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0039:値段と猶予

翌日、ラウロの倉庫兼事務所の重い扉を押し開けたのは、冬の湿った海風と共に現れた、恰幅の良い男だった。


厚手の外套に包まれてなお、その体躯の逞しさは隠しようがない。

長年石畳を踏みしめてきた男特有の、大地に根を張るような足取り。その一歩ごとに、事務所の古い床板が小さく悲鳴を上げた。


「航海の成功、おめでとう。また今年もこの場所で顔を合わせられた。まずは神に感謝を捧げようじゃないか」


男は快活な笑みを浮かべ、大仰に両腕を広げた。


バルナバ・デ・カンポフレゴーゾ。


ジェノヴァ商人の中でも、彼は少しばかり異質な賢明さを持つ男として知られている。


彼は黒海の豊かさを知っていた。そして、そこが間もなく“終わる”ことも、誰より早く察知した男だ。

オスマンの影がレヴァントを覆い尽くす前に、臆病者の烙印を恐れず、西地中海と大西洋へと軸足を移した。その判断を支えたのは、恐怖ではなく、水のように形を変える生存本能だった。


陽気な冗談を叩きつける口調は、相手の警戒を解くための柔らかな皮膚にすぎない。

ひとたび商いの核心に触れれば、その皮の下から、「次の現実」だけを見据える冷徹な商人の顔が覗く。


ラウロにとって、彼は稀有な存在だった。

説教もせず、安っぽい慰めも口にしない。ただ、逃げ場を失う前に、黙って裏口の鍵を差し出してくれる大人だ。


「あなたも元気そうで何よりだ。どうぞ、掛けてくれ」


ラウロは席を促し、乾いた羊皮紙をテーブルに広げた。


「道中、私掠船の襲撃に遭った。予定より数量は削られたが……概ね、例年通りの品揃えは確保している」


バルナバは腰を下ろし、慣れた手つきで羊皮紙に指を走らせる。

品目、数量、単価、合計。

商人の目が、羅針盤のように数字の海を読み解いていった。


「香辛料、砂糖、明礬……。うむ、文句なしだ」


満足げに鼻を鳴らす。


「君の持ち込む品は質が良い。売り手も買い手も、余計な疑いに脳を割かずに済む。この界隈で、君のような存在は貴重だ」


言葉を切り、射抜くような視線を向けた。


「ところで、今年の“労働力”の入りはどうだ?」


感情はない。それが、この部屋で交わされている会話の性質だった。


「ロンドン、オックスフォード、果てはパリまで……あちらさんはペストの再燃で大騒ぎだ。

農園で動ける人間は、今や金と同じか、それ以上の相場で跳ねているぞ」


「丁度いい人材が揃っている」


ラウロは感情を排した声で応じた。


「元々農地を耕していた集団だ。主人が死に、遺産整理の過程でこちらへ流れてきた。あとは、いつも通り体格重視で選別した連中だ」


「そいつはいい! 掘り出し物だ」


バルナバが膝を打つ。その乾いた音が室内に響いた後、ラウロがわずかに声を落として付け加えた。


「……ただし、一名。航海中に負傷した者がいる。傷は塞がっているが、完治とは言い難い」


「そいつは駄目だ」


バルナバの拒絶は、雷のように即座だった。


「値がつかん。そんな荷物は連れていけない」


迷いも、同情の余地もない。それがこの世界の理だと言わんばかりの断定。


「……君の流儀とは違うだろうが、これは商売だ」


「理解している」


ラウロは遮ることなく、静かに頷いた。


「私のこだわりを他人に押し付けるつもりはない。買い手の判断がすべてだ」


「話が早くて助かる。……では、後で現物を確認しよう」


商談の熱が一段落すると、話題は自然と「世界の脈動」へと移っていった。


「東方や黒海の様子はどうだ?」


「手元に入った報せとしては…コソヴォで、フニャディ=ヤーノッシュが敗れた」


ラウロの声に、重苦しい響きが混じる。


「バルカン半島の奪還は、もはや絶望的だろう」


「……やはり、黒海も時間の問題か」


「ああ。ボスフォラス海峡もダーダネルス海峡も、もはや東ローマ帝国( ビザンツ帝国)の支配下にはないに等しい。

いつ通行税という名の通行止めを食らってもおかしくはないが……今はまだ、嵐の前の静けさといったところだろう。遅かれ早かれ、あの海は閉ざされる」


「西も、穏やかではないぞ」


バルナバが肩を竦める。


「ブリュージュへ入る運河が、土砂の堆積で死にかけている。今はまだ小さな問題だが、商人にとっては致命傷だ。有力者が拠点を移し始めれば、あそこもただの泥沼になる」


ブリュージュ。かつて黄金の羊毛を象徴したフランドルの心臓。その鼓動が弱まっているという報告。


「ドーバーの私掠船は相変わらずだが、それ以上にフランスの勢いが無視できん。……ひょっとすると、あの長い戦争が終わるかもしれんぞ」


「百年も殺し合ってきた戦争が、か」


ラウロは静かに息を吐いた。


聖少女ラ・ピュセルとやらも、満更でもなかったようだな」


二人はそれから、他愛もない雑談に情報を混ぜ込みながら、世界地図の輪郭をなぞり続けた。それらは一見ただの噂話だが、次にどの海へ帆を向けるべきかを知るための、何よりも貴重な航海図となる。


