第7章 フーシェンクロム高地の戦い
フーシェンクロム高地の気温が徐々に下がり始めていたことを物語る、一羽の使者が現れた。
いや、一羽だけではない。
序盤の小競り合いで命を落とした少数の兵士の死骸を、鋭い唇でつつくカラスの群れが旺盛な食欲を自粛して、どこかへと飛んでいく。
その原因となるものは、まさしく前方からも、その向かい側からもやってくる大軍の行進の地鳴りだった。
「全体、とまれ!」
敵軍がかすかに見える位置まで来ると、レマの将軍エムラベラスは全軍に停止の命令をだした。
「今、我々はレマの歴史始まって以来の危機に立たされている!」
冷たい高地の中腹で、レマの軍旗が風にたなびく。
「もしかすると、二番目であるかもしれない!」
将軍の髪の毛にも寒気が伝わった。
「そう、勇敢なる兵士諸君も知っての通り、この地に、この奥深い霧の恐怖に我々先祖が、打ち勝たなければならなかった危機よりはましかも知れない。」
敵軍の足音もとまり、やがて太鼓で軍を鼓舞する音が聞こえ始める。
「だが! だが二番目であってはならないのだ! なぜだか分かるか? 勇敢なる、我らテオドール王の忠勇なる僕たちよ!」
エムラベラスはしだいに語気を強めていく。
「問題なのは、単なる勝利ではない! 単にファヴィレーリの軍を壊滅させることではない! これは、レマの歴史の勝利なのだ! 歴史の波に打ち勝つことこそ、レマがレマたる由縁であるのだ! 」
ついにエムラベラスは腰に下げていた細身の飾り太刀を抜いて、敵軍のほうに向けた。
「続けっ! 我らの隊列に、レマの魂を込めて突撃せよ!」
「いけ! 奴らの鎧に我らの恐ろしさを刻むのだ!」
エムラベラス、ヴェルナー、ベレーネン。
次々に各部隊が将軍に率いられ、陣を展開していく。
「おおおおおおおおおおおーっ!」
兵士たちも活気付き、敵軍に向かっていく。
「殺せええええええええええええーっっっ!!!!!」
敵軍の方も動き出し、断末魔に似た叫び声で体当たりしてくる。
両軍は激しくぶつかり合った後、しばらくは乱戦状態が続いた。
それも正面にいる部隊は地獄と化した。
馬のスピードを生かし、ためらうことなく突撃したヴェルナーだったが、思ったよりも敵軍の防備は固く、最初の陣すら突破できていなかった。
「将軍! これでは失速します! 弓隊のほうもまだ準備に時間がかかるとのことです!」
「はあああああっ!」
襲い掛かる敵兵の追撃を剣と盾を上手く使い分けてかわしていたヴェルナーは、ふと後ろから近づいてくるエムラベラスの姿を見つけた。
「大将! こんな所で何してる!」
「ヴェルナー作戦変更だ! 今すぐ騎兵を退却させろ! このままでは我々が策を講じる前に全滅するぞ?」
「聞いたか? 退却だ! 本陣まで退却しろ!」
迫りくるガヴェールの大軍の前に騎兵たちは後退し始める。
そのさなか、エムラベラスは馬での逃走中、彼に指示を出した。
「敵はかなりの分厚い陣を張っている。 それほど横に長くは兵士を配備してはいまい。 ベレーネン弓将の反撃が始まるまで、本陣の守りを厚くし、敵軍を側面は弓、正面は重装備の歩兵で防ぎ、我ら騎兵は弓兵の後ろに回り込む!」
「その後はどうするんだ?」
「弓隊に向かってくる敵軍に対し、我らが交代して応戦する。私は左翼、貴様は右翼に騎兵を配置し、突撃するたびに左の次は右、その次は左の陣に到達するように、つまりだ! 貴様と私が陣を突撃のたびに逆にするということだ!」
「了解だ。」
二人は本陣に到着すると、急いで歩兵に指示を出す。
「ただちに陣を守りで固めよ! 向かってくる敵は一人残らず正面で食い止めろ!」
「はい将軍!」
「全員、持ち場につけ! ドブネズミ一匹通すなよ!」
ヴェルナーの怒号が飛び交い、騎兵は休むまもなくベレーネンのいる弓隊の陣へと向かう。
「どうした、スピードが遅い! ベレーネンの兵は貴様らのせいで犬死だぞ!」
エムラベラスの騎兵たちは必死になって馬にムチを加え、これまでにない速さで疾走する馬たちは泣きそうになりながらもフーシェンクロムの高地を駆ける。
「申し訳ありません、将軍!」
エムラベラスの近くにいるエリート騎兵たちが口々に言い放ち、騎兵隊はようやく弓隊のいる高台へとたどり着いた。
「大将! どうなさいましたか? 今反撃を始めようと合図を待っていたところですが?」
