順番が来るまで、お待ちしております
婚約者から届いた手紙を開く前に、エレノアはその内容を言い当てた。
「本日も、お仕事なのですね」
王家の紋章が押された封蝋を見つめながら、誰にともなく呟く。
まだ封は切っていない。
それでも、間違っているとは思わなかった。
隣に控える侍女のマリーが、わずかに視線を伏せる。
窓から差し込む午後の日差しが、応接室の丸いテーブルを明るく照らしていた。
白いクロスの上には、二人分のティーカップと焼き菓子が並んでいる。
月に一度だけ設けられた、婚約者との茶会。
王太子であるレオナルトがどれほど多忙であっても、せめてこの日だけはゆっくり話をしよう。
婚約が決まった頃、二人でそう約束した。
けれど近頃では、向かいの椅子が空いたままの方が多くなっていた。
エレノアは銀のペーパーナイフを手に取り、丁寧に封を切った。
中から取り出した便箋には、整った文字が並んでいる。
急な政務が入ったこと。
本日予定していた茶会へ伺えなくなったこと。
心から詫びていること。
次の機会には、必ず埋め合わせをすること。
そこに記されていたのは、予想していた通りの言葉だった。
最後まで目を通したエレノアは、便箋を元の折り目に沿って畳み、封筒へ戻した。
その指先に迷いはない。
「マリー」
「はい、お嬢様」
「お茶は、一人分だけいただきましょう」
マリーは返事をするまで、ほんのわずかに間を置いた。
言いたいことがあるのだろう。
それでも彼女は口を閉ざし、静かに頭を下げた。
「……かしこまりました」
すでに注がれていた紅茶から、細い湯気が立ち上っている。
マリーが向かいのカップを下げようとすると、エレノアは小さく首を横へ振った。
「それは、そのままで」
「ですが……」
「せっかく用意してくれたのでしょう」
エレノアは、穏やかに微笑む。
「あとで、あなたが飲んでちょうだい」
マリーの瞳が、わずかに揺れた。
けれど、エレノアは気づかないふりをしてティーカップを持ち上げる。
紅茶は、少しだけ冷め始めていた。
思っていたよりも苦い。
それでも、飲めないほどではない。
もう、慣れている味だった。
エレノア・ヴァレンティーヌは、「少し待つ」という言葉が嫌いではなかった。
幼い頃から、何度も聞いてきた言葉だからだ。
父は執務が忙しく、「あとで話そう」と笑った。
母は社交に追われ、「落ち着いたらお茶をしましょう」と微笑んだ。
王太子である婚約者もまた、多忙な人だった。
誰も嘘をついたわけではない。
約束を軽んじていたわけでもない。
皆、本当に忙しかったのだ。
だからエレノアは、いつも笑って頷いた。
「かしこまりました」
「お待ちしております」
待てば、いつか順番が来る。
そう信じて疑わなかった。
──あの日までは。
茶会の片付けが終わる頃、屋敷の執事が応接室を訪れた。
扉の外で控えめなノックが響き、年嵩の執事が一礼する。
「お嬢様。旦那様がお呼びでございます」
「お父様が?」
「至急、お話ししたいことがあるそうです」
父が、自らエレノアを呼ぶことは珍しい。
何事だろうと考えながら執務室へ向かう。
重厚な扉の向こうでは、ヴァレンティーヌ侯爵が机いっぱいに書類を広げていた。
いつもなら娘が入室しても、手を止めることは少ない。
けれど今日は、すぐに顔を上げた。
「急に呼び立ててすまなかった」
「いいえ」
勧められた椅子へ、腰を下ろす。
机の上には、見慣れない紋章の封蝋が押された手紙が置かれていた。
父はそれを手に取り、エレノアへ差し出す。
「北方領を預かっている叔父上からだ」
北方領は、亡き祖父の弟にあたる大叔父が、長年治めてきた土地だった。
豊かな森林と広い農地に恵まれている一方、王都から馬車で三日を要する。
エレノアも幼い頃に、一度訪れただけだった。
手紙を受け取ると、乾いた紙の感触が指先へ伝わる。
「今年は天候に恵まれて、例年以上の収穫が見込まれているらしい」
「喜ばしいことでございますね」
「ああ。だが、その分、収穫祭の規模も大きくなった。近隣領からの来賓や商人も増え、人手が足りないそうだ」
父は小さく息を吐き、手紙の末尾を指で示した。
