第9章 呪いの暴挙
火事が起こされたのは単なる偶然ではない。
それは宮殿を守る兵士やヤチェノクはもちろん、デモを起こす市民たちにとってはすでに知れたことだった。
みな本気で市街地を行進し、いつ終わるとも分からぬ命の鼓動をかみ締めるように聞きながら、燃え上がる混乱が起きるそのときがくるのを待っていた。
「陛下! 聞き及んでございますでしょうか?」
「知っているぞ。 貧農たちの暴動が広がっているというではないか。」
マレンボワーズは寝室のバルコニーから見える、城下町のくすんだ煙を眺めていた。
どがった屋根から湧き出る黒い混沌の象徴に、皇帝でさえも震え、国全体が怯えきっていた。
「すぐさま鎮圧に向かわせなくては、国家の存続にかかわります。 将軍もこの事態を承知しており、いつでも正規軍を編成し出撃できるとのことです。」
ヤチェノクの口調は、表には出ていなかったが、その相手をたたみかける調子に皇帝は、わずかながら不安感と怒りを覚えていた。
「ヤチェノクよ、私はできるだけ市民たちを傷つけたくはない。 何かよい方法はないのか?」
「陛下! こんな時に何をおっしゃられるのですか! もたもたしていたら、市民たちは我々を包囲し、陛下のお命も危のうございますぞ!」
そう、このままでは自分の命が危ない。
しかしマレンボワーズは感じていた。
このままでは、自分は、市民たちからの暴挙からは助かっても、目の前にいるこの男によっていずれ…
「ふ、フレンダンの姿が見えぬな? 一体奴はこの一大事に何をしておるのだ! 早急に連れ戻せ!」
「はっ!」
近くにいた近衛兵が皇帝の命によって、すぐに寝室から出て行ったが、マレンボワーズはそのときのヤチェノクの顔を見る気にはとてもなれなかった。
年老いた議会長は、皇帝の命にもかかわらず、返事をせず、振り向きもしなかった。
代わりに兵士が皇帝に対して動いたものの、ローブにつつまれたその後姿からは、何か邪悪な意志によって導かれたもう一人のヤチェノクの真の姿が見えたように思えた。
「フレンダンと、おっしゃいましたか?」
呪いをかけるような声で、彼がゆっくりと皇帝に話しかけた。
皇帝という身分ながら、マレンボワーズは勇猛さなどかけらもない人物であったが、誰でも軍神の異名でもない限りは心のそこで悪寒を感じたに違いない。
「そ、そうだ。 フレンダンは市民に優しいからな。 貧農どもを諭すには、もってこいの男ではないか。 なのになぜ奴は来ない!」
「はははははは!」
「ヤチェノク? どうしたのだ? 何がおかしい?」
「おかしいことなど何もございません陛下。 私めはただ、次々と仕掛けられる茶番に嫌気がさしたのでございます。」
「どういう意味だ?」
「おや、陛下ご自身もよくご存知のはずではありませぬか? 何ゆえに国を裏切った男をかばうのです?」
間違いない。
この老人は、自分とフレンダンが通じていることを知っている。
「フレンダンめは、このデマを引き起こした張本人です陛下。 おそらく、私のたくらみを知って、それを阻止しようと貧農どもを刺激させたのでしょう。 しかし、このヤチェノク、そう簡単にくたばる策士ではありませんぞ?」
「だが…」
「そのとおりです陛下。 フレンダンも一筋縄ではいきません。 そこで、ある手を打たせていただきました。」
机の整理をしているメイドが、なにやら引き出しの間に挟まっている紙を見つけた。
「病める帝国事件?」
フレンダン伯爵の筆跡がある手紙には、帝国に迫る危機と、ある女性への想いがつづられていた。
「奥様。 奥様、だんな様からのお手紙のようですが?」
「なあに? これは、あの人の字だわ。」
ヴィクトリーヌはメイドから渡された手紙を見て、少し青ざめた顔になった。
「お顔の色が優れませんが?」
「いいえ、大丈夫よ。 今日はもう帰りなさい。 何かとてつもなく嫌なことが起こる気がするわ。」
メイドは彼女にそう言われると、軽くお辞儀をして部屋から出て行った。
「フレンダン。 今どこにいるのかしら。」
昨日の夜は元気そうにしていた彼とベッドをともにしたのだが、今日になって不安が一気に襲ってきた。
「心配だわ。」
どうにも気持ちが抑えきれなくなって、彼女は玄関に出て、はっとした。
床がさっきまでと違い、明らかに茶色い汚れで埋め尽くされていた。
誰かがこの家に入ろうとしたのだろうか?
「誰かいるの?」
町ではデモが発生しているといううわさがあるが、庶民の味方と思われている伯爵の愛人を殺す者など、そうそういるはずがない。
彼女は少なくとも、生活に困った市民の盗みだろうと考えていた。
これまでもしばしばそういったことが繰り返され、事態が伯爵に知れるたびに、伯爵が目をつぶってきたからだ。
「怯えなくていいのよ? ほしいものがあったら、遠慮なく言ってくださればいいの。 主人もきっと理解なさっているはずですもの。」
「それは都合がいい。」
「なんですか、あなたたち!」
庭の死角から現れたのは、宮廷の正規軍の兵士たちだった。
「フレンダンからなにも聞いていないのか。 まあいい。 将軍の命令だ! 暴動の主導者の関係者として連行する。 つれていけ!」
兵士たちは容赦なく彼女の腕をつかみ、髪をくしゃくしゃにするほど、強引につかんだ。
「離しなさい!」
「暴れるな女! お前は罪人だ! 罪人の財産は没収しろ! 後は燃やせ!」
「やめて! 燃やさないで!」
勝手に屋敷に上がりこみ、兵士たちは金目のものを根こそぎに奪ってゆく。
屋敷にはやがて火の手が上がり、デモとは関係のない火事による避難の呼びかけが行われ始めた。
「火事だーっ!」
違う、そうではない。
あの手紙も、燃え盛る炎の中に投げ込まれ、今はもうこげたカスになっているだろう。
悲痛な女性の叫び声が、黒煙と焦げ臭い匂いに混じって、むなしく消えていった。