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0040:猶予

厨房の湿った熱気の中で、マッテオは大きな木杓子を動かしていた。

鍋の中で踊る粥は、驚くほど白い。具材はない。ただ、米の芯まで熱が通り、糊のように滑らかになるまで、彼は火加減を調整し続けていた。


「並べ並べ。押すな押すな。――お前、まだ足がふらつくなあ。こっちの方にこい、立ちやすいから」


マッテオは怒鳴らない。

ニコニコ顔のマッテオは失敗の追求もしない。怒鳴れば人は縮こまり、胃を閉ざす。壊れた人間は、戦力にも、労働力にもならない。


集められたのは、ラウロ商会への入会を志願した者たちだった。男も女も、年齢も出自もばらばらだ。だが共通点が一つある。

「今すぐ売られなかった」という事実。


「これは胃をびっくりさせない食べ物なんだ。風邪の時や長いことものを食べてなかった時に口にすると良いものだから。作り方と味を覚えておいてくれ」


「みんなに任せる仕事なんだが…三つある。掃除、調理、洗濯だ」


湯気の向こう側で、マッテオは告げる。


「覚えが早い者は、薬草の仕分けもやらせる。ここでは誰も、お前たちの出自を問わない。だが、サボる奴には飯は出さない」


「……急に売られたりしませんか…」


一人の女が、消え入るような声で尋ねた。

マッテオは手を止め、鍋の縁をコン、と叩いた。


「うちの旦那はここまできたらまず売らない。ただ、保証はない。働かないヤツを抱えるような慈善家じゃないから…その辺はシビアだ」

「多分…"期待と信頼を費用に乗せておく"とか怖いこと言い出すから気をつけろ」


マッテオが笑いながら語る。

その言葉に、厨房にいた全員が、吐息を漏らした。

ここには暴力がない。怒号がない。女としての価値を値踏みする視線もない。

マッテオが守っているのは、火だけではない。彼らが再び「人間」という形に戻るための、最低限の室温だった。


夜、火を落としながら、マッテオは思う。

——猶予とは、希望ではない。

——ただ、生き直すための最低限の温度だ。

彼はそれを、火加減として知っていた。




潮風が、傷口を刺すように吹き抜ける。

港の喧騒の中、アルヴィーゼは揺れる甲板に立ち、新顔たちを一列に並ばせていた。


「名はどうでもいい。できることを言え」


彼の視線は、彼らの衣服の汚れではなく、指先のタコや、重心の置き方を見ていた。海という理不尽な世界において、過去の栄光や悲劇は何の重みも持たない。


「帆を畳めるか。結び目は。……船酔いはするか」


一人ずつ確認していく。

中には、明らかに片足を庇っている男がいた。アルヴィーゼの鋭い眼光がその脚に止まる。男は顔を強張らせたが、アルヴィーゼはただ短く鼻を鳴らしただけだった。


「覚えておけ。船は平等だ。役割がなければ、居場所もない」


それは突き放すような物言いだったが、背後にある事実は重い。

船の上で足手まといになることは、死を意味する。だからこそ、彼は彼らに「役割」という名の命綱を与えようとしていた。


「役割は、最初から持っていなくていい。覚えろ、耐えろ、立っていろ。

最初は水桶運びだ。それから甲板掃除。夜番もやってもらう」


誰も特別扱いはしない。だが、誰も見捨てない。

アルヴィーゼは、彼らをすぐには沖へは出さない。まずは港に繋がれた船で、揺れに慣れさせる。

それが、潮の香りに染まった彼の、不器用な優しさだった。


夜、船体を点検しながら、アルヴィーゼは思う。

——ラウロは、人を捨てない。

——だが、甘やかしもしない。

沈む船を救うには、まず浮くための重さを知れ。

それが、船乗りの猶予だ。




「……ははっ、いいツラが揃ってるじゃねえか」


半地下の倉庫に、ミケーレの下卑たようでいて、どこか楽しげな笑い声が響いた。

集められたのは、他の二つの場所から「溢れた」者たちだ。従順になれず、かといって力仕事に向くほど頑健でもない。ただ、瞳の奥に消えない火種を抱えたような、厄介な連中。