『もし可能であれば、エレノア嬢のお力をお借りできないだろうか』
そこには確かに、自分の名前が記されていた。
エレノアは思わず、その一文を読み返す。
「私を、ですか?」
「叔父上は以前から、お前が王太子殿下の公務を陰で支えていることを耳にしていたらしい。来賓の応対や式典準備に慣れた者を寄越してほしいと頼まれてな」
王太子の正式な政務へ、口を挟むことはない。
けれど未来の王太子妃として、エレノアはこれまでさまざまなことを手伝ってきた。
夜会や式典の出席者名簿。
招待状への返書。
祝賀や弔事に贈る品の記録。
王家が後援する慈善行事の日程調整。
レオナルトが政務へ集中できるよう、自分に任せられることは進んで引き受けてきた。
頼まれたから、というより、必要だと思ったからだ。
どれも、王太子妃となる者が身につけておくべきことだと考えていた。
「もちろん、無理に行けとは言わない」
父の声に、エレノアは顔を上げる。
「婚約中の身で長く王都を離れるのだ。王家にも許可を願い出る必要がある」
「はい」
「だから、お前の意思で決めなさい」
自分の意思で。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
いつもなら、周囲にとって最も都合の良い答えを探しただろう。
父は何を望んでいるのか。
王家はどう考えるのか。
レオナルトは困らないだろうか。
だが手紙の中には、自分の名前がある。
ほかの誰でもない。
エレノアに来てほしいと書かれていた。
手紙を持つ指へ、わずかに力が入る。
「……参りたいです」
口にした声は、思っていたよりもはっきりしていた。
父は少し驚いたように目を瞬かせたあと、表情を和らげる。
「分かった。私から王家へ願い出よう」
王家からの許可は、数日後に下りた。
レオナルトから届いた手紙には、北方領での役目を励ます言葉とともに、こう記されていた。
『戻ったら、今回の茶会の埋め合わせをしよう』
エレノアは、その一文をしばらく眺めた。
以前なら、その約束だけで何日も嬉しかった。
いつもなら胸が少し温かくなったはずなのに、その日はなぜか、紙の上を滑っていくだけだった。
それでも、いつものように呟き、手紙を畳んだ。
王都を発って三日。
馬車の窓から見える景色は、次第に石造りの建物から緑豊かな農地へ変わっていった。
黄金色に色づき始めた穀物の穂が風に揺れ、その向こうには深い森が広がっている。
空は王都よりも高く、澄んで見えた。
見慣れない景色を眺めているうちに、胸の奥へ張りついていたものが少しずつほどけていくようだった。
「まもなく到着いたします」
御者の声を受け、エレノアは膝の上の本を閉じた。
馬車が領主館の門をくぐる。
玄関前には、屋敷の使用人や領地の職員たちが並んでいた。
その先頭に立っていた男性が、馬車の扉が開くと同時に一歩進み出る。
三十歳前後だろうか。
深い灰色の髪を短く整え、落ち着いた青灰色の瞳をしている。
華美な装いではなかったが、姿勢や礼の取り方には、隠しようのない品格があった。
「ようこそお越しくださいました、エレノア様」
男性は胸へ手を当て、丁寧に一礼した。
「領主代行を務めております、セシル・アルヴァートと申します」
アルヴァート公爵家。
王国有数の名門である。
その家の次男が、なぜこの地で領主代行をしているのだろう。
エレノアがわずかに驚いたことへ気づいたのか、セシルは穏やかに笑った。
「アルヴァート公爵家の次男ではございますが、兄が立派に嫡男を務めておりますので。私は性分に合った場所で働かせていただいております」
軽やかな言い方だった。
けれど、それ以上踏み込ませない静かな線引きも感じられた。
次男である彼もまた、自分の役目を探して王都を離れたのかもしれない。
エレノアは胸に浮かんだ問いを口へは出さず、優雅に礼を返した。
「しばらくの間、お世話になります」
「こちらこそ」
セシルは小さく首を横へ振る。
そして、後ろへ並ぶ人々へ目を向けた。
「皆、この日を楽しみにしておりました」
その言葉に、エレノアは思わず目を瞬かせる。
──私を?
