第13章 はぐれ者の矜持
目がかすむ。
何も見えない。
― 「フレンダン。」 ―
確か私は、やわらかい抱擁につつまれて、心地よい風を全身に受けていた。
それに甘美なこの声は、忘れるはずもない。
麻薬のように、うそだと一瞬思ったほどだ。
こんな強い誘惑を放つ女性は、本当に存在するのだろうか?
― 「起きて。 私はここにいるわ。」 ―
「おい、しっかりしろ!」
目を開けると、見知らぬ男が彼を抱いて、必死に呼びかけていた。
頭には白いターバンを巻いて、見たこともない丈の長いローブを着ている。
「陛下の、お命を、お守りしなくてはならない…。 わ、私は、市民たちの伯爵として、ソルデリンのために戦う決意を…ぐっ!」
「おい、目を開けろ! まずいな、口からの出血がひどい。 ラフライン!」
フレンダンが眠ってしまわないように、男は彼の体を激しくゆすった。
「待って先生。」
彼のことを先生と呼ぶのは、小さな体を揺らして、近くにある小屋から走ってくる少女だった。
彼女はぬらした白い布を持ってきて、フレンダンの傷口に当てた。
「一刻も早い、解決策を考え、私は戻らなくては、ならない…」
「先生! 来て、この人変な人よ!」
フレンダンは混濁する意識の中、男と間違えて、少女の胸ぐらをつかんで、難しいことを言った。
その時、突如としてフレンダンの視界が晴れ、彼ははっとした。
見間違いではまずないであろう。
そこにいたのは、紛れもなくヤチェノクによって殺されかけていたはずの少女、あのヘンリックの勲章を首に下げた少女だったのだ。
「そいつは変な人なんかじゃない。 いいから、水を持ってくるんだ。」
「先生、やっぱりこの人変な人よ?」
ラフラインはあくまでもとぼけるつもりらしかったが、いい加減にしろと男に言われて、おとなしく言うことを聞いた。
「私、お水もってくるね。」
少女が小屋の中に入った瞬間を見計らって、男が再びフレンダンに言った。
「あんた、運がいいな。 スヴェイン川に流されて生きてるなんて。 おまけにその傷。 何があった? 俺はダオザフ。 良かったら詳しく話しを聞かせてくれ。」
その夜のことだった。
川床の付近で食べる料理の種類にも驚かされたが、ダオザフと少女の秘密について、何度も耳を疑った。
「ちょっと待ってください。 では、この子はヘンリックの勲章によって奇跡的に助かったとでも言うのですか?」
自分が川に真っ先に流された後、少女たちはヤチェノクの部下たちによって、罪人とともに刑を執行された。
ソルデリンの法律では罪人は木の船に乗せられて、スヴェイン川の中流にある激流に突っ込んで溺死するという刑があった。
しかし、少女の体は激流をもってしてもびくともしなかったのだという。
「アデール様の勲章が、私を守ってくれたの。」
そんなバカな、と思った。
勲章には何の力もないことは誰もが知る周知の事実なのだ。
それだけに、フレンダンはこの少女には何か特別な力、そう、自分と同じような何かがある気がしてならなかった。
「神格者…まさか…」
「ん? 何か言ったか?」
ダオザフが顔をしかめるが、不意に彼は考えた。
今この少女が背負う、重大すぎる運命に、果たして彼女自身が耐えられるのだろうか、ということを。
きっと耐えられるはずもない。
そもそも彼女自身、自分の身に起こったことが何なのかも理解していないのだ。
「私が、守らなくては。」
「守るって誰を? まさかラフラインをか? 馬鹿言ってんじゃねえ。」
とたんにダオザフがフレンダンを小ばかにしたようにあしらった。
「ラフラインはな、俺が守ってんだ。」
では、あの母親は一体誰なのであろうか、次々と疑問がわきあがってくる。
「しかし、彼女の母親はもう…」
「ああ、あいつはただの世話係だ。 俺の存在が誰かに知られちまったら、それこそこいつの帰る場所がなくなっちまう。 だが、とんだ災難だったな。 これからは俺が常にラフラインのそばにいてやんなきゃな。 それと、お前の武器、拝見させてもらったぜ。」
そういえば陛下にもらった武器がないまま、あの時は再び意識を失ってしまったことを彼は思い出した。
「あなたが預かってくれていたのですか。 どうしてもっと早く…」
「言えるわけねえだろ。」
「なんだと?」
フレンダンの荒々しくなる口調に、少女がびくりと反応して肩を狭めた。
「あの剣の壊れ方からして、相手はただ者じゃねえ。 お前がどんなやつを相手にしているかは分からねえが、俺の感が告げてる。」
いつの間にか、彼の手をダオザフがつかんでいた。
「そんな危ないまねをする奴が、一体誰を守れるってんだ?」
「あなたは、一体?」
言いたくなかったのか、ダオザフは口をつぐんだが、その場をなごまそうとした少女がこともあろうに全てを話してしまった。
「あのね、先生はね、昔鍛冶師をしていたの。 ずっと西の国で。」
「ラフライン! 余計なこと言うんじゃって、もう遅いな。」
彼は両手を頭の上にのっけて、粗末な小屋の床に寝転びながら天井を見つめた。
