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0032:潮が静かになる夜(メッシーナ)

イオニア海の群青色が、メッシーナ海峡の複雑な潮流に揉まれて白く泡立つ。カンディアを発って数週間、船乗り達の鼻を打ったのは、潮の香りを追い越してきた「陸の匂い」だった。それは、焦げた薪の煙と、シチリアの乾いた土、そしてこの季節特有の、熟しきった無花果の甘ったるい香りが混じり合ったものだ。


「帆を絞れ!」


アルヴィーゼの怒号と、滑車が悲鳴を上げるキリキリという音が、波の音を掻き消す。わがガレー船の大きなラテン帆が風を逃すと、船体は慣性に任せて、あの有名な「鎌」の形をした天然の良港へと滑り込んでいった。


船首に立つと、左手にサン・サルバトーレの修道院が鎮座する半島の先端が見える。その細長い砂州が、荒ぶる海峡の波から港を完璧に守っているのだ。

視界が開けるにつれ、私は息を呑んだ。港内は、まさに「世界の交差点」だった。


アラゴン王国の赤と金の縞模様が翻る重厚なナオ船(大型帆船)。

ヴェネツィアやジェノヴァから来た、無数の脚を持つ百足のようなガレー船。

そして、地元シチリアの小舟が、まるで水面に散らばる木の葉のようにそれらの間を縫っている。


マストの群れは、まるで冬を待つ枯れた林のように密集し、荷揚げを待つ男たちの怒鳴り声が、石造りの岸壁に反響してこちらまで響いてくる。


正面には、メッシーナの街が山の斜面に沿って、幾重もの層をなしてせり上がっている。

ひときわ高く聳えるのは大聖堂の尖塔。ノルマン時代の無骨さと、ゴシックの繊細さが混じり合ったその姿は、この島を支配してきた数々の王たちの歴史を物語っている。


そのすぐそばには、カタルーニャ商人たちの守護神、サンティッシマ・アンヌンツィアータ・デイ・カタラーニ教会の円蓋が見える。ビザンティン風のレンガ造りの美しさは、カンディアで見慣れた教会の姿を思い出させる。