使用人たちの顔を見る。
形式的な微笑みではない。
誰もが、安堵と期待の入り混じった表情をしていた。
「お待ちしておりました、エレノア様」
年配の家令が、頭を下げる。
その言葉は、これまで何度も口にしてきたものと同じだった。
けれど、誰かから自分へ向けられると、まるで違う響きを持っていた。
領主館へ入ると、廊下や執務室には紙束を抱えた職員が行き交っていた。
収穫祭まで一月。
今年は王都からも複数の貴族が訪れるため、例年以上の準備が必要なのだという。
到着した日は休むよう勧められた。
けれど、窓の外が明るくなると、エレノアは自然に身支度を整えていた。
翌朝、執務室へ足を踏み入れる。
朝の日差しが高い窓から差し込み、机いっぱいに広げられた帳簿を淡く照らしている。
来賓名簿。
宿泊先の割り振り。
商人の出店場所。
食材や酒の搬入日程。
職員たちの話し声と、紙をめくる音が、途切れることなく続いていた。
王都で目にしてきた式典とは規模も形式も違ったが、必要なことはよく似ている。
どこに誰がいて、何を必要としているのか。
それを一つずつ整理していけばいい。
「こちらの名簿は、来賓のご身分順に並べ直しましょう」
エレノアは二つの書類を見比べながら、若い職員へ声をかけた。
職員は慌てて机へ近づく。
「同じ日に到着される方の宿泊先が、離れすぎています。このままですと、迎えの馬車が足りなくなる可能性があります」
「ですが、部屋割りはすでに決まっておりまして……」
職員は困ったように眉を寄せ、名簿を見下ろす。
エレノアは責めることなく、別の一覧を隣へ並べた。
「ご家族単位ではなく、到着時刻ごとに使用する棟を分ければ、部屋数は変えずに済みます」
指先で、到着時刻をなぞりながら説明する。
「午前中に、到着される方はこちらへ。午後の方を西棟へご案内すれば、馬車の往復を減らせるでしょう」
職員は一瞬ぽかんとしたあと、慌てて資料へ目を落とした。
「……本当だ」
隣で確認していたセシルも、表へ視線を走らせる。
数行を目で追ったあと、感心したように息を吐いた。
「これなら、馬車を二台減らせますね」
「その二台を、商人たちの荷物の搬入へ回せます」
エレノアが答えると、セシルは青灰色の瞳を細めた。
「到着して二日で、よくここまで把握されましたね」
「王都でも似たような準備をしておりましたから」
「王太子殿下のお手伝いを?」
「はい。殿下は政務でお忙しい方ですので、私にできることだけですが」
「できることだけ、ですか」
セシルは、机の上へ整然と並べ直された書類を見回した。
先ほどまで混乱していた職員たちが、すでに新しい手順に沿って動き始めている。
「その『できること』に、我々はずいぶん助けられています」
エレノアは返事に迷った。
王都では、すべて終わらせて当然だった。
できていなければ困らせる。
だから先回りして整えてきた。
それを言葉にして評価されたことは、ほとんどない。
エレノアは視線を手元へ落とした。
「たまたま、気づいただけです」
「いいえ」
セシルは、静かに首を横へ振った。
社交辞令を述べる時の柔らかさではない。
確信を持った声音だった。
「気づけることも、立派な力です」
まっすぐな言葉だった。
エレノアは胸の奥を小さく押されたような気がして、すぐには答えられなかった。
それからエレノアは、毎日のように執務室へ通った。
古い記録から、昨年の収穫祭で起きた問題を拾い上げる。
雨天時に荷車が通れず、搬入が遅れたこと。
来賓用の食事と領民へ振る舞う料理の食材が混在し、数が合わなくなったこと。
祭りの最中に迷子が出たものの、案内所が決まっておらず捜索に時間がかかったこと。
エレノアは職員たちと相談しながら、雨天用の搬入経路を決めた。
食材の保管場所を用途ごとに分け、印の色を変えた。
広場には、迷子や急病人のための案内所を設けることにした。
特別な発想ではない。
