0035:手を離されたもの(マレンマ近海)
夜の帳はすでに深く、月光を吸い込んだ海面は、黒い革のようになめらかな光沢を放っていた。
先行するラウロのキャラベル船は、鋭い牙で風を噛むようにして、軽やかに波頭を切り裂いていく。
だが、その後方を追うアルヴィーゼのキャラック船――「ラ・プロヴィデンツァ(La Providenza)号」の足取りは、呪わしいほどに重かった。
まるで目に見えぬ海魔に足首を掴まれているかのように、船体は鈍く、波に抗うたびに低い軋みを上げていた。
「……来ているな」
老船長アルヴィーゼは、舵輪を握る手に力を込め、前を向いたまま低く呟いた。
振り返る必要はなかった。背後の闇、網膜の端に張り付くような執拗な帆影を、背中の皮一枚が敏感に察知している。
細身のシルエット、低い舷、そして速度のみを追求した飢えた獣のような船体。
マストに旗はない。
私掠船だ。
軽快なキャラベルであれば、夜陰に乗じて逃げ切ることも叶っただろう。だが、この腹を膨らませたキャラックは違う。
積み過ぎていた。食料、水、交易品。そして何より――船倉の奥底で肩を寄せ合う、声なき「生きた積荷」たち。
「距離……詰められてる」
マスト頂上の見張り台から、乾いた声が降ってきた。恐怖に震えているのではない。ただ、避けようのない死期を悟った学者のように、淡々と事実を告げている。
このままでは接舷される。まず砲撃で足を止められ、次に接舷鉤が投げ込まれるだろう。略奪、そして凄惨な選別が始まる。
アルヴィーゼの脳裏に、かつてラウロが言い放った言葉が苦い毒のように蘇った。
『迷う時は、躊躇なく荷を捨てろ。海の上じゃ、重さは死だ』
ラウロはそれを「物」に対して言ったのではない。だが、この海域を行き交う船乗りの多くは、それを別の意味で解釈する。
人を降ろせば、船は浮く。船が浮けば、速度が出る。誰の頭の中にも、血塗られた算術が浮かんでいた。
一瞬、甲板に墓場のような沈黙が降りた。
誰かが固唾を飲み、誰かが何かを言いかけて、そのあまりの浅ましさに口を閉ざした。
アルヴィーゼの眼光が、月明かりの下で鋭く光る。彼は舵輪から一度も手を離すことなく、短く、裂帛の気合を込めて命じた。
「船倉を開けろ」
船員たちが弾かれたように動く。だが、そこに鉄鎖の擦れる音も、絶望に満ちた悲鳴もなかった。
甲板に転がり出たのは、ずしりと重い木樽の群れだった。
砂糖、明礬、香辛料。
次の港で金貨に化けるはずだった「重たい未来」が、次々と舷側を越えていく。
ドボン、という重低音とともに、富の結晶が闇の海へと吸い込まれていった。
水飛沫が上がるたび、老朽化した船体が、溜息をつくようにわずかずつ浮き上がる。
数字の上でしかないはずの「重量」の減少が、確かな鼓動となってアルヴィーゼの手のひらに伝わってきた。
「……続けろ」
アルヴィーゼの声は岩のように揺るがない。
そして、彼は一際低い声で付け加えた。
「後部だ。ミケーレから預かった“例の樽”を、海へ放れ」
それは火薬と油脂と生石灰を組み合わせた、文字通りの劇薬。逃走手段として秘匿されていた禁じ手だ。
「投げろ。今だ!」
樽が海面へと投じられた。
数秒の空白の後、黒い海の上に巨大な紅蓮の花が咲き誇った。
油と薬剤を詰め込まれた樽が炎を撒き散らしながら漂流し、追撃する私掠船の進路を真っ赤に染め上げる。炎の障壁。敵船は回避を余儀なくされ、その鋭い鼻先が大きく流れた。
距離が、開いた。
「……来ない」
見張りの声に、今度は湿り気が戻っていた。
キャラックは依然として重い。だが、死の宣告を受けるほどの鈍重さは、もう脱していた。
私掠船は燃え盛る海面に追撃を阻まれ、夜の闇にその輪郭を溶かしていく。
アルヴィーゼは、ゆっくりと肺の底にある熱い空気を吐き出した。
「……沈む時も、助かる時も」
独り言のように、あるいは海の神への誓いのように、彼は呟いた。
「全員一緒だ。船ってのは、そういうもんだ」
彼は最後まで振り返らなかった。
