞いていた千佳も次第に信じられないことを言っているという表情に変わっていた。


「そんなことはとても信じられないわ。だいたいタイムトラベルなんて物語の中のことですよ」

一郎と沙織は顔を見合わせ、ある確信をしたように頷きあった。

「それじゃ、これを見てください」

沙織がバックから取り出したスマホを見せた。

「何ですかこれは、随分時代遅れの通信機ですね」

千佳はそういうと

「いまは、これです」と耳に付けているピアスを指さした。

「えっすごい。こんなに小さいんですか。それで聞こえるんですか」

「ええ、大丈夫です。この中にある脳波計みたいなものがその人の聴力を調べて耳の中で音量が増幅される仕組みになっています」

一郎と沙織は顔を見合わせて驚いた。

「ついでに聞きたいのですけど、地上にある建物や自動車・バスなどは何処に行ったんですか」

あきれたように一郎と沙織の顔をみていた千佳は一通り説明することにした。


「高層ビルはすべて地下にあります。地上は歩行者専用で地上10メートルは自力飛行体(空飛ぶ自転車みたい)。30メートルからは動力飛行体(空飛ぶ自家用車みたい)。それ以上は公共飛行体バスみたいなものとなっているのです」

「空を飛んでいる物体はどんな仕組みになっているですか」

「技術革新が進んで、発泡スチロールのように軽いけど強度がある磁器物質を作ることができて、地球の磁場を利用して飛行しているんです。原発はないわ。エネルギーは体温を利用してもできるし、昼と夜の温度差を利用してもできるのよ」

「すごい」

驚く二人を見て千佳は彼らが言っていることが本当なのか少し信じることができるように思った。


「もし、あなたたちが言っていることが本当だとしたら、私の住んでいる時代について興味あると思うので、少しお話をしましょうね」

二人はこの社会が自分たちの住んでいる時代と比べてどう変わっているのか大変興味があった。一郎は身を乗り出すようにして言った。

「ぜひ、教えてください」

「この時代の人々は自分の時間を大切にしているの、労働時間は一日に二時間よ。他の時間はスポーツや文化・趣味・ゲームなど自分が人生で目標とするものなどに充てているわ。パチンコやスロットマシンはゲームとして無料となりギャンブル依存症はなくなったわ」


「どうしてそう言うことができたのですか」

「それはね。100年前に小林多喜二となのる人物が現れて、自分たちの手で、社会の未来像をつくるという国民運動が起こり、政党を市民運動団体などが共同して作っり『日本国民共同』という政党名にした。それが国民に支持され毎回の選挙で確実に議席を伸ばし、より一層高い次元の『未来社会を創造する国民の会』が生まれたの。そしてその代表に小林多喜二が選出されたのだけど、反動勢力からの激しい弾圧を受けても、小林多喜二はものともせず、ついに『格差のない。国民が主権者の社会』像を作り上げて国民に示したの。このことに多くの国民が賛同し、各自治体ごとや町内会、学園、労働組合などにも『未来社会を創造するわたしたちの会』が誕生していったわ。そしてその政権と国民がまず始めたのが、現在余っている米などの食料品を無料にしたのよ。やがてそれは日用品や医療・住宅費まで無料となっていき、食料も計画生産によって食料不足はなくなり、国民全体が豊かになったわ。そして税金はだんだん必要ではなくなり、国民が参加して作り上げた『わたしたちの社会』は国民からの意見などでより豊かに発展して行き、まさに『格差や搾取のない、平和で自由・平等・博愛』の社会として定着してきたのよ」


「えっ、そしたらこの時代は社会主義・共産主義の社会になっているんですか」

「いいえ、社会主義とか共産主義とかいう社会制度ではなくて、ここにある社会は豊かな未来社会をめざしているんです。まあ、言えばみんなが家族みたいな社会です。お互いが信頼と愛情でつながっているんです」


