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0034:不戦の結末(ポンツィアーノ諸島沖)

ポンツィアーノ諸島沖の夜は、海よりも空の方が暗い。

月はなく、星は雲に削られ、波の稜線だけが鈍く光っていた。

ミケーレは左舷の影に立ち、じっと闇を見据えていた。

帆の形が、ない。いや――あるはずのものが、見えない。


「……来るな」


独白は、見張りの鋭い叫びに掻き消された。


「旗なし! 左舷前方!」


「切り離せ」


ミケーレの断に迷いはない。随伴していたラウロのキャラベルが風を抱え、北へ逃れる。アルヴィーゼのキャラックは燈火を消し、闇の深淵へと沈んでいった。

海域に残されたのは、一隻。『Super Spina』。


「さあ。伝説の一部になってくれや」



距離百二十。

私掠船は飢えた狼のように、一直線に距離を詰めてくる。交渉も警告も不要というわけだ。


「第一弾――放て」


重々しい木音とともに投射機マンゴネルの投射アームが跳ね上がった。闇を切り裂いて飛んだ陶器の樽が、敵の甲板で砕け散る。

刹那、白い地獄が爆ぜた。


生石灰の粉塵が霧となって甲板を支配する。粘膜を焼く激痛に、敵兵たちの罵声が悲鳴へと変わった。だが、彼らは熟練の略奪者だ。視界を奪われ、咳き込みながらも、盲目的に舵を固定し突っ込んでくる。


ミケーレはその狂気すら計算に入れていた。船を風上へと滑らせる。

霧が流れ、視界が戻る。白く染まった敵甲板で、男たちは涙を流しながらも剣を抜き、接舷の機を窺っていた。


「……いいね、そうでなくちゃ」


ミケーレは、どこか感心したように、あるいは哀れむように呟いた。



距離八十。


「第二、続け」


低く響く砲声。大砲から放たれたのは丸弾ではない。空中で展開したそれは、巨大な鉄の蜘蛛の巣だった。

改良型チェーンショット。回転する主鎖から伸びた無数の細鎖が、敵のシュラウドをなぎ倒し、帆を八つ裂きにする。


機動力あしを殺せ」


さらに海面を滑る重り付きの網が、私掠船の舵に絡みついた。船首が大きく振れ、制御を失う。それでも、慣性という怪物が彼らをSuper Spinaへと運んでくる。



距離三十。


「煙を出せ」


船尾の竈から、硫黄と湿った藁を混ぜた黒煙が吐き出された。夜を侵食するその臭気は、死の予兆に近い。私掠船の連中は、もはや敵の姿すら見えず、ただ死に物狂いで接舷板グラップリング・ボードを構えた。


衝撃。

接舷と同時に、Super Spinaの甲板から油脂の樽が次々と投げ込まれた。獣脂と石鹸が混ざり合った透明な死神が、敵の足場を鏡のような滑走路に変える。


ガクン、と接舷板が掛かった。

先陣を切った男が、狂ったような雄叫びを上げて飛び込んでくる。


その瞬間――

世界が、海に裏切られた。


ミケーレの合図で閂が引き抜かれ、Super Spinaの重厚な舷側が、外側へと音を立てて倒れ込んだ。

「滑り台」の完成だ。


「なっ……!?」


男の足下から抵抗が消えた。油脂に塗れた甲板の上で、摩擦という概念は存在しない。

重い鎧を着込んだ男たちは、踏ん張ることすら許されず、なす術もなく船の隙間――暗い海へと滑り落ちていった。


一人、二人、泡となって消える。後続の男たちが、その「消失」に恐怖し、足を止めた。

だが、トドメはまだ終わっていない。


「掃除の時間だ」


最後に投げ込まれたのは、薄い陶器の瓶。割れた瞬間、地獄を煮詰めたような悪臭が炸裂した。

腐った血、内臓、アサフェティダの毒々しい臭い。それは服に、肌に、そして鼻孔から脳へと直接突き刺さる。


「か、神よ!!」


「……呪われてる! この船は呪われてるぞ!」


さっきまで剣を振るっていた略奪者たちが、今や甲板に這いつくばり、内臓を吐き出すかのように嘔吐していた。

ミケーレは、ただそれを見ていた。


「……よし。回収」


冷徹な声が響く。


「一人ずつだ。締めすぎるなよ。生かしたまま縛り上げろ」


嗚咽する者は組み伏せられ、溺れる者は引き上げられ、簀巻きにされ、Super Spinaの甲板に並べられていく。


先ほどまでの殺気は消え、夜に残るのは嗚咽と、鼻を突く地獄の残り香だけだ。

ミケーレは舷側に立ち、自船に傷一つ付けていない無傷の「獲物」を見下ろした。


「いやぁ……」


そこで初めて、ミケーレの唇が愉悦に歪んだ。


「今回はちゃんとうまくいった」


遠くから、合図を受けて戻ってくるラウロとアルヴィーゼの船影が見える。


この夜の出来事は、やがてアドリア海から地中海中の港で、尾ひれをつけて語り継がれることになるだろう。


――殺されはしない。だが、戦わせてももらえない。

――あれは戦争ではない、一方的な「調教」だ。


そして最後に、船乗りたちは震えながらこう囁くのだ。


「あの船にだけは近づくな。どう負けるか、想像することすら恐ろしい」


ミケーレ・スピナ。

その名と共に残る、最悪で最高の噂が、港という港に向けて、今ここで生まれた。





接収された私掠船の甲板には、死よりも濃い沈黙が立ち込めていた。

戦いの狂乱が去った後の光景は、ひどく事務的だ。切断された索具が手際よくまとめられ、裂けた帆には無骨な仮縫いが施される。曲がった滑車を叩き戻す金属音だけが、夜の静寂を規則正しく刻んでいた。