問題が起きたのなら、次は起きないようにする。
それだけだった。
午後には、領内の商人たちとの打ち合わせも行われた。
長机の上には帳簿と名簿が何冊も並び、部屋には紙とインクの匂いが満ちている。
「こちらでは、来賓は三十名と伺っております」
一人の商人が、困ったように頭を下げた。
「いえ、四十名です」
若い職員も引き下がらず、手元の名簿を差し出す。
「こちらの記録をご覧ください」
二冊の帳簿が、机へ並べられる。
どちらも正式な書式だった。
だからこそ、誰も間違いに気づけない。
張り詰めた空気の中、エレノアは二冊を引き寄せた。
数字ではなく、欄外へ書き込まれた日付へ目を向ける。
片方だけが、ひと月前の日付になっていた。
「あの……」
遠慮がちに、口を開く。
全員の視線が集まった。
「こちらは、変更前の名簿ではありませんか」
その一言で、部屋の空気が止まった。
若い職員が日付を確認し、見る見るうちに、顔を青ざめさせる。
「申し訳ございません。差し替え前のものを、お渡ししておりました」
商人が、安堵したように肩を落とす。
セシルは新しい名簿を受け取り、一枚ずつ目を通した。
確認を終えると、ゆっくり息を吐く。
「……助かりました」
静かな一言だった。
けれど、それは社交辞令ではなかった。
部屋にいた者たちの緊張が、ほどけていく。
エレノアは、少しだけ目を丸くする。
「たまたま、日付が目に入っただけです」
「だからこそです」
セシルは書類を机へ置き、エレノアへ向き直った。
「皆が数字ばかり見ていた中で、日付へ目を向けられた。気づける方がいてくださることが、何よりありがたいのです」
その言葉を聞きながら、エレノアは、自分の両手を見下ろした。
王都でも、同じようなことをしてきた。
けれど、そこでは誰も足を止めなかった。
自分自身も、できて当然だと思っていた。
領地では、一つ整うたびに誰かが笑った。
「助かりました」
「これなら、安心です」
「エレノア様が、確認してくださってよかった」
最初は、そのたびに戸惑った。
やがて、少しずつ笑って答えられるようになった。
「こちらこそ、教えてくださってありがとうございます」
自分だけの力ではない。
領地のことを知る職員たちがいる。
商人や領民の声を聞くセシルがいる。
互いに意見を出し合い、一つのものを作り上げていく。
王都では、誰かの望む形を先回りして整えてきた。
ここでは、自分の考えを求められる。
「エレノア様は、どう思われますか」
セシルは、何かを決めるたび、必ずそう尋ねた。
最初の頃、エレノアはその問いへ、すぐには答えられなかった。
正しい答えを探そうとしてしまうからだ。
セシルが黙って待っていることに気づき、ようやく顔を上げる。
彼が欲しいのは、正解ではない。
エレノア自身の考えだった。
次第に、言葉が自然に出るようになった。
「私は、こちらの方がよいと思います」
「では、その案で進めましょう」
自分の言葉で、何かが動く。
それは怖くもあり、同時に嬉しくもあった。
一方、王都では、レオナルトが執務机の上を見回していた。
机には政務の書類が積み上がり、その間へ式典や会食に関する文書が、雑然と挟まっている。
いつもなら、分野ごとに整理されているはずだった。
「……明日の会食の名簿は、どこだ」
低く問いかけると、侍従が気まずそうに、一歩進み出る。
「まだ、最終版が届いておりません」
「なぜだ。招待客は決まっているだろう」
「出席のお返事は揃っておりますが、ご家族同士の席順までは……」
レオナルトは、眉を寄せた。
手元の書類を一枚持ち上げるが、それは別の式典の名簿だった。
「例年は、どうしていた」
侍従は、一瞬だけ沈黙した。
周囲の者たちが、互いに視線を交わす。
「エレノア様が、お取りまとめくださっておりました」
「ああ」
レオナルトは、ようやく思い出したように頷いた。
筆を取り、別の書類へ視線を移す。