一郎も沙織も驚いて開いた口が塞がらないという感じだった。

「さあ分かったぁ。今度はあなたたちの番よ。あなたたちがタイムトラベルをして来た証拠を示して」

二人は千佳の壮大な話に当たられたのか、少し頭が痛くなっていた。

二人はどう説明するか考えていたが、この場でタイムスリップして見せることにした。

「いいわ、今からその小林多喜二に会わせるわ。しかしそれはいまから約三百年前の時代よ」


一郎と沙織は千佳の手を取りスマホに向かって音声入力した。

「1993年2月13日小林多喜二」

スマホが緑色に光ったかと思うと拷問に合って横たわっている多喜二の前に現れた。そこでは約30人の多喜二の仲間たちが集まって、多喜二の遺体を取り囲んだ怒りと悲しみの場所であった。

多喜二の母親が遺体にすがるように泣いていた。周囲から嗚咽が聞こえて来た。隅の方でハンカチで涙をおさえているのが、田口タエらしい。


「どう、これで信じる」

沙織の声に千佳は目の前のあまりにも残虐な光景に言葉を失っていた。


「戻ろう」

一郎の意見に従って戻るボタンを押した。

研究室の元の部屋に帰って来た千佳は、あまりにも耐えられない光景を見たために座っていることもできず部屋の隅にあつた白いソファーに横になった。


「これが真実なのよ。だから協力してくれない。私達は小林多喜二が特高にとらえられる直前に行き、多喜二を救出しようと思っているのよ」


やっと体を起こした千佳は、

「100年前に現れた小林多喜二という人とそっくりだったわ。歴史の教科書に載っているけど同一人物だとは思わなかったわ」

「そうよ、今の時代があるのは多喜二が救出されたからあるのよ」

沙織の言うことは説得力があった。

「そうね、そういうことね」

千佳は二人の言うことを信じることにした。


千佳はコーヒーを入れて来た。コーヒーの味は昔ながらの味で代わっていなかった。


「どうすればいいの」

そういう千佳に沙織はバックから出した仮面を見せた。

「どう、似ているでしょう。小林多喜二の仮面よ。ハリウッドの仮面製作所で作ってもらったの」

「そうなんだ」

いつの間にか沙織がハリウッドで仮面を入手していることに、一郎は頷いていた。

「実は、これと同じものをここの技術を使って作ってもらいたいの」

「分かったわ、ただ一つ注意しておくわ。私達が作成した人工皮膚は瞬間的にその人の皮膚と同化して二度と生きている間は外れなくなるの。皮膚呼吸を利用して同化しているためよ。だから汗も出れば怪我をしたら血も出るのよ」

「分かったわ、急いでお願いしたいのだけど」

「3Dプリンターですぐに出来るわ。少し待っていて」

千佳は仮面を持って研究室の個室に入っていった。


一郎と沙織は出来上がった仮面を持って、さっそく多喜二が特高に捕まる前にタイムスリップした。運よく多喜二はすぐに発見したが、今度はどうやって多喜二を説得するかだった。多喜二が先輩と打合せの場所に向かうところに一郎は現れた。