正面で戦っているはずのエムラベラスが現れたせいで、弓隊は一時的に騒然となった。
「静まれ! 諸君は当初の作戦通り、攻撃を加えよ! その後敵が攻めてきたら、我々が変わりに左右から突撃する! 敵は相当厚い陣を敷いているようだ。 諸君は我々が正面の敵を本陣の守備隊と連携して防いでいる間、その後ろにいる敵本陣の進軍を阻止せよ!」
部隊の動きは円滑だった。
「放て!」
矢が風を切り、霧にまぎれたこともあって、敵軍は被害の原因がしばらくベレーネン部隊の矢であることに気づかなかった。
「敵襲だ! 左右に分かれて攻撃しろ! 弓兵どもをなぶり殺せ!」
「をおおおおお!」
ガヴェール軍は丘を登り、弓兵たちに向かってくる。
血のこびりついた兜や鎧が、ベレーネンたちを驚嘆させ、恐怖の谷に突き落とさんとしていた。
「将軍、今です!」
「進めええええーっ!」
弓隊の背後から出てきたエムラベラス、そして反対側の高台からはヴェルナーの騎兵が現れ、敵歩兵隊に突っ込んでいく。
「はあ!」
馬上から剣を振り下ろし、敵ののど下を斬る者、逆に大きな斧で馬から引きずり落とされる者もいた。
エムラベラスも敵を勢いよく斬りつける、が、刺された兵士も意地になって、将軍の豪華な剣を強く握り締めて、剣ごと彼を地面にたたきつけようとした。
思わずエムラベラスは、剣を手放した。
「くらえーーーっ!」
「くそっ!」
武器を失って、反撃の術を失った将軍は、非常用に持っていたダガーで敵を払いのけようとする。
「敵将エムラベラス! 貴様を、我が軍の捕虜とする!」
ガヴェールの隊長らしき男が彼の前に立ちはだかり、そう宣言したとき、彼は一瞬レマの未来が終わったと痛感した。
「下がれ! 下郎がっ!」
やけくそになってダガーを振り回し、馬を前進させようとしたが、将軍の周囲はしだい敵兵に囲まれ、見方の騎兵部隊と離れ始める。
が、そのときだった。
「うおおおおおおおおーっ! エムラベラーーーースっ! 乗れー!」
向かい側にいるヴェルナーが自らの馬を乗り捨て、敵の海に身を投げた。
「よせ!」
そんな言葉を発したかどうかも分からぬ状況の中、将軍は自らの馬の代わりにヴェルナーの馬に乗り移った。
後ろを振り向いているエムラベラスの瞳には、明らかに絶望の色が見て取れたが、戦場では不足の事態はつき物で、今度は敵軍にそれが発生した。
「ヴェルナー将軍! 我々が援護する間、馬に乗れ!」
「お、おまえは、アデール! あのソルデリンのアデールか?」
「話は後だ! 早く馬に乗れ。」
「分かった。 この借りは覚えておくぜ…。」
ヴェルナーは素早く馬に乗ると高台へと消えていった。
アデールの到着は敵軍を震え上がらせるのに十分だった。
「うわあああっ! 曲刀のアデールだ! 逃げろ!」
「おい、貴様ら! 勝手に部隊を放棄するな! 私の命令に従え!」
そう言っている間にも陣はますます混迷を深めていく。
「はああああっ!」
アデールは容赦なく敵を斬り付ける。
「させるか!」
先ほどヴェルナーを捕らえ損ねた敵の隊長が応戦しようとするが、アデールの敵ではなかった。
アデールは切りあげ攻撃の直後になぎ払い、回転して攻撃をかわすと、上から片手で剣を垂直に振り下ろし、それを防いだ相手の両手がふさがっているすきをついて、空いている手でダガーを取り出して、敵のはらわたに突き刺した。
「ん、んむううううウ…アデール…き、貴様…」
「戦争とは、そもそも野蛮な行為だ。 どんな武器を使ってよいかなど、戦いが起これば関係なくなる。 お前の負けだ。」
敵の隊長が倒されたことで、正面軍の混乱は決定的になった。
もはや統制された軍はそこには存在せず、四方八方に散る敗残兵の群れがいるだけだった。
その知らせはすぐに敵の総司令にも届いた。
「何? 正面軍が撃破されただと?」
「はい、ファヴィレーリ将軍! 思わぬ援軍にもはや我が軍は…」
すでに本陣の軍も弓隊による攻撃でかなりの損害を出していた。
「くそっ! 一体援軍にきた奴は誰だ! 誰なんだ! テオドールのジジイはここには来られないはず…」
「奴です。 アデールです。」
「なぜ奴が? あのデブは我々に同盟したのではなかったのか!」
「うあ! そ、そのようなことを、私に聞かれましても…」
「おのれーーーっ! 退却だ!」