あ
また、始まった...
「○○、僕はこう思うんだ」
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勉強やゲーム等何をする時でも、「学ぶ」という意識は最初の場面以外で邪魔かもしれない。
私は勉強を、学ぶ・覚えるという行為だと認識しており、ただ知る・見る等したものに対する知識の定着より、勉強すると意識したものに対する知識の定着が悪い。これは勉強に対する意識が悪影響を及ぼしているのか、ただ知る・見る等したものと別のベクトルのものなのかどちらの要因によるものなのかは分からないが、確実に要素の1つにはあると思う。なので、これからの人生を楽に生きていくためにも、「学ぶ」「勉強」という行為は最初の取り組みに対するものであって、その後の知識の取得のためには必要でない意識・行為という認識を持って、生きていこうと思う。
ただ文字を読む。人と話す。劇を見る。これら「知る・聞く・見る」という行為をするだけで、知識は定着する。なのに、それらを「学ぶ」・「勉強する」と言い換えるだけでそれら専用の意識・思考を持ち、考えを狭め、効率を悪くしてしまう。私の今までの体験でも、学ぶというより、体験する、知る、見る、読む等で知識を定着させた。○○もそうだろう?君は小さな時から学ぶ、勉強するという意識で物を覚えてきたのかい?ただ、聞いただけだろう?見ただけだろう?知っただけだろう?僕たちが小さかったあの頃の意識として「学ぶ」というよりもただ「する」という意識が強かったんじゃないか?もしたかしたらそんな意識すらなく、ただボケーっとしていただけかもしれない。その時の僕たちは確かに「学ぶ」という意識は無かったはずだ。僕はそんな昔の僕を見習いたい。○○は覚えてるかい?僕たちが小さい時に皆の前で踊りを披露したことを。あの時だって僕たちはそこまで意識することもなく、ただ、言われた通りに体を動かしてただけだ。あの時に学ぶという意識は無かった。なのに僕たちは本番までにはできるようになって、皆の前で踊ることができた。今だって、今度の儀式のために踊りを学んで出来るようになってるじゃないか。一緒だよ。小さな頃に学ぶ踊りだから、難易度は今と比べたらまったく違うけど、結果としては一緒なんだ。学ぶという意識がなくても、僕たちは知識を、動きを定着させることができるんだ。「学ぶ」という行為はあくまで知る・見る・聞くを大人が子供に対して物を覚えさせたい時に使う言葉なんだ。知識は知る識と書いて、知識なんだ。学ぶ識と書くわけではないんだよ。「学ぶ」という行為自体は後付けなんだよ。難しく考えず、ただ心を楽にして知って、見て、聞いて、読んで知識を得ることが大切なんだよ。
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「僕の言いたいことが分かってくれたかい?○○」
潮の匂いが石段をなぞるようかすかに昇ってくる。門司の港は、遠くに異国の帆影を揺らしながらも、どこか静かで、夕日が波を淡く染めていた。
○○の一段上に、親友が立っている。
片足を一段上へ、もう片方をさらにその上へかけて、ずっと話していた。手振りは大きく、ときに空を切り、ときに胸元に戻る。その動きに合わせて、言葉は波のように押して返し、押しては返した。
長く座っていたせいで、尻と腿の裏にじんとした痛みが残り、石の冷たさがじわりと染み込んでいた腰を上げて軽く伸びをしながら○○は答えた。
「言いたいことは分かったよ。でも、実際にはそう上手くいかないだろう?」
「まぁ...そうだね」
こちらの返事に納得したのか、まだ引っかかりがあるのか判然としない表情を一瞬向けてから、あいつは海のほうへ視線を逸らした。その拍子に一段長い揺れた影が伸び、主人公の膝にかかった。
その影を見ながら、主人公はゆっくりと顔を上げ、これからのことについて考えた。
こんな時間は、もう二度と与えられないと知りながら。