「小林さんですね」

急に現れて声をかけられたことに驚いた多喜二は

「あなたは、誰ですか」

鼠色のハンチング帽子をかぶり黒いマフラーをしていた多喜二は振り返った。

「あなたの身に危険が迫っています。三船という男をしっていますか」

多喜二は黙っていた。怪しい人物だと気を付けていたのかもしれない。

「三船は警察のスパイです。この後あなたは特高に捕えられて、拷問による取り調べで命を落とすことになるんです」

「どうして、そんなことが君に分かるんだ」

「信じてもらえないでしょうが、私は未来からきたのです」

「だったら証拠を見せなさい」


一郎は小林多喜二が拷問に合って亡くなった時のインターネットからダウンロードした写真を見せた。

「なんだね、これは」

「あなたの遺体の前で悲しんでいる人たちです」

多喜二はしばらくその写真を見ていたが、やはり作家という性格で物事は意外性があることを分かっており、信じたようであった。


「ではどうしたらいいのか」

「わたしと一緒に来てください」

一郎は多喜二の手を取ると、戻るボタンを2度押して、沙織の家に帰った。


一方、沙織は三船を見つけて後をつけていた。三船は黒いコートに黒のハンチングで、鼻の下あたりまでマフラーで隠すようにして歩いていた。


「三船さん、私は秘密警察の物ですが、今多喜二の同志があなたを探していましたよ。此処に変装道具がありますので付けてみませんか」

三船は驚き、周辺を見渡し家の影に身をひそめた。

そして沙織の顔を見て、ニャリと笑った。

「ほう。女の警察も居るのか、初めてだな」

沙織が変装道具の仮面を三船に見せると

「良くできているな。小林にそっくりではないか」

そう言って疑うこともなく頭からすっぽり被った。沙織は丁寧に仮面を密着させた。

その直後に多喜二の同志が現れ、多喜二に変装している三船を見つけると。

「おう、小林君。三船を見なかったか。あいつは警察のスパイだ。君も用心しろよ」

と、あたりを見渡しながら声をかけて行った。


三船は安心して仮面を外そうとしてもなかなか外れない。

すると警察が通りかかったので三船は警察に外してもらおうと近寄った。


「小林多喜二さんさようなら」

沙織はわざと大きな声で言って消えた。

その声を聴いた警官は

「なに、お前が小林多喜二だな」

と気づき特高を呼んだ。

「ここに、探している小林多喜二がいるぞ」


特高等は三船を取り囲んで、

「治安維持法で逮捕する」と腕をつかんだ。

「違う、俺は小林多喜二ではない。三船だ。警察のスパイの三船だ」

「何を寝ぼけたことをいう。全然違うぞ。三船はもっといやらしい顔だ」

特高は三船を囲むようにして連行した。


取調室で三船は暴れた。

 「よく見てくれ。俺は小林ではない。間違いだ。俺の顔を忘れたのか貴様ら」

  多喜二の仮面は三船の皮膚としっかり同化していて、三船も仮面を付けているという感覚は無くなっていた。

 「なに。偉い態度じゃないか」

  特高が持っているこん棒が、三船の大腿部にくい込んだ。内出血で三船の大腿部は黒く腫れていた。爪ははがされ、血がしたたり落ちていた。腕をロープでしばり宙づりにされ、失神すると水をかけて意識を取り戻させ、拷問は5時間あまり続いた。

 「お前が小林だと認めるのならもうやめてもいいぞ。どうする」

  三船はもう声も出なかった。振り絞るようにして小さな声で

 「お願いだ、俺は三船で小林ではない」

  と言う三船の口元に耳を近づけて聞いて

 「しぶとい奴だ」

 特高氏は思い切り腹部をこん棒で殴りつけ

 「そんなにいうのなら、鏡を見せてやる」

 特高は三船の髪を掴んで鏡を見させた。

 三船は驚いた。鏡に映っているのは、まぎれもない小林多喜二であった。

 「何だ、これは・・・」

 「どうだ、納得したか。お前は小林だ」

 三船は観念した。声を振り絞って言った。

 「そうだ、おれは小林だ」

 三船が認めると

 「死ね」

 と、叫んでこん棒が心臓をたたいた。三船は「うっ」といい失神した。

 「これで、小林は死んだ」

 特高の声が遠くで聞こえていたが次第に三船の体から力がなくなっていった。

 あたり一面は血の海と化していた。


 いったん現在に戻った二人は、これまでのことを多喜二に話した。

 しかし、多喜二は受け入れられないといった様子だった。

 「もし、君たちが言っていることが本当だとした場合、わたしの遺体を囲んで悲しんでいる仲間たちに真実のことを伝えなければならないと思う」

 多喜二が言っていることは心情的に理解できた。


 「それでは、こうしましょう」

沙織の提案は多喜二の葬儀が終わってから、仲間たちの前に姿を現して説明することにしましょうと言うことだった。


 一晩、多喜二と一緒に沙織の家に泊まり疲れを取った。

 テレビを見て多喜二は驚いていた。

  お風呂に入ってシャワーが出たり、適温のお湯が出たり、水分で出来た石鹸を見たり、驚きの連続だった。


 翌日はどんよりとした雲が空一面を覆い、今でも大雨が降りだしそうだった。

三人は多喜二の葬儀の場にタイムスリップした。


暗い電灯の元に、みんなが集まっていた。

「なんであんなひどいことをするんだ。何も悪いことはしていない。みんな国民の平和のために取り組んでいるだけではないか」

リーダーと思われる男性が怒っていた。

「そうだ、なにも殺すことはなかろう。これも天皇絶対主義が起こした犯罪だ」

小柄な体つきではあるが、負けず嫌いな性格らしい男性がいった。

「わたしの大事な多喜二さんを返して」

女性が手を合わせた。


そんななか、一郎と沙織はみんなの中に入っていった。みんなは急に現れた変な恰好の男女に驚いた。一郎は沙織がホットパンツをはいていたことに驚いた。なんでもっとチャントした格好にしなかったのか。小さな声で沙織につぶやいた。沙織は仕方ないじゃない、時間がなかったんだからと平然としていた。