「ヘルダールって知ってるか?」
うわさに聞いたことはあった。
確か、アデールの持っている曲刀もそこで造られているらしい。
「俺は昔、そこで将軍をやってた。 だが、あるとき首をはねられそうになってな。 くそっ、奴ら今でものうのうとしてやがるに違いねえ。」
おそらく、無実の罪を着せられ、ここに流れ着いたとでも言いたいのだろう。
「言っておくが、お前が相手にしようとしている奴に勝つことは無理だ。 あのアデールさえもな。 ただ、完全に無理ってわけじゃあねえ。」
「方法がほかにあるのですか? 陛下をお守りする方法が?」
あのヤチェノクを葬れば、霧のことも全てが解決する。
彼は必死でせがんだ。
「ああ、お前の力を使えばな。」
「知っていたのか。」
あの広場で感じた熱いうずきをとめさえできれば、ヤチェノクを退けられるのではないかと、彼はまさに勝利寸前の面持ちを強めた。
「神格者の力は、使えれば便利だが、完全に自分のものとして取り込むには神格をつかさどる賢者から祝福を受けなくちゃならねえ。 だが、賢者の中には嫉妬におぼれちまった奴もいるからな。 こっちも相手を慎重に選らばねえと。」
「そうなのか?」
きっとヤチェノクはどこかの賢者と契約を結んだに違いない。
そう、恨み深き、深淵から這い出た邪悪な魔術師と。
「教えてくれ! 賢者はどこにいるんだ?」
「そいつは教えられねえな。 今のお前には心に迷いがある。 せめて剣術くらいはマシに扱えるようでなくちゃ、神格を目覚めさせても意味がねえ。」
彼は自分の腕を過小評価されて、ひどく腹を立てた。
「甘くみてもらっては困る! 私はこれでもソルデリンの伯爵だ。 部下に剣術を教え、陛下の前で毎晩文書のあやまりを正してきた!」
彼はすっかりやる気になってしまい、ラフラインが心配そうにダオザフを見つめる。
「先生、またするの? 死んじゃ嫌だよ?」
ダオザフはその太い腕で少女を肩に乗せた。
「黙って見てろ。 俺はそう簡単に死ぬ男じゃねえ。」
自分は何度も死を免れてきた男だ。
彼の中にはそういった絶対的な確信があり、それは今も揺らいではいなかった。
「相手の強さはな、目を見りゃすぐにわかるんだ。 外に出な。 相手してやるよ。 もちろん手加減なんてしねえからな。」
ダオザフから投げられた武器を、フレンダンは半ば不機嫌な顔をしつつも、ゆっくりと手に取った。
「無論だ。 手加減など、相手を侮辱しているも同然。」
彼はダオザフに襲い掛かった。
「くっ!」
フレンダンのレイピアがはじかれ、地面に転がった。
「部下に剣術を教えただと? お前、今までよく生きてたな? ヘルダールに行けばお前なんぞ、ただの一兵卒扱いだぞ?」
「まだだ! 私の誇りは、そんな安いものなのではない!」
「うるせえ! 無謀な挑戦を続けるやつの誇りが高いわけあるか! 身の程もわきまえることを知らないお前には、賢者の居所を教えるわけにはいかねえ。 お前の考えているほど、相手も平和じゃないやつらだって、どうしてわからねえ!」
確かに、彼は怒りでわれを失っていた。
ヤチェノクの侮辱に対する怒り、市民を巻き添えにした自分への怒り、そして、ヴィクトリーヌを守り通せなかったあせり。
この男に勝ち、ヤチェノクをとめなければという使命感に挟み撃ちにされて、もだえているようにも見えた。
ぼろぼろに破れたマントが、誇りのかけらを必死に集めているように、彼の手は止まらなかった。
「先生、危ない!」
不意打ちをしようとしたフレンダンの剣を、彼が寸前のところでかわす。
「言ってもわからねえようだな。 いいだろう。」
彼も本気で剣を持ち替えようとしたが、その手は途中で行き場をなくしていた。
「お前、泣いてんのか…」
彼は幻惑を見ていた。
半透明のヴィクトリーヌが、彼の不意打ちに対して目の前で首を振っているのが分かる。
―「フレンダン。 ダメよ。」―
「嫌だ。 行かないでくれーーーーーーーーっ!!!!!」
彼は地面にへたれこんで、額に大量のじゃりをくっつけた。
「愛しているんだ。 私は、どうすればいい!」
どうすればこの罪深き呪縛から逃れることができるのか、いや、もともと逃れようなどという考えはなかった。
にもかかわらず、彼に重いものが幾重にも重なって苦しめるのだ。
フレンダンは地面にいくつもの涙をしみこませた。
今まで血に染まったソルデリンの民の分を、そっくりそのまま返しているかのように。
「立てよ。 お前の覚悟は分かった。 だから、もう少しだけ待て。」
「どういう意味だ?」
ダオザフは剣を振って凝り固まった腕をぐるぐると回した。
「忘れたのか? 俺は鍛冶師だ。 陛下にもらったレイピアってやつを、最高の剣に生まれ変わらせてやるよ。 賢者の場所にもつれていってやる。 ただし、俺の身の回りの手伝いをしろ。 少しの間だけでいい。」
「いいのか?」
「いいの! 先生は優しいんだから!」
「そうか。 ははは…。」
「そうだ。 はははははははは…。」
三人の笑い声が、静かにスヴェインの流れをたたえていた。