「こっちだ。腕を見せろ」


ミケーレが案内したのは、薬品の鼻を突く臭いと、錆びた鉄屑が散乱する奇妙な工房だった。


「いいか、ここにはまともな仕事はねえ。火を扱う。刃を扱う。時々、嘘も扱う。表通りを歩きたい奴は、今のうちに帰れ」


数人がたじろぎ、後ずさる。

だが、ボロを纏った一人の若者が、食い入るようにテーブルの上の分解された鍵を見つめていた。


「……覚えれば、役に立ちますか」


「役には立つ」


ミケーレは即答した。


「だが、誰からも感謝はされねえかもしれねえ。嫌われ、疎まれる仕事もやることになる。それでもいいか?」


若者は黙って頷いた。

ミケーレは満足そうに口角を上げた。ラウロはかつて言った。「使い道が分からないものは、捨てるな。置いておけ」と。

正道から外れた「歪み」こそが、時に商会を窮地から救う鍵になることを、ミケーレは身をもって知っている。

ここは、名もなき価値を殺さずに育てる、孵化場なのだ。


ミケーレは、その意味を、痛いほど知っている。

——猶予とは、

——「今は名前がついていない価値」を

——殺さずに置いておくことだ。

夜、倉庫の奥で火を落としながら、彼は呟く。

「……いい商会だ。

こんな面倒な真似、他じゃやらねえ」




夜、商会の宿泊施設は静まり返る。

マッテオは厨房の火を落とし、温かな余熱の中で眠りにつく。

アルヴィーゼは船体を叩く波音を聞きながら、ロープの具合を確かめる。

ミケーレは薄暗いランプの下で、誰にも理解されないガラクタを磨き続ける。

三人はそれぞれ、ラウロから預かった「猶予」という名の時間を、大切に使い果たしていた。


そして、ラウロ自身は――。

彼は誰の前に立つこともなく、ただ執務室で帳簿を捲っている。

羽ペンの走る音だけが、深夜の部屋に響く。


人は商品ではない。

だが、何もしなければ、ただ商品と化し消費され、消えていく。

だからこそ、彼は「猶予」を買い、彼らに与える。


それは、彼らが自らの意志で立ち上がるための、束の間の静寂。

ラウロ商会という名の、生き直すための温度だった。




夜の港は、昼とは別の顔を持っていた。

波止場に打ち寄せる水音は鈍く、倉庫の石壁に反射する灯りは、必要以上に影を長く引き延ばす。


ラウロの倉庫兼事務所では、帳簿の束が一度閉じられていた。

今夜は数字を詰める夜ではない。

世界の“気配”をすり合わせるための時間だ。


扉の軋む音もなく、ジュリアーノは入ってきた。

相変わらず、軽い足取りだった。

だが、その軽さは、場を読み切った者だけが持つ余裕でもある。



ジュリアーノ・ディ・アルベリコ


ラウロと共にサムエルのもとで育てられた元奴隷の青年。ラウロの相棒であり、ラウロ商会の利益を運用する財務担当。

細身で、金髪に青い目。声にも威圧はなく、剣より帳簿が似合う。

沈黙の癖、言葉の選び方、欲しい役割――それらを瞬時に読み取り、相手が自分から納得する答えを差し出すことを得意とした。

関係と仕組みだけを信じる構造解析に長けた金融の男。


ラウロが人と現場を引き受けるなら、

ジュリアーノは金と信用を引き受ける。


ラウロが唯一、裁かずに背中を預けている男だった。


「……で、今年はどこから話す?」


ジュリアーノは外套も脱がず、椅子に腰を下ろしながら言う。

ラウロは答えず、卓上の地図を指で叩いた。


「コソヴォだ」


一瞬、ジュリアーノの眉が動いた。

それだけだった。


「フニャディ=ヤーノッシュが負けた」


「……ああ」


ジュリアーノは短く息を吐いた。


「ああ…聞いてる。これはもう…止まらねえ」


ラウロは頷く。


「黒海も、ボスフォラス海峡も、エーゲ海も、“今まで通り”が前提じゃなくなる」


「“今まで通り”が一番高くつくんだよなぁ」


ジュリアーノはそう言って、卓上の銀貨を一枚、指先で弾いた。

澄んだ音が、やけに大きく響く。


「で? フィレンツェに何を持っていくつもりだ」


「香辛料、香料、薬剤、皮革。……金も」


その瞬間、ジュリアーノの動きが止まった。


「金は、出すな」


即断だった。

相談でも、提案でもない。


「フィレンツェでは卸すな。今は」


ラウロは視線を上げる。


「理由を聞いても?」


「貴金属飢饉が“兆し”じゃなくなる」


ジュリアーノは淡々と続けた。


「英雄が負けたってことは、均衡が壊れたってことだ。

戦争は止まらない。止まらない戦争は、金を吸い尽くす。

今までの比じゃない量でな」


彼は、地図の西側を指でなぞる。


「王も、銀行も、教会も、金を抱え込む。

流通が細る。相場は上がる。

その時に金を出すのは、愚策だ」

「だから、俺が引き取る」


きっぱりと言った。


「こっちで預かる。為替でも、預託でもいい。

帳簿上は、お前の金だ。だが、現物は放出するな」


ラウロはしばらく黙っていた。

羽ペンを置き、両手を組む。


「……ずいぶん踏み込むな」


「そういう局面だ。これから…時代の裂け目に入る。覚悟しておけ」


ジュリアーノは肩を竦める。


「お前は現場を見ろ。俺は構造を見る。

今、金は“動かすもの”じゃない。“盾”だ」


その言葉に、ラウロは小さく笑った。


「相変わらずだな。人の商売を勝手に決める」


「決めてない。これは構造的最適解というもんだ。構造的最適解という理解におおよその人間はついてこれん。だから、商売の現場に立つ理解者は貴重だ」


「……わかってる」


短い返事だった。


二人の間に、沈黙が落ちる。

外では、船員の笑い声と、荷を運ぶ音が遠くに聞こえる。


「なあ、ラウロ」


ジュリアーノが、少しだけ声を落とした。


「お前、自分の商売を何だと思ってるんだ」


「何って…それは…罪だ。私は彼らの骸の山の上に座ってる罪人だ」


即答だった。


「そんな神経でよくやれるな…。意味わからん。サムエル翁が心配しているのも知ってるのか?」


ラウロは、しばらく考えてから言った。


「あれは…性格そのままに半分面白がっている。だが、この青臭い私の足掻きに変な期待を寄せてるのも確かだ」


ジュリアーノは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「まぉなぁ…俺やサムエル翁からするとお前は訳わかんねー存在だからなぁ…」


そう言いながらも、彼は立ち上がる。


「けどま……だからこそ信用はできる、てのはある」


扉へ向かいながら、振り返らずに言った。


「"金"は、俺が預かる。

お前は、いつも通り人を見ろ。

世界が壊れるなら、その前に形を変えりゃいい」


扉が閉まる。


残されたラウロは、帳簿を開き直した。

そこに並ぶ数字は、まだ静かだった。


だが、その裏側で、

世界は確実に、音を立てて動き始めている。


ラウロは羽ペンを取り、

金の欄に小さく注記を加えた。


——保留。


それは、逃げではない。

次の嵐に備えるための、猶予だった。

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