「皆さん、多喜二さんは亡くなっていません」

沙織が話をすると、沙織を取り囲むようにして

「何を馬鹿なことをいう。さっき葬式がすんだばかりじゃないか」

「違うんです。あれは変装した三船です」

「なに、あの警察のスパイの三船か」

「そうなんです。絶対に外れない多喜二さんの仮面をかぶっていたんです」

「どうして、そんなことをする必要があったんだ。信じられない」

沙織は多喜二と三船が入れ替わったことを話した。

しかし、皆はとても信じられないという顔をしていた。


「それでは、多喜二さんを呼びます」

沙織は多喜二を呼んだ。

拷問を受けてずたずたにされて死んで行った多喜二の姿がまだみんなの脳裏に残っていた。そんなところに多喜二が現れた。


「皆さん、小林です。ご心配をかけました」

一瞬、驚いて、皆はお互いの顔を見つめあった。

「本物の多喜二さんです」

本当なのか確かめたくて、多喜二の顔を触ったり、手を掴んだりしていたが。

「こりゃ、本物の多喜二だ。間違いなか。幼い頃から知っている多喜二だ」

五十代半ばの男性が声を上げた。

喜ぶみんなの顔に涙があふれていた。


「どうして、こんなことになったんだい」

まだ不思議そうに聞いてくる仲間に

「いま、沙織さんが話した通りです。危うく特高に捕まるところを助けてくれたんです。


しばらくの間多喜二を囲んで話をしていたが。

「多喜二、これからどうするんだ。お前は死んだことになっているんだ」

「はい、わたしは、彼らと一緒に行きます。そしてまたこの国民のために働きたいと思っています」

「何処に行くんだい」

「それは、皆さん信じられないかもしれませんが、これから約百年後の未来に行きます。もう、皆さんとあえることはありませんが。皆さんのことは忘れません。ありがとうございました」

多喜二はそう言うと別れを惜しむ仲間たちと握手を交わした。


「さあ、行きましょう」と一郎と沙織に言った。

「本当に行ってしまうのか」

「はい、ありがとうございました」

「それでは、行きましょう。私達が住んでいる時代へ」

一郎と沙織は多喜二を挟んで手をつなぎ、戻るボタンを押した。

スマホが緑色に発光すると

「おお、何だ。今のは」

驚く仲間たちを残して現代へとタイムスリップした。


一夜明けると沙織の部屋で一郎たちは今の時代について多喜二に話をした。

そして、多喜二は図書館に通い歴史や戦争のこと、非合法の共産党が国会で論戦し社会変革のために尽くしていることなどやIT技術、医学、科学、社会保障制度、国際問題など多くのことを学んだ。