船倉の奥で、恐怖に震えながら事態の推移を待っていたであろう、あの「積荷」たちの顔を確かめることもしない。
夜の海には、冷たい商品が沈んでいった。
船の上には、温かい命が残された。
その選択が、商船を預かる者として、あるいは人間として正しかったのか。海は沈黙を守り、何も答えない。
ただ、軽くなったキャラック船は、明日へと続く波を力強く蹴り、前へと進み続けていた。
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トスカーナ南部マレンマ近海。
夜明け前、凪が訪れた。
猛り狂っていたティレニア海は、牙を抜かれた獣のように静まり返っている。ただ、浅瀬に打ち寄せる波の音だけが、疲れ切った肺の呼吸のように、規則正しく砂を噛んでいた。
岩礁の影に、その骸はあった。
岩に突き刺さり、船腹を無惨に裂かれたその船は、一目でそれと知れた。甲板下に不自然に並ぶ小さな通気孔。低い船縁。そして、本来の積載量を遥かに超えて縛り付けられた、無数の水樽。
「人」という名の貨物を、最も効率よく、そして最も過酷に運ぶためだけに設計された奴隷船の末路だった。
ラウロは、まだ闇の残る甲板で、単眼鏡を構えたまま動かない。
レンズの向こう、陸の斜面に最初の「赤」が灯った。
一つ。また一つ。
それは遭難者を導く救いの灯火ではない。獲物の位置を知らせる、略奪者たちの合図だ。
やがて、斜面の茂みから「影」が溢れ出した。
それは村という共同体の体裁すらなしていない。鍬を杖代わりにする老人、太い縄を肩に担いだ女、泥にまみれた裸足の子供。彼らは叫びもせず、ただ飢えた獣の群れのように、音もなく波打ち際へと吸い寄せられていく。
船から上がっていた生存者たちの悲鳴が、湿った空気を震わせた。
「助けてくれ!」
「私は商人だ! 礼はする!」
だが、言葉は陸の住人たちには届かない。彼らにとって、波打ち際に転がっているものはすべて「海からの贈り物」に過ぎなかった。
暴力は、あまりにも短く、事務的に行われた。
先ほどまで奴隷たちを鞭で打ち据えていた看守の腕に、見事な手際で縄が回される。座礁の衝撃と冷たい海水で体力を奪われた男たちに、陸の略奪者たちを撥ね退ける力は残っていない。
皮肉な逆転劇だった。
奴隷を繋いでいた鎖は、今度はその主の手首を締め上げるために使われた。値を付けていた者が、家畜のように歯を剥かれ、筋肉の質を確かめられる。
そこに怒りや正義感など微塵もない。あるのはただ、「使えるか、使えないか」という、生存のための冷徹な選別だけだった。
「……助けを求めていますね」
隣に立つ部下が、つぶやくように言った。
ラウロは単眼鏡を下げない。
「いや」
その声は、朝霧よりも冷ややかだった。
「知らせているんだ」
「……知らせている?」
「あそこにある、と。奪える肉があり、分かち合える布があるとな」
レンズの円の中で、一人の女奴隷が鎖から解き放たれるのが見えた。
しかし、彼女が自由を謳歌する暇はない。すぐに背後から農夫の太い腕が伸び、彼女の髪を掴んで内陸へと引きずっていった。
それは解放ではなく、単なる「所有権の移転」だ。ある帳簿から消された名が、別の薄汚れた記録に書き込まれたに過ぎない。
ラウロは静かに単眼鏡を畳んだ。
ここで彼らが介入すれば、数人の命は救えるかもしれない。だが、それはこの沿岸に根付いた、残酷だが強固な「秩序」を壊すことを意味する。別の地獄の蓋を開けるだけだ。
「進路を維持せよ。帆を張れ」
命じると同時に、彼の船団は静かに動き出した。
遠ざかる岸辺では、まだ焚き火が赤々と燃えている。
最後に見えたのは、濡れた砂の上に膝をつかされた男の姿だった。昨日まで黄金を数えていたその手は、今は背後で固く縛られ、泥にまみれている。
ラウロは一度も振り返らなかった。
海は何も語らず、ただすべてを等しく運び、そして等しく沈める。
この世界に真の意味での「救い」など存在しないことを、彼はこの海から、嫌というほど教えられてきたのだから。