「では、戻ったらエレノアに確認しよう」
侍従は、言葉を選ぶように一拍置く。
「……殿下」
「何だ」
「明日の、会食でございます」
筆先が、紙の上で止まった。
レオナルトは、ゆっくり顔を上げる。
「…………」
結局、侍従たちが過去の記録を調べ、夜遅くまでかけて席順を整えた。
それだけでは、終わらなかった。
数日後には、西方公爵家へ贈る祝いの品が、手配されていないことが分かった。
「例年は、エレノア様が先方のお好みを確認してくださっておりました」
慈善音楽会の招待状には、返書の期限を過ぎたものが、混ざっていた。
「例年は、エレノア様が一覧にしてくださっておりました」
地方貴族を迎えるための部屋割りにも、不備が見つかった。
「例年は、エレノア様が……」
その言葉を三度目に聞いた時、レオナルトはとうとう書類から顔を上げた。
「エレノアは、いつからそこまでのことをしていた?」
侍従たちは、互いに顔を見合わせる。
最年長の侍従が、慎重に答えた。
「婚約がお決まりになった頃から、少しずつかと」
「私は、命じた覚えがない」
「はい」
侍従は姿勢を正しながらも、わずかに声を落とした。
「ですが、殿下が政務へ集中できるよう、エレノア様ご自身が、お引き受けくださっておりました」
レオナルトは、何も言えなかった。
それまで、自分の周囲が滞りなく動くことを、疑ったことがない。
エレノアは、理解してくれている。
エレノアなら、待ってくれる。
必要なことは、いつの間にか整っている。
それが、当たり前になりすぎて、誰が整えていたのかさえ見えなくなっていた。
北方領では、収穫祭の日を迎えていた。
広場には色とりどりの旗が掲げられ、焼きたてのパンや肉料理の香りが、漂っている。
楽団の音楽に合わせて子どもたちが踊り、商人たちは声を張り上げて客を呼び込んでいた。
朝から雲が多く、昼前には一時雨が降った。
屋根を打つ雨音に、職員たちの顔が強張る。
けれど、事前に決めていた搬入経路のおかげで、荷運びは滞らず、食材にも被害は出なかった。
迷子になった子どもは、案内所で、無事に家族と再会した。
来賓の一人が、体調を崩した際も、待機させていた医師がすぐに対応した。
問題が起きるたび、誰かが慌てる前に、準備していた者が動く。
夕暮れを迎える頃には、空は澄み渡っていた。
灯りがともされた広場へ、穏やかな笑い声が広がっていく。
エレノアは、少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
誰も慌てていない。
誰も困っていない。
皆が安心して、祭りを楽しんでいる。
その光景を見ているだけで、胸の奥が満たされていく。
「成功ですね」
隣へ立ったセシルが言った。
彼の肩にも、一日の疲れが滲んでいたが、その表情は晴れやかだった。
「皆さんが力を尽くした結果です」
「ええ」
セシルは、素直に頷く。
一度広場を見渡したあと、エレノアへ視線を戻した。
「そして、その力を一つにまとめてくださったのは、あなたです」
エレノアは、反射的に否定しかけた。
けれど、唇を開いたまま言葉を止める。
自分一人の力ではない。
それでも、自分がここにいたことにも意味があったのだ。
そのことを、ようやく認めてもよいのかもしれない。
エレノアは、少しだけ勇気を出して、笑った。
「……ありがとうございます」
セシルの目元が、わずかに柔らかくなる。
「ようやく、受け取ってくださいましたね」
「何をでしょう」
「感謝されることを、です」
エレノアは目を瞬かせたあと、思わず笑ってしまった。
自分の笑い声が、祭りの音楽へ溶けていく。
祭りは大成功のうちに、幕を閉じた。
滞在を終える日、領主館の門前には、使用人や職員たちが集まっていた。
馬車のそばには荷物が積まれ、御者が出発の支度を整えている。
「ありがとうございました」
「また、ぜひお越しください」
