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0038:取引と猶予

港の朝は、潮騒や鳥の声よりも先に、静寂から始まる。

まだ人の影が疎らな時間。ラウロの倉庫兼事務所の分厚い木扉を、遠慮がちな、けれど迷いのないノックが叩いた。


扉の向こうに立っていたのは、ジョヴァンニ・ディ・サン・ルカである。


ジョヴァンニ・ディ・サン・ルカは、祈りと帳簿のあいだを行き来する男だった。


教会や修道会、施療院の調達を一手に引き受け、教会と商人の双方から信を置かれている。

彼の名は「慈善」と結びついて語られるが、実際の仕事は、病と貧困と人身取引が交わる場所で、言葉を変えることで世界を回すことだった。

信仰は本物だ。だが、疑問を抱くこともまた、彼はやめなかった。


彼の纏った黒衣には装飾の一つもなく、朝霧に溶け込みそうなほど地味だ。

しかし、その立ち居振る舞いには、教会と商会、そして凄惨な施療院と喧騒の市場――その相反する場所を幾度も往復してきた男特有の、岩のような落ち着きがあった。


「今年の航海の無事を、お祝い申し上げます」


ジョヴァンニが頭を垂れる。それは神への祈りであると同時に、「幾多の書類と検疫の壁を越え、ここに辿り着いた」という事実を祝す、実務者としての連帯の言葉だった。


倉庫の奥、埃の舞う光の中で、木箱の封が次々と解かれていく。

没薬、乳香、フェヌグリーク、アロエ。

ジョヴァンニは急ぐことなく、一つひとつの品を検分した。指先で琥珀色の粒を転がし、光に透かして色を見、乾燥の具合を確かめる。


「……これは、見事ですね」


こぼれた溜息は、演技ではない本音だった。


「これほど上質な品を、私に回してよろしいのですか。商人ならば、もっと“派手な”売り先があるでしょうに」


ラウロは帳簿から目を離さず、淡々と羽ペンを動かす。


「君は私の商売を知っている。それに、色眼鏡で見ずに向き合ってくれる」


ペンが止まった。


「十分すぎると思うなら、それは君への対価だ。気にするな」


ジョヴァンニは困ったような、それでいて親愛の情の籠もった苦笑を浮かべた。


「信仰を盾にして施しを受け取るのには慣れていますが……そう正面から言われると、何とも面映いですね」


ラウロは不意に話題を変えた。その声には、事務的な響きの裏に微かな硬さが混じる。


「少女たちの件だが――書類上、仮の名前をあてがっている。まだ洗礼前だ」


「承知しています」


「彼女たちが元の名を欲しがるなら、応えてやってほしい。トマソなら、うまく取り計らってくれると思うが」


「あの方なら大丈夫ですよ」


ジョヴァンニの返答は即座だった。


「それに、彼女たちが大きくなるまでは……我々で面倒を見ましょう」


ラウロは一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせた。


「……今回は、ややこしいのが居る」


「妊婦の方ですね」


躊躇のない応答だった。その静かな声に、ラウロはわずかに肩の力を抜く。


「彼女が、ここまで辿り着いた。それが彼女にとって幸か不幸かは分からんが……せめて、好きなようにさせてやってくれ。子のことも、彼女自身の運命も」


一拍置いて、彼は付け加えた。


「その分、価格は割引させてもらう」


「そこまで仰られては、拒む理由はありませんよ」


「……恩にきる」


二人は倉庫の一角へと歩を進めた。

呼び寄せられた女たちが、薄暗い影の中で静かに並んでいる。

体格の良い一般奴隷の女性、怯えを隠せない少女。そして、膨らんだ腹部をいたわるように両手を添えて立つ妊婦。


ラウロは一枚の羊皮紙を差し出した。カンディアでの査定結果を記した公的な記録だ。


「実際に見て、確認してもらって構わない」


ジョヴァンニは歩み寄り、一人ひとりと目を合わせていった。それは家畜を値踏みする商人の目ではなく、迷い子を確認する守護者の目だった。


「この世の地獄から、よくぞ辿り着かれました」


穏やかな声が、緊張に満ちた空気を解かしていく。


「これからしばらくは、教会が皆さまの身の安全を保証いたしましょう」


少女が小さく息を吸い、妊婦の肩から、長く張りついていた強張りがほどけた。

ジョヴァンニは満足げに頷くと、羊皮紙に素早く筆を走らせた。


「特に問題はなさそうですね。没薬と乳香、諸々含めて……この条件で、いかがでしょうか」


ラウロは提示された数字に一瞬だけ目を通し、短く応じた。


「……問題ない」


「では、お支払いは次にジェノヴァへ戻られた際で?」


「構わない。貨幣でなくとも、代わりの品でもいい。自由に提示してくれ」


「光栄でございます」


ジョヴァンニは懐から信用状を取り出し、ラウロの手へと渡した。


「荷物は、後ほど別の者に引き取りに越させましょう。まずは……皆さまをお連れしなければ」


彼は女たちに静かに声をかけ、一人ひとりの手を取るようにして促した。

事務所の重い扉が開かれ、外の眩い光が差し込む。彼女たちがその光の中へと消えていくのを見届け、ジョヴァンニは最後に一度だけ一礼して、去っていった。

バタン、と扉が閉まる。


倉庫に残されたのは、古びた帳簿と、微かに漂う香料の芳しき残り香だけだった。

そして、幾つもの命が「取引」として成立したあとの、いつもの、空虚で静かな空白がラウロを包み込んだ。




第●●日――音のない揺れ

船底の湿った空気と、肌を焼くような罵声を覚悟していた。

