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0031:未来の値(カンディア)

1448年初秋

北からの追い風が、帆を膨らませる。

ロードスを出て数日、塩気に晒され続けた鼻腔に、ふと異質な香りが混じり始めた。それは、乾いた大地が放つタイムやオレガノの野生の薫りと、どこか遠くで焚かれる薪の煙、そして寄港地特有の、熟した果実と家畜が混じり合った濃密な文明の匂いだ。


「カンディアだ」


水夫の叫びとともに、水平線の彼方にヴェネツィアの支配を象徴する堅牢な石の壁が見えてきた。

近づくにつれ、視界を埋め尽くすのはその圧倒的な船の数だ。港の外縁には、香辛料や絹を積んだ巨大な円胴船が何隻も碇を下ろし、その周囲を地元の漁船や、連絡用の小舟が縫うように進んでいく。


港を囲む防波堤の先端には、小規模な要塞が、海の守護者のように鎮座している。その低くがっしりとした石組みは、打ち寄せる波を白く砕き、港内の静寂を守っていた。


入港の合図とともに、帆が降ろされる。

それまで支配的だった風の唸りに代わって、にわかに喧騒が耳を打ち始めた。何十もの滑車が軋む音、水夫たちが掛け合うイタリア語やギリシャ語、レバント諸国の言葉が混ざり合った声。そして、街の教会の鐘が、正午を告げる重厚な音色を響かせる。


船が防波堤の内側へ滑り込むと、正面には造船所の巨大な石造りのアーチが並んでいるのが見えた。この都市を古くから支えてきた堅実な造りのドック。そこからは、オーク材を削る鋭い音や、熱した鉄を叩く金槌の音が規則正しく響いてくる。