ごしごし、ごしごし、ごしごし。


水兵たちは一心不乱に床を磨く。獣脂と石鹸の混じり合った脂っぽい臭い、白く乾いた石灰の粉、そして――。


「……臭いを残せば、売り物にならないからな」


誰かが低く呟いた。吐瀉物と、死を悟った人間が漏らした恐怖の跡。それらを洗い流すのは、同情からではない。この船がすでに「勝利の戦利品」という名の、価値ある荷へと変貌したからだ。


舷側沿いに並べられた捕虜たちの背後には、逃げ場のない漆黒の海が広がっていた。

ミケーレはそこに椅子を置き、どかりと腰を下ろした。剣も持たず、防具も脱いだままの無防備な姿。だが、その静かな存在感こそが、捕虜たちの心臓を冷たく掴んでいた。


「……おつかれさん」


独り言のような労いに、答える者はいない。


「どう? 今の気分は。……良いわけ、ないよね」


ミケーレは一人ひとりの顔を、なぞるように見つめた。憎悪を剥き出しにして睨み返す者、絶望に視線を彷徨わせる者、震える唇を噛み締めて涙を堪える者。彼はその全てを、等しい重さの視線で受け止める。


「ねえ、君たちさ。これからどうしたい、とかある?」


軽い、あまりにも軽い問いだった。


「……解放を望む」


沈黙を破ったのは、船長らしき男だった。背筋を伸ばし、最期まで尊厳を保とうとするその言葉に、ミケーレは一瞬だけ視線を向けた。だが、そこには肯定も否定も、あるいは嘲笑すらもなかった。


「ふうん」


ミケーレは興味を失ったかのように視線を外し、世間話でもするように続けた。


「さっき使った道具ね。あれ、地味に金と手間がかかるんだよ。樽も、鎖も、石灰も。掃除も大変だし。臭いも残る」


その言葉の端々に漂う「清算」の気配に、捕虜たちが息を呑む。


「お、俺は金になる! 家の者と交渉してくれれば、十分な身代金を――!」


身なりの良い商人風の男が、縋り付くように叫んだ。

しかし、ミケーレは答えない。


「ガレー船ってさ」


唐突に、彼は話題を変えた。


「いいよね。格好いいよね。あの櫂が揃って動くところとか、ほんと綺麗だと思う」


凍りつくような沈黙が甲板を支配した。

この海を生きる男たちにとって、その言葉は死よりも残酷な宣告だった。

ベンチに鎖で繋がれ、腐った粥を啜り、鞭打たれながら死ぬまで櫂を漕ぎ続ける。それがジェノヴァの誇る「美しいガレー船」の裏側にある現実だ。


「ふざけるな!」


「俺たちを舐めやがって!」


「こんなやり方が許されると思うな!」


堰を切ったように、怒号が噴出した。恐怖が限界を超え、罵倒へと姿を変えてミケーレに叩きつけられる。

ミケーレは静かに目を閉じ、腕を組んだまま、その荒れ狂う声の嵐をじっと聴いていた。

やがて、彼は満足したように小さく頷いた。


「……よし。わかった」


目を開くと、傍らの部下に短く命じた。


「落とせ」


無慈悲な執行だった。

声を荒らげていた者から順に、身分も、これまでの経歴も、支払える身代金の額も関係なく、一人ずつ舷側から突き落とされていく。


夜の海を叩く、鈍い水音。

響き渡る絶叫。

慈悲を乞う声。

呪詛の言葉。

そのすべてを、冷たい海が一つずつ、丁寧に飲み込んでいった。


やがて、再び訪れた静寂。

甲板に残されたのは、最初から言葉を失い、ただ震えて俯いていた数名だけだった。

ミケーレはゆっくりと立ち上がり、生き残った捕虜たちを見渡した。


「さて。港に着くまで、選択肢をあげよう」


指を一本立てる。


「ガレー船行き」


次に、もう一本。


「解放」


彼は一度言葉を切った。その瞳には、海よりも深い闇が宿っている。


「ただし、解放は“無料”じゃない。それなりのものを、飲み込んでもらう」


「何を」とは言わなかった。

彼らがジェノヴァの利益のために魂を売るのか、あるいはそれ以上の屈辱を耐えるのか。答えはこれから彼らが自ら導き出すものだ。


「よく考えときな。時間はある」


踵を返したミケーレの背後で、曳航のためのロープが軋んだ。二隻の船が、一本の絆で結ばれる。

捕虜たちは、海を背にしたまま、石灰の白く残る甲板に立ち尽くしていた。


夜の帳の中、まだ櫂の音も、処刑を告げる鐘の音も聞こえない。

だが、自分たちの運命を決定づける「選択」の重さだけが、逃れようのない冷たい重さとなって、彼らの肩にのしかかっていた。

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