第5章 にじむ良心
暗闇の中からかすかな声が雑音を交えて彼の耳に届いた。
確か、ヘンリックも混ぜた議会を招集した後、副長という肩書きを持ちながら哀れにも近衛兵に引っ張られていった彼を見たのは、あれで最後になる。
―「我々に協力しろ! さもなくば、お前の隊長は一生みじめに死ぬことになるのだ!」―
鬼のようなヤチェノクの声が、頭の中で不気味に繰り返されたとき、フレンダンはある事実に気づいた。
「私は、庶民たちにどう説明すればいいのだろうか? 教えてくれ、ヴィクトリーヌ。」
ベッドに横たわる彼の横には、深紅のリボンをした若い女性の姿があった。
その白く細い腕と、まぶしいなめらかな茶色い髪に、彼は思わず口づけした。
彼女は瞼を閉じたり開いたりしているうちに、しばらくしてゆっくりと語りだした。
「何か、気になることでもございまして? こんな私でも、あなたの母親代わりになってさし上げられるのでしょうか?」
「母親? そう言えば、私はここ数年、母親のことを考えたことがなかった。」
彼の母は数年前に、とある事故でなくなっていた。
彼が母親の死を思い出したくなかったのも、単につらくなるからではない。
彼の庶民を擁護する動きに反対する者たちによって、秘かに大量の毒薬を飲まされたのだ。
「ああ。 すまないヴィクトリーヌ。 思い出してしまった。 あの青々とした傷だらけの雑草を思い出すだけで、私は、母を…」
感情的になった彼は、白いサテンの寝巻からわずかに見え隠れする彼女の胸元に顔をうずめた。
「どうしたの? フレンダン…。 あなたは貴族なのよ? 気高い貴族は、女性をないがしろにするのが得意なはずではなかったのですか?」
わずかに顔を赤くしながら優しい笑みを浮かべるヴィクトリーヌに、彼はいよいよそこに母のかつての面影を見た。
「それとも、今のあなたは、いいえ。 本当のあなたは女性にもてあそばれるのが好きなの? そういう風に甘える貴族はあなただけね。 でも、女に甘えてしまうんですもの。 庶民たちに優しくしてやれないわけがありません。」
「私は、庶民の味方なのだろうか?」
彼は思っていたことを打ち明けた。
ヘンリックを罠にはめてしまったこと、帝国を野心に満ちたあの老人にゆだねたこと。
「私は、貴族には向いていないのかも知れない。 聞いて笑わないでくれよ、ヴィクトリーヌ。 私は、おかしな事だが、庶民があのヤチェノクより、もっというと陛下や、剣の達人と言われるアデールより怖いんだ。」
もはやこういった誰もが目を覆いたくなるような破廉恥な二人のやりとりは、一種の遊びと化していた。
とはいっても、二人とも常に大真面目であることには代わりなかった。
「そういう後悔があるのなら、きっとあなたは良い人よ。 これからも、庶民たちのために何かしてあげられることはないの? あなたが本当に庶民の味方なら、まだ終わってないわ。」
まだ終わっていない…。
彼はその言葉が意味するものを一瞬で理解し、突然ヴィクトリーヌにしがみついた。
「フ、フレンダン?」
彼女ははじめ動揺していたが、その彼の血脈のうずきを聞いて彼を自分から引き寄せた。
「ヘンリックを助け出す。 それが私の答えだ、ヴィクトリーヌ。 ただ。」
「ただ?」
彼女はフレンダンを諭すように語りかけ、彼にまとわりつく複雑に絡み合った糸を丁寧にほどいてゆく。
「勇気が、ないのですね? 大丈夫ですよ。 私がついています、フレンダン。」
このときの彼にとって、彼女の頬にできたえくぼほど良薬になるものはなかった。
「君が必要だ。 私は、簡単には死んでやらない。 死んで君を手放したくはない。 君だけは、母の二の舞にさせたくない。」
「知ってるわ。 よく私に話してくださいましたもの。」
彼は思い切って言い放った。
「今日ほど、君が欲しいと思った日はない。 ヴィクトリーヌ、私は君が欲しい。」
その日は伯爵邸の灯りが明け方までついていた。
ただ、それを見た者は、中にいた二人だけだった。
翌日、マレンボワーズの寝室前で珍しく皇帝を待つ人物がいた。
「諸君、おはよう。」
「おはようございます、陛下。」
