悪魔の出現
「ジリリリ・・・・」
リンガーは眠気に抗いながら、音の発生源に意識を向けた。少しでも気を抜くと睡魔に意識を持っていかれそうだと感じ、意思を振り絞って時計をつかんだ。すでに鳴りやんだ機械時計は、いつもと同じ時間にセットしたにもかかわらず10分も後ろを指している。
「昨日飲みすぎたかな・・・」
リンガーは重い頭を引きずりながら、枕元の眼鏡を手に取る。開いてるんだかわからない目をこすりながら、洗面台へと向かった。昨年完成したばっかりの水道を捻って、顔を洗う。ようやくはっきりした頭で、鏡に映った自分の姿を目にしてため息をついた。自分の服装が騎士団の制服だったのだ。
(昨日はそのまま寝てしまったのか・・・)
後でしわを伸ばす手間を考え、苦々しく感じながらクローゼットを開いた。一介の騎士に過ぎないリンガーにとって装備品は国からの貸与品で、家に持ち帰ることは許されていない。生憎と、普段の制服はすべて洗濯中。やむを得ず、礼服としても用いられる青いボタンダウンの制服に着替え、護身用のエストックを腰に差す。最後に身分証代わりのネックレスを首から下げて、リンガーは騎士団の独身寮を出た。
騎士団の独身寮は王城から5分程の位置にある。これは有事の際、いち早く兵士を集めるためだといわれているが実際には土地の利権絡みでここに決まったらしい。同じように利権で決められた使用人用の独身寮を通りすぎながら、リンガーは騎士団の庁舎へと向かっていた。
王城の城門をくぐり、騎士団用の敷地へ続く路地裏のような小道を歩いていく。有事でもなければ、馬車が行きかう最大の通路は通れない。すっと視界が開けた先のまず最初に現れるのは、弓や剣術のための修練場だ。夜番や上級騎士でもない限り、まだほとんどの騎士が登城していない時間だというのに、小柄な若い騎士が一人素振りをしていた。ラーダだ。これはいつもの光景。時折、アルデが組手の相手をしていることもある。二人は騎士たちの中でもその勤勉さで有名だった。
「いつも早いな、ラーダ。今日も朝練か?」
「あ、リンガーさん、おはようございます。アルデ知りませんか?」
リンガーを見つけたラーダが駆け寄ってくる。その表情は不満さを隠せないといった様子だった。ラーダはアルデに対してライバル心むき出しだが、どこか兄のように慕っている面がある。まるで子供が拗ねてるような表情にリンガーは少しほほえましい気分になった。
「いや、見てないな。なんだ朝練の約束でもしてたのか?」
「そうなんですよ。あいつ、酒飲みすぎて寝てるんじゃ・・・」
おかしい。
アルデは今までに遅刻をしたことがない。ただでさえ時間に厳しい男なのだ。寝るのが多少遅くなったくらいで遅れるとは思えない・・・とはいえ、、、
「さすがに昨日はアルデも飲みすぎたのかもな。じゃあ、隊長が来る前に装備の確認でもしておくか。」
そうしてリンガーとラーダは一足先に庁舎に向かい装備品の確認を済ませるのだった。
****
騎士団の庁舎は三種類ある。一つは一般庁舎。ここはすべての兵士が集まるホールとしても機能している施設だ。騎士たちの休憩所でもある。そして一つは上級庁舎。何かと書類仕事の多い中隊長以上だけが入れる施設で、機密書類の管理や上官の会議はここで行われ、騎士団の事務所はここに併設されている。そして最後の一つは個別庁舎。大隊長以上が持つ執務室だ。これは4つしかない。
背中を丸くして、一人の髭面の中年オヤジが上級庁舎の入り口の木戸を開いた。
「おう、お疲れさーん」