そして、やがて多喜二が来て一年を迎えようとしていた。

最近では一郎も多喜二も沙織の家に住み着いていた。


多喜二が

「ここ2.3日沙織の姿が見えませんね」と言った。一郎も少し気にはしていたが、半分静かでいいと思っていた。


そんなところに沙織の声がした。

「ただいま帰りました」

一応、居なくなった沙織を心配していた一郎と多喜二は沙織のファッションを見て驚いた。

「何じゃ、その恰好は」

「ああこれ、チョット100年後の千佳さんのところに行ってきたの」

長い髪は黄色のリングで巻かれで植木のように上に伸びていた。腕にも赤いリングがいくつもあり、首にも足にも赤いリングがしてあった。

「何じゃ、その恰好は」

再び一郎は沙織に言った。

「これは、今じゃない。100年後のこの時期にはやっている『輪っかファッション』っていうの。どう似合うでしょう」

沙織の姿を見て一郎と多喜二はあきれてしまった。


「それより、大事なことがあるの。千佳さんを連れて来たのよ」

以前勝手にハワイ旅行にいっていた沙織の性格を思い出した。


「こんにちは、お久しぶりです。今日はついて来ちゃった」

なんと、沙織の後ろからあの100年後の社会の多部千佳が現れた。

「えっ。こんなことして大丈夫かい」

「多喜二さんだって同じじゃない」

そう言われてみると確かにそうだと思った。


「わたし、どうしても多喜二さんに会いたくてついて来ちゃったの」

「この千佳さんは多喜二さんを救出するために、無理を言って手伝ってもらったの」

沙織は千佳を多喜二に紹介した。

白衣姿ではなく、普通の女の子という感じで、沙織よりかわいいと思った。そのことを沙織も感じ取ったのか、口をとんがらせて一郎を睨んだ。


多喜二はどこかで見たことがある女性だと思っていた。


「初めまして、多部千佳といいます。25才です。私の先祖は畠山みさ子といって多喜二さんがいた時代では田口タエさんの友達だということでした。わたしは先祖が小林多喜二の生涯に関わっていたことを知り、調べてみたのです。すると畠山みさ子の娘は実は田口タエさんから預かった子どもだと知りました。つまり、わたしは田口タエ子の子孫だということです。なんかこんがらかってきますね」と笑った。


多喜二は思い出した。そうだ田口タエの若い頃に似ていたのか。よく見ると目もと、口もとがよく似ていると思った。


 4人と沙織の父の共同生活が1ヶ月ほど続いた。多喜二と千佳はすっかり仲良くなって沙織がうらやむほどであった。


 4月のある日多喜二がみんなの前で話した。

「この間、こちらの時代に来て多くのことを学びました。もうここらで次の道に進まなくてはならないと思っています。つまり私を必要としている100年後に行きたいと思います」

 突然の多喜二からの報告に皆は驚いていたが、やがて納得した。

「そうだね。君の本当の役割はこれからだと思うよ」

 その場に現れた沙織の父甲斐健太郎は賛同した。

 沙織は少し不服そうであったが、仕方がないとあきらめた。すると急に千佳が手を上げた。

 「何だい、千佳さん」

 多喜二から当てられた千佳は

 「わたしも多喜二さんと一緒に行きます。そして多喜二さんのお役に立ちたいと思います。どうか私も連れて行ってください」


 またもや、一郎は驚いた。

 沙織は当然のように拍手をした。

 多喜二はそのことを予感していたらしく、大きく頷いた。


 その夜は突然の送別会になった。

 多喜二が好きになったウィスキーも飲んだ。一郎も本物のビールをうまそうに飲んだ。


 千佳が作った特別の料理は、まだ今の時代にないものだった。材料は水と植物の根ということで、「グラスープ」と言うらしい。一郎たちには驚いた。特に糖分や塩分が入っているわけではないが、幸福感を味わう食べ物であった。多喜二は特に美味そうに食べていた。その様子を見て、一郎と沙織は微笑んだ。


「私が住んでいる時代では、食べ物はその『精』をいただいているの。余分な調味料などは入れないのよ。だから糖尿病の人も高血圧の人もいないわ」

沙織が興味深く作り方を聞いた。

「食材をこうやって両手で挟むと温かくなるわ。これはいわゆる儀式みたいなものだけど、いまからいただきますと感謝の気持ちを込めるのだけど、ほら、こうやって両手で挟んでみて」

 一郎も沙織も多喜二も千佳から言われるとおりに食材を両手で挟んでみた。なるほどしばらくすると食材が温かくなった。

「ねっ。そうでしょう。そして30度ぐらいのお湯に入れるの、その後は60度以下の温度でしばらく熱を通すのよ。なぜかと言うと、60度以上の温度では「精」が壊れてしまうからよ」

 