「次は、もっとゆっくり滞在なさってくださいね」
次々にかけられる言葉へ、エレノアは何度も頭を下げた。
誰かに、名残惜しまれることが、こんなにも嬉しいとは知らなかった。
最後に、セシルが歩み寄る。
「エレノア様…」
「短い間でしたが、お世話になりました」
「お世話になったのは、我々の方です」
セシルは一度、領主館を振り返った。
職員たちが、名残惜しそうに並んでいる。
「あなたが来てくださったことで、我々は多くのことを学びました」
「私もです」
王都では得られなかったものを、この場所で、いくつも受け取った。
自分の考えを求められること。
したことへ、感謝されること。
自分がいるだけで、安心すると言ってもらえること。
セシルは、何かを言いかけるように唇を開き、けれど一度閉じた。
いつもなら、迷いなく言葉を選ぶ人だった。
その彼が、ほんのわずかに視線を逸らす。
門前には、多くの者がいる。
引き留める立場ではないことも、彼はよく分かっているのだろう。
「帰って、しまわれるのですね」
その声は、わずかに低かった。
エレノアは顔を上げる。
セシルは、いつものように穏やかに微笑んでいる。
けれど、その眼差しには隠しきれない寂しさが、滲んでいた。
「皆、とても名残惜しがっております」
一度、言葉を切る。
青灰色の瞳が、静かにエレノアを映す。
「……私も」
それ以上は、何も言わなかった。
告白ではない。
引き止める言葉でもない。
それでも、その一言は静かに胸へ残った。
馬車が動き出す。
窓から見える人々の姿が、少しずつ、小さくなっていく。
王都へ帰る。
婚約者のもとへ戻る。
ずっと、それを当然だと思っていた。
けれど今は、不思議なくらい、心が動かなかった。
必要としてくれる、場所がある。
帰ることを惜しんでくれる人がいる。
その温もりを知ってしまった心は、もう以前と同じではなかった。
王都へ戻った翌朝。
エレノアが王宮へ出向くと、侍従たちは一様に安堵の表情を浮かべた。
「エレノア様……!」
「ただいま戻りました」
深く頭を下げる彼らの顔には、喜びより疲労が濃い。
頬のこけた者までいる。
何かあったのだろうかと思いながら執務室へ入ると、机の上には、書類が山のように積み上がっていた。
その向こうで、レオナルトが額へ手を当てている。
扉の開く音に顔を上げると、彼ははっきりと安堵した。
「ああ、エレノア。戻ったのだな」
久しぶりに会えた喜びではなく、困っていたところへ、必要な者が戻ったという安堵。
そのことが、今のエレノアには不思議なほど、よく分かった。
レオナルトは、机の上の書類を一枚持ち上げる。
「ちょうどよかった」
その一言が、静かな執務室へ落ちる。
「次の式典について、確認したいことがある」
エレノアは、差し出された書類へ目を落とした。
以前なら、内容を確かめるより先に、手を伸ばしていただろう。
レオナルトが困っている。
ならば、支えなければならない。
そう考えることに、迷いなどなかった。
けれど今は、紙の端へ触れることさえできなかった。
北方領で聞いた言葉が、静かに胸へ蘇る。
『エレノア様は、どう思われますか』
『いてくださると安心します』
同じように、誰かを支えていたはずなのに。
ここでは、自分の考えを尋ねられたことがなかった。
すん、と。
胸の中で、何かが静かに冷めていく。
「殿下」
エレノアは、両手をドレスの前で重ねた。
書類を受け取らないまま、まっすぐレオナルトを見る。
「私は、北方領へ参る前にも、この式典の準備について必要な事項をまとめてお渡ししております」
「ああ。だが、細かな変更があってな」
「では、担当の侍従へお命じくださいませ」
「エレノア?」
レオナルトが、不思議そうに眉を上げる。
自分でも驚くほど、エレノアの声は穏やかだった。
怒っているわけではない。
ただ、もう以前と同じようには動けなかった。
「私は、殿下のお手伝いをしてまいりました」