連行される際、縄を打たれることもなかった。ただ「乗れ」と促され、私は膨らんだ腹を庇いながら、板の隙間に吸い込まれた。

船の中は驚くほどに静かだった。


以前いた場所では、夜は誰かの嗚咽か、あるいはもっと酷い、獣のような息遣いで満ちていた。

目を閉じれば、いつ触れられるか分からない恐怖に震える――それが「船」だと、私は知っていた。けれどこの船では、波が船体を叩く音しか聞こえない。


この船では、誰も私の腹を見なかった。

視線が滑る。

まるで荷物の一つのように、だが値踏みではなく、ただ“そこにあるもの”として扱われる。


案内された場所には、仕切りがあった。

板と布で作られた、粗末だが、閉じられる空間。


そこに座り込んで、私は待った。いつ誰がこの布を剥ぎ取り、私を「商品」として検分しに来るのかと、震えながら。


だが、夜が明けるまで、誰も来なかった。

私は、自分の罪深さを噛みしめるように、泥のような眠りに落ちた。



第●●日――透明な存在

朝、目が覚めたとき、

最初に思ったのは「生きている」という実感だった。


何も起きていない。

誰も入ってきていない。

腹の子は、まだ動いている。


次いで運ばれてきたのは、温かい麦粥だった。

差し出した男の手には、節くれだったタコがあったが、私の体に触れることはなかった。


「食え。残せば海に捨てるだけだ」


その言葉に、慈悲はなかった。けれど、拒絶もなかった。

その沈黙が、少し怖かった。


ここでは、誰も私の腹を見ない。汚い物を見るような目も、好奇の視線も、あるいは「価値」を測るような卑しい光も。


午後、甲板へ続く通路に、眉間に皺を寄せた男が立っていた。

この船の主、私を買い取った商人だ。

彼は私と目が合うと、短く言った。

声は低く、感情はない。


「詳しくは聞くまいが。自分なりに、折り合いはつけておけ」


それだけだった。

同情でも、蔑みでも、叱責でもない。ただ投げられた言葉だった。私は、自分の存在がひどく希薄になったような、妙な浮遊感を覚えた。



第●●日――提示された「無」

夜、腹が張った。

痛みではないが、重い。


この子は、私を地獄へ繋ぎ止める鎖だ。

この子が生まれれば、私は一生、あの夜のことを忘れられない。


私は考える。

産むのか。産まないのか。


産めば、この子は何者になる。

私の罪の証か。それとも、ただの命か。


捨てることも出来る。

きっと、誰にも咎められない。

でも、その時、私は私でいられるのか。


翌朝、またあの商人が通りがかった。彼は私の腹を一瞥し、淡々と言った。


「産まれた子の扱いに困るなら、投げる前に相談しろ」


心臓が跳ねた。

「投げる」――赤子を海へ。それは、この世からその存在を消し去るということだ。


「船の上の出来事なら、どうとでもなる」


過去を消せる。記録を消せる。

何もかも何もなかったことに出来る。

村に戻れる。純潔だった顔で。

清らかな娘に戻って、新しい人生を歩める。


それは、救いだった。

同時に、試されている気もした。


彼は答えを求めなかった。

ただ、選択肢を置いていった。



第●●日――奪われないという恐怖

気づけば、船は穏やかな海域に入っていた。


私は気づく。


夜が静かだ。朝が来る。身体が守られている。

ここでは、何も奪われない。

体を差し出す必要も、言葉を飲み込む必要もない。


ただ、静寂だけが与えられている。

けれど、その静寂が一番恐ろしかった。

「どうするか決めろ」と、鏡を突きつけられているようだった。


この子を、どうするのか。

自分を、どう扱うのか。


これまでは、誰かに奪われることで、自分で決めないで済んできたのだ。被害者であることで、自分を許してきたのだ。


誰も代わりに決めてくれない。

だが、決めたあと、捨てられない。


それが、この船のやり方だった。

彼は私から、奪うことさえしない。

ただ、一人の人間として、私をそこに放り出している。



下船――重み、あるいは日常

港に着いた。


私は降ろされた。特別な言葉はない。

金の話も、感謝の強要もない。


教会に行くことも出来る。

村に戻ることも出来る。

仕事を探すことも出来る。


私は、ただの女になった。



後日――意味の遅延

それから数ヶ月が経った。

私は小さな村で、洗濯女として働いている。


井戸端で、冷たい水に布を浸す。

太陽の光が、水面に反射して眩しい。

隣の主婦が、「今日はいい天気ね」と笑いかけてくる。


その時、腹の底で、腹の重みを感じた。

私は、洗濯物を握りしめたまま、立ち尽くした。


その瞬間、

突然、何かが分かった気がした。


――あの人は、

私を“守るため”に買ったのではなかった…

――“選べるようにするため”に買った…


奪わないため。

代わりに決めてしまわないため。

私が、私のままでいるため。


それが、どれほど高価なことか。

どれほど危険なことか。


理由は分からない。

言葉にも出来ない。


あの船の静寂は、私が私を繋ぎ止めるための、間違いなく唯一の猶予だった。


冷たい水に濡れた手が、震える。

鼻の奥がツンと痛み、視界が滲んだ。

誰にも見られないよう、深く頭を垂れる。


「……ああ」


絞り出すような声が漏れた。

あの時、受け取ったものの正体が、今になって、熱い涙と共に溢れ出して止まらなくなった。

私は泣きながら、次の洗濯物を水に浸した。

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