 続いて、一郎が切り出した。

「せっかくだから、千佳さんが住んでいる時代のことを話してくれない」

「いいわ、わたしが答えられるものはお話しするわ」

「じゃーまず、国際紛争はどのように解決しているの」

沙織の問いに

「紛争なんてないわ、北朝鮮も韓国も中国もロシアもみんな友達よ。世界中の国々が友達なの。だって紛争になる原因が存在しないから」

「アメリカはどうなったの」

「そう、諸悪の根源のアメリカは最後まで友好条約に反対したわ、だって、金儲けの軍需産業にとって戦争がなければ倒産してしまうからね。ただ、アメリカ国民がアメリカという国に嫌気がして、もともとアメリカは移民の国でしょう。だからアメリカから出て行ってしまったの。そしたら国の資産が底をついてしまって、国自信が存在できなくなったのよ。今では食料貯蔵や農業を中心とした役割を担っているのよ」


「天皇はどうなったの」

「皇室は自分から失くしたわ。国民生活が豊かになり、自由に時間も使えるようになったら、皇室の人たちも、『私たちも自由がほしい』と言って、憲法の基本的人権を訴えてデモ行進をした。それに多くの人たちが賛同して『一般国民』の権利を勝ち取ったのよ」

「そうなんだ、本当の自由ってすごい力を発揮するんだね」

「そう、武器も核兵器もなくして、これからは政府も無くなり政党もなくなり、国境も無くなって本当の自由世界が出来上がるわ」


みんな千佳の話を真剣に、憧れをもって聞いていた。

「だいたいのことは話したわ。まだ途中の部分もあるけど、方向性は世界中で確認されているのよ」


「ありがとう千佳さん。私たちも元気が出たわ」

沙織の質問に頷きながら聞いていた一郎の目が感動で潤んでいた。


外はそよ風が吹き、庭に植えてあるレモンの若葉の香りがただよい気持ちのよい朝であった。

朝食を済ませた一郎、沙織、多喜二、千佳は、今一度手を取り合った。


「それじゃ、お別れね」

一郎と沙織はスマホを多喜二と千佳に渡した。


「私達の役目は終わったわ。これから、あなたたちが旅立つのよ。その時代に生きて二度と戦争が起こらないようにしてね。そうだ記念写真を撮らない。未来に残る写真になるわ」


多喜二と千佳が並んだ。その横に一郎と沙織と健太郎も並んだ。


その時一郎は<どこかでこの光景は見たことがある>と思った。ふと沙織の手を見ると質札を持っていた。なんでと思ったが深く追及しなかった。


多喜二と千佳は二人からスマホを受け取ると「○○○○年○月○日」と音声入力した。スマホが緑色に発色すると二人は一郎たちの前から消えた。


そよ風に乗って「ありがとう。さようなら」という二人の声が青い空のかなたに飛んでいった。


「さあ、これで終わったね」

「うん、終わったわ」

「僕ももう帰らなくては」

「だめよ、私はあなたを放さないから」

一郎はスマホで移動しょうとポケットを探したが、もうスマホは無いことに気付いた。

「残念ね、一郎さん。うふっ」





終り


・・・長い間最後までお付き合いして頂いてありがとうございました。・・・


塚本一郎



【主な登場人物】

田口タエ1097生まれ多喜二の初恋の人

(102才2009年6月19日死去) 

小林多喜二日本共産党員・作家

(1903年生まれ1933年特高の拷問により29才で死去)

塚本一郎父塚本源治の息子・作家志望

塚本源治一郎の父

甲斐健太郎質屋の店主で父源治の友人

甲斐沙織父の友人の甲斐健太郎の娘

具志堅庸子      甲斐沙織の友人(沖縄在住)

畠山みさ子田口タエの友達

畠山徳次郎畠山みさ子の夫で警察医助手

中川成美多喜二を拷問した特高刑事

三船留吉警察のスパイ

多部千佳畠山みさ子の子孫で一郎と沙織の理解者になるある研究員


非雇用で働く若者たちが増える一方で、一部の富豪がますます肥え太る、そして国民の税金を使い格差社会を進める政治。特に「機密保護法」「戦争法」「集団的自衛権」「憲法九条の改定」「共謀罪」を進め、国民の基本的人権を破壊して戦争への道を進めようとしている今の政権が、小林多喜二が生きていた時代に何となく似てきていると思うのは私だけではないのではないかと思い。この現実を変えて、若者たちを中心に国民が豊に住める国とはどんな社会なのかを、この作品を通して「考えてみる」一助になればという思いで執筆した。

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