「分かっている」
「いいえ」
エレノアは、静かに首を横へ振る。
レオナルトの手にある書類が、わずかに揺れた。
「殿下は、今ようやくお気づきになったのではございませんか」
レオナルトの表情が、固まる。
図星だったのだろう。
視線が、書類からエレノアへ移る。
「私は、殿下が政務へ集中できるよう、自分にできることをしてまいりました。それを、嫌だと思ったことはございません」
「ならば、なぜ」
「必要とされることと、都合よく使われることは、同じではないと知ったからです」
北方領で過ごした日々が、蘇る。
考えを尋ねられた。
感謝された。
そこに、いることを喜ばれた。
同じ仕事をしていたはずなのに、心に残るものはまるで違った。
「エレノア」
レオナルトは椅子を引き、立ち上がる。
「私は、君を都合よく使っていたつもりなどない」
「存じております」
「ならば──」
「つもりがなかったからこそ、今までお気づきにならなかったのでしょう」
言葉を遮られ、レオナルトは何も言えなくなった。
エレノアも、彼を責めたいわけではない。
自分もまた、何も求めず、何も伝えず、待つことを選び続けてきた。
だからこれは、誰か一人だけの過ちではない。
ただ、もう戻れないのだ。
「今日は、お話ししたいことがございます」
エレノアは姿勢を正した。
胸の奥に緊張はある。
それでも、目を逸らさなかった。
王太子へ、深く頭を下げる。
「どうか、私が婚約を辞退することを、お許しいただけませんでしょうか」
静まり返った執務室で、時計の音だけが響いた。
レオナルトは、しばらく動かなかった。
書類を持った手が、ゆっくり下がる。
「……北方領で、誰かに何かを言われたのか」
「いいえ」
セシルの顔が、一瞬浮かぶ。
けれど、彼は何も求めなかった。
戻るなとも、自分を選べとも言わなかった。
「これは、私自身が決めたことです」
「私が君を待たせたからか」
レオナルトの声音には、初めて迷いが滲んでいた。
エレノアは少し考えたあと、頷く。
「それもございます」
誤魔化す必要はない。
「私は、いつか自分の順番が来ると信じておりました」
父も母も、婚約者も。
皆が、忙しいことを理解していた。
理解している、自分でありたかった。
「殿下が政務へ励まれることは、この国にとって必要なことです。私がそのお邪魔をしたいわけでは、ございません」
「では、これからは時間を作る」
レオナルトは、一歩近づく。
急ぐような口調だった。
「月に一度の茶会も、必ず守る。今回の埋め合わせも──」
「もう、結構でございます」
穏やかな声だった。
それでも、レオナルトの足を止めるには十分だった。
彼の目が揺れる。
エレノアは、静かに微笑んだ。
「私は、ずっとお待ちしておりました」
約束の日を。
埋め合わせを。
いつか、自分へ向けられる時間を。
「ですが、お待ちするだけの人生は、もう終わりにしたいのです」
レオナルトは、唇を引き結んだ。
すぐには答えなかった。
王家との婚約は、二人だけで決められることではない。
国王と王妃。
両家。
多くの者が、関わっている。
それでも、最も大切なのは本人たちの意思だ。
やがて、レオナルトは力なく椅子へ腰を下ろした。
「君がいなくなって、初めて分かった」
低い声だった。
両肘を机へ置き、額の前で指を組む。
「私の周りが滞りなく動いていたのは、君が支えてくれていたからだ」
「はい」
「それだけではない」
レオナルトは、俯いたまま続ける。
「私は、君が待ってくれることに甘えていた」
エレノアは、黙って聞いていた。
「君は怒らない。君なら理解してくれる。そう、決めつけていた」
悔やむように、拳を握る。
爪が掌へ食い込むほど強く。
「遅すぎたのだな」
返す言葉はなかった。
もし、北方領へ行かなければ。
必要とされる喜びを知らなければ。
今の言葉だけで、また待とうと思ったかもしれない。