やがて二人は倉庫へと移動し、物品の質と、繋がれた「人間」たちの状態を検分した。

一通り確認を終えると、バルナバは再び羊皮紙に最終的な数字を書き込んだ。


「……よし。これなら文句のつけようがない」


ペンを置き、バルナバは顔を上げた。


「これでどうだ」


「問題ない」


「決済は……いつも通り、君の活動資金用に為替レター・オブ・クレジットにしておこう」


「助かるよ」


バルナバは手際よく金額を書き込み、熱した蝋を落とした。自身の紋章が刻まれた指輪を押し付ける。


「良い取引だった、ラウロ」


二人は立ち上がり、短く、しかし互いの手の平の厚みを感じる確かな握手を交わした。

取引は成立した。


だが、彼らが交換したのは品物と為替だけではない。

刻一刻と形を変え、黄昏へと向かう世界の断片そのものだった。




ジェノヴァの港を刺す冬の陽光は、あまりに白く、残酷だった。

石畳を叩く商人たちの怒声や荷車の軋みは、まるで鋭利な刃物のように彼の鼓膜を削っていく。


彼は列の端に立ち、無意識のうちに右足を庇っていた。その僅かな重心の揺らぎが、今の彼という存在の「欠陥」を雄弁に物語っていた。


きっかけは、拍子抜けするほど些細なことだった。

荒れ狂う嵐の夜でも、血飛沫の舞う甲板でもない。ただ、波に揺れた拍子に滑り、積み上げられた木箱の角に脛を打ち付けた。ただ、それだけだ。


「運が悪かったな」

「すぐ治るさ、気にするな」


その時は、仲間たちも笑っていた。海を渡ればまた共に土を掘り、同じ釜の飯を食えると信じて疑わなかった。彼自身も、そう思っていた。


だが、カンディアの街で医師が彼の足を検分したとき、空気は凍りついた。

医師は無言のまま指先で腫れを押し、骨の軋みを確認すると、深く、重い溜息を吐いた。


「治りはする。だが、時間がかかる」


その一言が、彼の運命を書き換えた。

傍らに控えていた書記が、羽ペンを走らせる。帳簿に刻まれたのは死の宣告ではない。ただの、余白の追加だ。しかし、その空白こそが、彼の「値段」を暴落させた。


ジェノヴァの港に降り立つと、選別は淡々と、そして迅速に行われた。

昨日まで同じ水を飲み、同じ夜を越えてきた仲間たちが、一人、また一人と名を呼ばれていく。


(まだだ)

(次は、自分だ……)


祈るように胸の鼓動を数えた。だが、太陽が天頂を過ぎ、石畳に落ちる影が短くなっても、彼の名は呼ばれない。ついに最後の一人が連れて行かれたとき、乾いた音を立てて帳簿が閉じられた。


「この者は?」


使用人の一人が、荷物でも確認するように彼を指差した。


「彼は違う。足をやっているから買わないと主人が言っていた」


その瞬間、彼は雷に打たれたような衝撃と共に理解した。

失ったのは、健康ではない。「今」という価値だ。

この非情な市場において、未来にしか価値を持たない者は、存在しないも同義なのだ。


仲間の背中は、潮風の中に消えた。別れの言葉も、罵りさえも届かない。

残されたのは、選ばれなかったという冷徹な事実と、冬の港の孤独だけだった。


夕刻、彼は独り、薄暗い宿舎へと戻された。

主であるラウロは、うなだれる彼を一瞥しただけで、その瞳には同情の色も、あるいは失望の色もなかった。


「ジェノヴァで冬を越す。暖かくして体を労われ」


ラウロは事務的な口調で告げた。


「治せるものは治す。使えるようになってから、次を考えればいい」


その言葉の真意を、彼はすぐには咀嚼できなかった。


だが、数日が過ぎ、清潔な寝床と温かい食事が与えられ、誰からも「早く動け」と急かされない時間が訪れたとき、ようやく喉の奥に塊のような気づきがこみ上げた。


――売られなかったのではない。

――急いで売られる必要が、なくなったのだ。


値を下げて売ることも出来た。

それを主人は選択しなかった。


冬の間、彼は静かに時を費やした。

港の喧騒を遠くに聞きながら、一歩ずつ、確かめるように床を踏みしめる。


春の兆しが海の香りに混じる頃には、あの日負った痛みは影も形もなくなっていた。


再び、船が出る。

行き先はカッファ。全ての始まりの港だ。


かつての仲間はもういない。だが、今の彼には、自分の意志で地を踏みしめる足がある。


彼はまだ知らない。

この「停滞」の時間が、後に彼が教育を受け、自らの名を取り戻し、値を付けられる側から「値を決める側」へと変貌を遂げるための、最初の静かな助走であったことを。


ただ、一つだけ確かなことがあった。

あの極寒の港で、真っ当な商品として捨て値で売られなかったこと。


それこそが、神と呼ばれるものが、あるいは運命が彼に与えた、初めての「猶予」という名の慈悲だったのだ。


彼は船縁に腰を下ろし、白く泡立つ航跡をじっと見つめている。

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