道くさ
学校の帰り道、小川の中腹、夕暮れ時の優し気な太陽、秘密の場所。抹茶色の雑草をかき分けて昨日の雨で少し湿った土を踏みしめて、誰にも知られてない、誰も知るはずのない、僕だけが知っている秘密で特別な場所。ほとんど空っぽの黒いランドセルを放り投げ、ズボンが汚れるのも気にせずどかっと座る。鼻の奥に湿気が流れ込んできて心を満たしてくれる。背中にはアスファルトのひんやりとした感触。
思わずため息が出ちゃう。ここなら誰も来ない。誰にも邪魔されない。ここは聖域なんだ。この神聖な場所なら僕は誰からも解放されてやっとひとりになれる。お母さんの居ない家、つまらない学校。そんな世界から解き放ってくれる。そのはずなのに。
知らない間に膝を抱えてしまっていて、その間に覗くこげ茶色の地面に薄青い滴が落ちていく。情けない声が食いしばった唇から漏れる。
「泣いてるの?」
突然聞こえたその声は、雪のように透明なのにやけに透き通っていて、鼓膜を突き破って進んで、感情の波紋でぐちゃぐちゃになっていた心に入り込んだ。誰もいないはずなのに、誰もいなかったはずなのに、僕だけの場所のはずなのに。どうしての言葉が吐息と共に出る前に、彼女はゆらりと姿を現した。生物が棲んでいないような綺麗な湖の波紋から女神が現れるように。吹雪の中で道を示してくれる幻のように。絹のような黒い髪で、向こう側の世界が薄く見えるくらい白い肌、そして彼岸花のように赤くて赤い唇。僕は見とれてしまった。この世の人ではないような容姿に――いや実際この世の人ではないと思うけど――人離れした彼女の存在に。
「ずっと見てきたけど、泣いているのは初めてね」
「な、泣いてないしっ」
子どもながら泣いているのを見られてしまったのが恥ずかしくて、もう遅いけれど男らしいところ見せたくて、ついついむきになって、腕で目を擦りつつ反論してしまう。論にはなってなかったけれど。
彼女はくすりとほほ笑んで、その仕草にすべて見透かされたように思えて、また心が波打ってしまう。
「私ね、ここで死んだの。寒い冬の日だったわ」
「――え?」
不意にお母さんが居なくなった日を思い出した。空が泣き出しそうな雨雲だった。お父さんを叩いて震える手で抱きしめてくれたっけな。
「ぼくにはわからないかもしれないけど、会社をクビになってね。つまりリストラされたの」
不思議と彼女が紡ぐ美しい言葉は耳に入ってこなくて。ひたすらお母さんのことを思い出す。これが最後ね、と寂しそうに言ったお母さんの顔は化粧が涙で崩れてぐちゃぐちゃになっていて、確かそのあと――
「その後彼氏に振られてね。その人結婚していたの。妻がいたんだって」
大切なことを言っていた気がする。忘れちゃいけない言葉。なんだっけ。
もう世界は暗闇に転じようとしていて、夕焼けの優し気な光は消えていて、お父さんがお母さんを殴るときが迫ってくる。
「僕っ……」
不意にお母さんに会いたくなってランドセルを置いたまま帰ろうとして、このままここにいると記憶が今日で途切れてしまうような気がして、思い出さなきゃいけない言葉さえも思い出せなくなりそうで、でも動き出した腕を彼女に抑えてられてしまう。
「君も、逃げるの……?」
つかまれた腕から冬の空気よりも冷たくて悲しい冷気が流れ込んでくる。
「逃がさないよ」
見上げると綺麗だった彼女の顔は、真黒なモヤモヤに変わっていて、そこから記憶が吸い込まれてしまう。忘れちゃいけないお母さんの言葉。
「ずっとイッショ……」
あの言葉はッ―――――――――――――――――――――――――