貴族や育ちの良い多い者が多い上級庁舎でこんな態度をとる人間は一人しかいない。ヘルメスだ。個人のロッカーはあるが、席は共通の長テーブルしかない上級庁舎において座る席は決まっていない。ヘルメスは中央のテーブルに片手をあげるかつての部下の姿が見えて、テーブルをはさんだ彼の前に座った。
「聞きましたよヘルメス殿、アルデ君の小隊長昇進。おめでとうございます。」
がっちりした体躯だが粗野を感じさせない振る舞いはさすが貴族というべきか。常にどこか品を感じさせる。このあたりは傭兵出身で粗野さが抜けきらないヘルメスとの違いであり、周囲が認める実力を持つにも関わらずヘルメスがなかなか昇進できない理由でもある。
「おお!耳が早いな。そうか、辺境駐屯部隊での上官はお前だったな。どうやら、一筆かいてくれたらしいな、ありがとう。」
「いやいや、気にしないでください。彼が優秀だっただけですよ。」
そう人受けのいい笑みを浮かべながらアランはヘルメスとの共通の話題であるアルデの会話に花を咲かせていく中、中隊長以上しか入れない上官庁舎の扉が蹴り破る勢いで開かれた。
「おい、ヘルメスはいるか!」
男所帯の騎士団には似合わない礼服を着た黒髪の女が表れた。美人だがキツイ目元に吊り上がった眉。それは彼女の表情によるものだけではなく生来ものも含まれている。彼女の名はキョウカ・アイーダ。王や宰相の側近である近衛執務官として、執務の補佐を取り仕切る俗にいう官僚であった。
何事か!と思わず集中した周囲の視線も、近衛執務官の制服とヘルメスの名に、また何かやらかしたんだろうなぁ・・・という生暖かいものへと変わっていた。
「おぉ~キョウカちゃん、こっち、こっち~」
暢気に手を振るヘルメスの対応にキョウカは気をそがれつつも、
「ヘルメス殿、キョウカちゃんはやめて下さい」
なんて言いながら、少し恥ずかしそうにキョウカは駆け寄った。
キョウカ・アイーダといえば近衛執務官の中でも今一二を争う有望株だと聞く。アランは優秀とはいえ一介の中隊長が知り合うのは不自然だと感じて、好奇心から問いかけた。
「知り合いなのですか?」
「ん~特務関係でな・・・」
「なるほど。」
アランはそれ以上追及できなかった。特務とは要は直轄の極秘指令である。正規の部隊の担当員ほかに専任の兵士もいるらしいが、そもそも全体像が把握しづらくなっているのだ。ヘルメスは普段は軽い態度をとっているがその優秀さは身をもって知っている。ヘルメスが特務担当だとしても違和感はなかった。
「ん~今日もまた色っぽいなぁ~」
駆け寄ってきたキョウカを、ヘルメスはそのひげ面に手を当てながら嘗め回すようにして全身を眺めた。
「いやぁ~この女性近衛服のエロさと言ったら・・・なぁアラン?」
「俺に同意を求めないでくださいよ先輩・・・」
そう言いつつも、アランの顔は真っ赤に染め上がり、キョウカを意識しているのは明らかだった。いかにも好青年といった容姿のアランのその反応にキョウカもまた赤くなっている。
「んん~貴族の坊ちゃんにキョウカちゃんの色気は強すぎたか」
「もう、やめてください!セクハラで訴えますよ」
ヘルメスはそう茶化しながらも二人の若者の純情さを楽しんでいた。
「で、どうしたんですかキョウカ殿?」
流れを断ち切るようにオホンと咳をして、アランは本題へと話を戻した。
「丁度いい、バーゼル卿。あなたにも聞いてもらいたい。」
キョウカは気を取り直し凛々しい顔で言った。
「情報部から報告があったのですが、王都周辺の街道でアルビオンの悪魔の出現が確認されたそうです。」
アルビオンの悪魔。その単語を聞いた途端、ヘルメスの顔つきが変わった。さっきまでの、普段のお茶らけた表情などなかったかのように、戦場での顔つきになっていた。その変わりようにアランは何事かと身構える。