元気なあいさつをする臣下たちの前で、彼は見慣れない顔を見つけた。
「フレンダンではないか。 昨日はよく眠れたか? しかし、こんな朝早くからお前が来るとは、一体どうしたのだ? また可愛いヴィクトリーヌにそそのかされたか?」
「いいえ、陛下。 卑しいながら、たまには陛下と二人で話しあう機会が欲しくて参りました。」
ニタニタと笑っていた皇帝は、フレンダンのギスギスした声色に何か重大な事態を想起した。
「そんなに大事なことか?」
「ええ。 一大事でございます陛下。 できればすぐにでも。」
いいだろうと、彼はフレンダンに告げると周りの臣下たちに合図して人払いをした。
「せっかくですので、中にお入りになられては?」
マレンボワーズは心配そうに見つめる臣下たちに再び合図した。
「案ずるな。 そなたたちもフレンダンの性格はよく知っているだろう?」
「ご信用くださり何よりでございます。」
「それで、なんの話だ? 女か?」
「違います。」
彼は一層厳しい表情になって、ふざけた冗談を言う皇帝に進言した。
「先日の件ですが?」
ああ、と皇帝は手を打った。
「ヘンリックか? あやつには酷な事をした。 しかし、国を守るにはこれしか方法がない。」
「アデールを失いたくはないのは私も同じです。ですが、何か方法が、別の何かがあるはずです。」
フレンダンは持っていた地図を取り出した。
「先日の議会で我がソルデリンが下した決断は、ガヴェールとの同盟でございました。 アデールはすでにレマに至り、テオドール王は床に伏しております。 間違いなく、ガヴェールと我が帝国を相手にすれば、レマは滅びます。」
「そうだな。」
無関心にも、マレンボワーズは爪をいじっている。
「しかしながら陛下。 レマの近隣では常に霧が発生しております。 一体なぜ、彼らは戦争をすることが可能なのでしょうか?」
「どういうことだ?」
彼はふと伯爵を見た。
「ヒントは霧でございます陛下。 レマがもし霧の中でも生きながらえる何かを持っているとすれば、我々はこれを利用しない手はありません。 ヤチェノク議会長の考えは、一見筋が通っているように思われますが、実際には大きな欠点がございます。」
「それはなんだ? 早く申せ。」
マレンボワーズはアデールをもしかしたら救えるかもしれないと、フレンダンの話に食いついた。
「それは、もしレマを倒せば、我々が生きながらえるヒントを闇に葬り去るのも一緒です。 霧の原因を特定するのに時間がかからないともかぎりません。」
「つまり、レマと同盟し、彼らから生きながらえるヒントを聞きだした上で、ガヴェールの侵攻を共に食い止めるのだな?」
「おっしゃる通りでございます。 ガヴェールがレマの敵になっている今しかチャンスはありません。
霧の原因は食糧さえ確保できれば、時間を気にする心配はないのです。 アデールも救うことができます陛下。」
アデールを救える。
この言葉が決め手となって、マレンボワーズはただちに部屋の外で待機していた近衛兵を呼んだ。
「今すぐに、レマに同盟するとの使者を送れ。」
「しかし、陛下。 ガヴェールとの同盟の件がございますが?」
「どうすればよいのだ?」
皇帝はみじめなところを兵士に知られまいと、フレンダンに耳打ちしてきた。
「そのままでよろしいかと。」
「大丈夫なのか?」
「帰ってガヴェールの件は黙っていたほうが、敵の不意をつけます。 それにもしガヴェールとの同盟を取り下げる事態が議会長に知れますと、いろいろ厄介なことにもなりかねません。 おそらくヘンリックを盾に我々に迫るでしょう。」
はっとした表情で皇帝は目を丸くした。
「ご安心を。 ヘンリックの件については、私がケリをつけます。」
「そうか。 気をつけるのだぞ。 今はお前だけが頼りだ。」
「できれば陛下、内密に護衛を数名でよろしいので、お貸し願えますか?」
「ああ。 もちろんだ。 うまくやれよ。」
二人が話していると、先ほどの兵士がマレンボワーズに催促した。
「陛下? ガヴェールの件はいかがいたしましょう?」
「ああ、そのままでいいぞ。 引き続き同盟の手続きを進めるのだ。」