岸壁に目を向ければ、壮麗なドゥカーレ宮殿や、聖ティトス大聖堂の鐘楼が、青い空に向かって誇り高くそびえている。


船がゆっくりと接岸し、太い麻綱が波止場の石柱に投げられる。

乾いた石と、港内に漂うタール、そして市場から流れてくるスパイスの香りが混ざり合い、旅人をクレタ島の中心へと迎え入れる。


ここはまさに、キリスト教圏とイスラム圏、そしてヴェネツィアの野望が交差する、地中海で最も熱い鼓動を刻む場所だった。




カンディアの港は、地中海の陽光を浴びて白く濁っていた。

石造りの岸壁に横付けされた船から、湿った潮の香りと共に「それ」は運び出された。ラウロは、詰め寄る港湾役人の前に書類を差し出した。

淡々とした申告だった。


「売却の予定はない。すべて私有財だ」


役人の視線が、船倉から出てくる男たちの足取りを追った。


「……検疫と健康確認、それで良いのだな?」


「ああ。彼らは貨物ではないからな」


一行が収容されたのは、港の喧噪から隔離された石造りの倉庫だった。

分厚い木の扉が閉じられると、外界の熱気が嘘のように消え、静寂と冷気が足元から這い上がってきた。

そこには、市場のような競り声も、番号を呼ぶ怒声もない。

ただ、人が、置かれていた。


奴隷たちは並べられない。

整列もさせられない。

番号も振られない。

彼らは、ただ“そこに置かれる”。


ラウロはそれを意図的に行った。

市場の視線を遮断し、人間を商品棚に載せないために。



最初に入ってきたのは、医師だった。

彼は学位を誇示する法衣も、仰々しい印章も身につけていない。ただ無表情に、機械的な手つきで一人一人の脈をとり、胸の音を聴く。


「痛むか」

「眠れるか」

「息が切れるか」


その問いは、生存を確認するためではなく、その個体が「いつまで稼働できるか」という耐久年数を測るためのものだ。



航海中に肩を負傷した男の前で、医師の手が止まる。古傷に触れる指先は冷徹で、感情の断片すら見せない。

彼は何も言わず、ただ手元の帳面にわずかな印をつけるだけ。

その沈黙が、男のこれからを確定させたかのように見えた。



次に来たのは、評価人である。

彼は奴隷を“見る”のではなく、動かした。

ただ、重い水桶を運ばせ、複雑な縄を結ばせた。


農園での労働経験がある者は、動きの「節約」を知っている。力任せではなく、持続するための理に適った動き。評価人はそれを瞬時に見抜き、心の中の秤を傾ける。


少女の前に立った時、彼は視線を落とした。年齢を問う必要はない。

骨格の広がり、姿勢、肌の張り。その「美」ではなく、将来的に産み出すであろう価値を彼は視ている。


夕刻、書記の羽ペンが走る音が倉庫に響いた。


「名は」


「どこでそれを覚えた」


「この文字は読めるか」


読み書きができる者には、蜜を吸うように時間をかけて対話する。できない者には、一瞥も与えない。ここでは、知性すらも「未来価値」という名の無機質な数字へと置換されていく。


最後に現れた斡旋人は、人間には指一本触れなかった。

ただ、それまでの専門家たちが書き連ねた帳面と、港に流れる「噂」という名の需要を照らし合わせる。


「今年は農園が動く」


「技能職なら、買い手はいる」


彼の言葉は、この倉庫の中に「需要の地図」を広げていく。

ここには、信仰も感情もない。人間は、用途と時間と耐久性という名の部品に解体され、再構築されていた。


ラウロは、壁際でそのすべてを静かに見守っていた。

彼は「売る商人」の顔をしていない。膨大な資源を管理し、最適な場所へ配分する「管理者」の顔だ。


ラウロの視線が、列の端に立つ負傷した男に止まった。

男は肩を庇い、不自然に重心を傾けている。傷は塞がっている。だが、その肩で重い鋤を振るうことはできないだろう。


(……ジェノヴァへ連れて行けば、値はつかない)

(無理に押し付ければ、私の信用に傷がつく)

(手元に置くには、教育のコストが合わない)


脳内の算盤が弾き出す解は、冷酷なまでに明確だった。

だが、ラウロは口を開かない。


書記が小さく咳払いをし、ラウロの言葉を待った。評価人が視線を逸らし、次の対象へ歩を進める。

男は、自分が「保留」という名の断崖に立たされていることすら知らず、ただ重苦しい空気の中に立ち尽くしている。


ラウロは再び帳簿に目を落とした。

カリ、カリと、乾燥した羽ペンの音が、静まり返った倉庫に響く。

判断は、すでに彼の内で完了していた。

だが、それを言葉という「形」にして放つには、まだ時間が早すぎた。


「……次だ」


一言だけ、彼は呟いた。

倉庫の外では、海風が船の帆布を激しく鳴らしている。

その風が、この「言葉にならない値段」を背負った者たちをどこへ運ぶのか、決めるのは神ではなく、ラウロの手元にある冷たいインクだった。




倉庫の奥、壁際に腰を下ろされた女は、誰からも呼ばれなかった。

医師は脈を取らず、評価人は近寄らない。


ただ一度だけ、腹部に向けて視線が走り、すぐに逸らされた。


彼女はそれを「見られた」とは思わなかった。

ただ、数えられなかったのだと理解した。


腹の奥で、小さな重みが動く。

それがここで何に換算されるのか、彼女には分からない。

分かるのは――

この倉庫では、未来はまだ値にならないということだけだった。




少女が前に出されると、評価人は一瞬だけ動きを止めた。

年齢を尋ねることはしない。

代わりに、床に置かれた水桶を顎で示す。


少女は、黙ってそれを持ち上げた。

揺れない。こぼさない。

足運びが、軽い。


評価人は何も言わず、背後にいた書記の帳面に、指で短く合図した。

書記は、数行を書き直す。


少女は、その間ずっと俯いていた。

自分が今、安くなったのか、高くなったのかを知る術はなかった。




斡旋人は帳面から顔を上げずに言った。


「今年は、クレタよりも――」


一瞬、言葉を切る。


「アプリアの農園が人を欲しがっている」


それだけだった。


ラウロは顔を上げない。

負傷した男の名も、そこでは呼ばれなかった。


だが、その地名は、倉庫の空気をわずかに変えた。

ジェノヴァに行かない人間の行き先が、初めて具体性を持った瞬間だった。

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