「アルビオンの悪魔とは?」
アランは恐る恐る尋ねた。
「ガルソン帝国との国境際にある城塞都市アルビオンで15人の市民の焼死体と騎士8人中隊長一人、大隊長一人の計25人をたった一人で殺した、黒髪の男さ。」
「あれは・・・まだ俺が小隊長だった頃の話だ・・」
ヘルメスは語った。その凄惨な経験と、自分が中隊長になった経緯を。そしてその事件の壮絶な惨状を二人は黙って真摯に聞いていた。そして話聞き終えてからアランは唯一、理解が追い付かなかった点を尋ねた。
「しかし、なぜ、そんなことが。包囲したのに殺せないかったんですか。」
「そうです、報告書を読みましたが、その辺が私にもわかりませんでした。」
そしてそれはまた、報告書で事態を確認したキョウカも同じだった。
「奴には剣が通らないんだ。攻撃すると、剣がすり抜ける。当時はまだ、魔法使いという存在がほとんど発見されてなくてな。ひょっとすると人語を話す魔物か凄腕の魔法使いかもしれないと今は考えている。」
三人の間には沈黙が流れていた。
「このままでは王都に現れる可能性もあります。アルビオンの悪魔に関して一番詳しいのはヘルメス殿ですから、ヘルメス殿に調査隊の指揮をお願いしたく」
「了解した」
ヘルメスはキョウカが言い終わる前に強い意志をもって答える。ヘルメスは親しい仲間や尊敬する上官を悪魔の手にかけられているのだ。そして王都には何よりも守るべき家族がいる。絶対に近づけるわけにはいかない。
間を見計らったかのように、再度、同じように上級庁舎の扉が激しく開かられた。
「旦那ッ!ヘルメスの旦那はいるかっ!」
通信兵のリンガーが顔を真っ青にして叫んでいた。激しく扉が開かれ、ヘルメスの名が呼ばれるという既視感のある構図にもかかわらず、庁舎内の空気は重い。リンガーの慌てようとその表情に皆、事態の重大さを感じ取っていたのだ。
そのあまりの慌てように庁舎内の視線が入り口のリンガ―に集中していた。
「おい、リンガーどうした!」
「大変だ!アルデのカミさんが殺された。」
まさか・・・三人の間に緊張が走る。奴が、現れたんじゃないか。
キョウカはリンガーの階級章を見て通信兵だと判断し、この状況に違和感をもって話しかける。
「おい、そこの通信手、その死体の惨状はどうなんだ!」
「酷いもんだよ・・・嫁さんの腹が切り裂かれて、中の胎児は調理されて机の上に置いてあったって・・・」
間違いない。キョウカの予想は残念なことに的中した。本来状況に対して冷静な視点を持つことを得意とする通信兵が慌てているのだ。現場はよほどの惨状であり、それはまた悪魔の到来を告げることの証でもある。
キョウカはヘルメスに視線を移した。
「間違いない。死体をもてあそぶようなやり口は奴の常とう手段だ。」
ヘルメスはうなづきながら言った。
「くっ、遅かったか・・・」
キョウカは唇を噛みながらも、やるべきことに向き直す。
「今ここに近衛執務官キョウカ・アイーダの名をもって命じる。王都全体に第一種警戒態勢をひく、中隊長以上の将兵は至急、部隊を展開せよ。」
第一種警戒態勢。戒厳令を含むそれは騎士団を含む治安組織が最上位に据えられる警戒態勢だ。この上級庁舎にいる騎士たちはその全員が中隊長以上だ。中隊は、騎士団では40~50人程度の規模だが、国境を警備する軍ならば200人が最低の定員数である。ここにいる騎士は皆、選抜された選抜された官吏といって差し支えないのだ。
ことの重大さを理解した騎士たちは一瞬にして纏う空気を替え、各々の役割に徹していった。
「イイか繰り返す、第一種警戒態勢!時はもはや平時ではない戦時である!」
そして上級庁舎は本来の姿である作戦本部へと姿を変えていく。