岸壁が近づく。

石造りの倉庫や商館が並ぶ通りには、色とりどりの洗濯物が干され、窓からは夕食の準備を始める煙が立ち上っている。街は活気に満ちていた。

だが、同時に港特有の、腐った魚と溜まった汚水の鼻をつく臭いもまた、ここが「生きた」都市であることを容赦なく突きつけてくる。


ドスン、と船体が防舷材を介して岸壁に触れる。

乾いた石に綱が投げられ、揺れない大地へと足を踏み出す準備を整えた。




メッシーナの港に夜の帳が下りる頃、潮の匂いは、潮騒よりも騒がしい人の声に、ゆっくりと上書きされていく。

だが、ラウロが借り受けた石倉の奥底には、その喧騒すら届かない。


低い天井。湿り気を帯びた粗い石壁。

卓上の油灯は、芯を絞られ、最小限の光を投げかけているに過ぎない。その乏しい灯りの下で、ラウロは一枚の羊皮紙を広げていた。


描かれているのは、ティレニア海。

そこには赤い炭で、病の斑点のようにいくつかの点が打たれている。


「……ピオンビノの封鎖は、終わったらしい」


ラウロが静かに口を開いた。

壁に背を預け、腕を組んでいたミケーレが、肺の底から重い息を吐き出す。


「ああ。噂は聞いた。夏の終わり頃には包囲は解けたってな」


卓を囲むもう一人、老練な航海士アルヴィーゼは、地図を見つめたまま顔を上げずに応じた。


「……終わった“戦”ほど、厄介なものはない」


その言葉を、ラウロは否定も肯定もしなかった。ただ、使い古された帳面を閉じ、じっとランプの火を見つめる。


「ああ。“通れる”と、“安全だ”は別だ」


「戦は終わった。だが――」


ラウロは、一つ、一つと指を折り始めた。


「まず、編成を解かれた艦船がいる。帰る場所を失った船ほど、動きが読めない」


一本目の指が折られる。


「次に、戦時に私掠許可を受けていた船だ。王の名で動いていた連中は、許可が切れた瞬間に“自分の判断”で動き始める。素知らぬ顔でな」


二本目。


「それから水夫だ。戦が終われば、職も終わる。剣を置けと言われても、手癖は残る。網や銛に持ち替えろと言われて、すぐに切り替えられる連中ばかりじゃない」


三本目。ミケーレは無言で頷く。その脳裏には、飢えた狼のような目をした「元兵士」たちの顔が浮かんでいた。

ラウロは最後の指を折った。


「そして――戦時に染み付いた“慣行”だ。臨検、拿捕、理由なき足止め。一度、正義として許された行為は、戦が終わっても消えない。甘い蜜を吸った者なら、尚更だ」


ランプの芯が、ぱちりと小さく爆ぜた。


「市場も、まだ戦時だ。表向きは平和でも、値段は戦争のまま動いている」


「保険料か?」


ミケーレが短く問う。


「ああ。保険料も、それ以外も含めてな。総じて上がっている。北行きは特にだ。護衛なしの船は、理由もなく遅れている。沈んだ話より、“着かない”話の方が多い」


ミケーレは、舌打ちを一つ、喉の奥で殺した。苛立ちが、影となって壁に揺れる。


「嵐を待つにしても、冬に追いつかれたら意味がねえ」


「全くだ」


三人の視線が、地図へと吸い寄せられる。

そこには二つの道があった。

縦に引かれた一本の線。ティレニア海を一直線に北上する、最短の、しかし孤独な航路。

そして、沿岸をなぞるように折れ曲がった不格好な線。寄港地と退避地を数珠つなぎにした、長く、不自由な道。

ミケーレが改めて断じた。


「縦断は、やめた方がいい」


それは感情論ではない。数多の死線を超えてきた経験が吐き出させた、簡潔な否定だった。彼はメッシーナ海峡の北側を、指先で強く叩いた。


「ここから先の治安は最悪だ。誰の目も届かない海に出るってのは、自分から獲物になりに行くようなもんだ」


アルヴィーゼが重々しく頷く。


「縦断航路は、風が揃えば楽だ。だが、秋は違う。北西風が跳ねる。うねりが長くなる」


老船長は傍らのキャラック船の模型を指で押し、その後ろに控える二隻のキャラベル船をそこから離した。


「主船は耐える。だが随伴が離れる」

「――船団が割れる。この治安で、それは致命的だ」


重苦しい沈黙が降りた。

ラウロは、歪な線――沿岸航路の上に人差し指を置いた。


「沿岸航行だと……揺れるな」


「浅い分、岸からの反射波が来る」


アルヴィーゼが即答する。


「夜は特に酷い。座礁船も多い。……が、致し方あるまい」


ミケーレが肩をすくめ、吐き捨てるように言った。


「他の船も同じことを考えてるだろうな。事故も増える。座礁したら――ただの座礁じゃ済まねえ。腐肉の匂いを嗅ぎつけたハイエナどもが、岸から湧いてくる」


「だが、港がある」


アルヴィーゼがその言葉を引き取る。


「逃げ場がある。病人を下ろせる。嵐を待てる。そして何より、情報が拾える」


しばらくの沈黙の後、ラウロが静かに、しかし断固とした口調で結論を口にした。


「岸に寄り過ぎず、外洋に出過ぎず――その距離感だ。時間はかかるが…ここは堅実な策を取ろう」


「……ああ」


「沿岸航行だ。縦断はしない」


ランプの火が大きく揺れ、三人の影が石壁に深く重なった。

石倉の扉の向こう、港の外では、冬を予感させる夜風が、すでに帆布を試すように叩いていた。

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