けれど、もう知ってしまった。
自分にも選べる人生があることを。
長い沈黙が落ちる。
やがて、レオナルトは顔を上げた。
その表情には、痛みがあった。
それでも、王太子として感情を抑えようとしている。
「……分かった」
掠れた声だった。
「父上と母上には、私からも話そう」
姿勢を正した彼には、王太子としての静かな覚悟が浮かんでいた。
「君に、非があるような形にはさせない」
「ありがとうございます」
エレノアは、深く頭を下げる。
そして、扉へ向かおうとした。
「エレノア」
背へ声がかかる。
足を止め、振り返る。
レオナルトは、机の向こうに立ったまま、まっすぐこちらを見ていた。
「幸せになってくれ」
エレノアは、一瞬だけ目を見開く。
胸の奥へ、かつて彼を慕っていた気持ちが静かに浮かび、消えていく。
それから、深く頭を下げた。
「殿下も、どうか」
婚約辞退が正式に認められるまでには、数か月を要した。
国王夫妻との面会。
両家の話し合い。
社交界へ向けた説明。
簡単な道のりでは、なかった。
けれど、レオナルトは約束通り、エレノアの評判が傷つかないよう尽力した。
二人は互いの将来を考えた末、婚約を解くことにした。
それが、王家の正式な発表となった。
その頃、北方領から一通の手紙が届いた。
差出人は大叔父だった。
『次の収穫祭だけでなく、今後の領地運営にも、力を貸してもらえないだろうか』
今度は、一時的な手伝いではない。
領地の式典や慈善事業、商人との調整を担う正式な役職を用意したいと記されていた。
エレノアは窓辺に立ったまま、何度も手紙を読み返した。
自分の力を必要としている。
一時の穴埋めではなく、誰かの補佐でもなく。
エレノア自身に、そこへ来てほしいと書かれている。
父も母も、今度はすぐに答えを求めなかった。
「お前の人生だ」
父はそう言った。
以前と同じ執務室。
けれど、その声は以前より柔らかかった。
「自分で選びなさい」
エレノアは、一晩だけ考えた。
けれど、答えは最初から決まっていたのかもしれない。
春の初め、エレノアを乗せた馬車が、再び北方領の門をくぐった。
雪解け水が道端を流れ、木々の枝には、小さな芽が膨らんでいる。
以前と同じ領主館。
見慣れた石畳。
それなのに、今日は景色のすべてが違って見えた。
手伝いに来たのではない。
誰かに命じられたのでもない。
自分で選び、ここへ戻ってきたのだ。
使用人や職員たちが、笑顔で門前へ並んでいる。
「お帰りなさいませ、エレノア様」
「またお会いできて嬉しいです」
次々に声をかけられ、胸の奥が温かくなる。
彼らの輪の向こうから、セシルが歩み出た。
以前と変わらない、穏やかな立ち姿。
けれど、その青灰色の瞳は、隠しきれない喜びに柔らかく細められていた。
「エレノア様」
「セシル様」
馬車の扉が開く。
セシルは手を差し出しかけ、途中で動きを止めた。
以前のエレノアなら、その意味に気づいても、相手が決めるまで待っていただろう。
けれど今は違う。
エレノアは一歩近づき、自分からその手へ指先を重ねた。
驚いたように見開かれた青灰色の瞳へ、微笑み返す。
「これから、どうぞよろしくお願いいたします」
セシルの表情が、ゆっくりとほどけていく。
「こちらこそ」
重ねた手を大切に支えながら、彼は静かに一礼した。
「お待ちしていました」
その言葉は、これまで何度も口にしてきたものと同じだった。
けれど今は、まるで違う意味を持って胸へ届く。
自分だけが待つのではない。
自分の帰りを待ってくれる人がいる。
隣へ並び、同じ歩幅で歩こうとしてくれる人がいる。
エレノアは差し出された手を離さず、領主館へ続く道を歩き始めた。
もう、誰かの順番を待つことはなかった。
これから先、何を選び。
どこで生き、誰と共に歩いていくのか。
もう、誰かが決めてくれる順番を待つ必要はない。
自分の人生は、自分で選べるのだから。




