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0030:御魂の関所(ロードス)

1449年、初秋。

アル=イスカンダリーヤから地中海を北上する船の甲板には、エジプトの熱気とは異なり、爽やかな冷涼なる空気が流れていた。


前方に浮かぶロードス島。

それは東地中海の要衝であり、キリスト教世界の最前線――ヨハネ騎士団が統べる信仰の関門である。


「奴隷は、信仰と政治の問題になる」


ラウロは、手すりに置いた指先に少しばかし力を込めた。アル=イスカンダリーヤからこの島に寄港するということは、単なる補給以上の意味を持つ事がある。


案の定、疫病検疫という名目のもと、船は長期停泊を余儀なくされることとなった。そして検疫が明けた朝、白十字の外套を纏った騎士と、黒い法衣に身を包んだ聖職者がタラップを上がってきた。


それは、慈悲を装った「選別」の始まりだった。

聖職者の鋭い視線が、奴隷たちの一挙手一投足を射抜く。

手首の洗礼痕の有無、祈りの所作、ラテン語やギリシャ語に対する無意識の反応。

彼らは魂の汚れを削ぎ落とす彫刻家のような手つきで、人間を分類していく。

やがて、騎士が重々しく口を開いた。


「この者たちは、キリスト教徒であると見受けられる。

であれば、イスラム圏において再洗礼、あるいは改宗を強いられた可能性を排除できまい。

——その点は理解しているな」


視線は、支援者を持たぬあの聖職者に注がれていた。騎士の言葉は、救済の響きを持ってはいない。


「この者たちは、我々の“保護”下に置くのが妥当と考えるが」


保護。その言葉の裏側にあるのは、修道院での強制労働、あるいは軍役補助という名の、別の所有形態への移送に過ぎない。


「少女と妊婦は、引き渡せない」


ラウロの声は、風を斬るように鋭かった。騎士の眉がぴくりと動く。ラウロは信仰の議論には逃げ込まなかった。


「この二人は、帳簿上『未確定資産』だ。ジェノヴァでの清算が完了するまで、私には彼らを手放す権限がない。それに――」


ラウロは一拍置き、騎士の瞳を真正面から見据えた。


「私は貴殿らの、異教徒と疫病に対する鉄壁たらんとする誇りと方針を重んじている。

ゆえに船内では居住区を分け、とりわけ妊婦と年少者は厳重に管理してきた。

ここで安易に引き渡せば、万が一の際の感染経路が曖昧になる。

私として、貴殿らの誇りに泥を塗る真似はしたくない。——如何に」


沈黙が甲板を支配した。波の音だけが、船体を取り巻く緊張を助長する。


「私は、この船の出元を隠してはいない。買った以上、その後の全責任を持つ。

途中で手を離すような無責任な真似は、商人の矜持が許さない」


それは信仰への反抗ではなく、一貫した商売の論理だった。しかし、ラウロはそのまま突き放しはしなかった。相手の「面目」という逃げ道を用意するように、言葉を継ぐ。


「……ただし。信仰の問題に、一介の商人が踏み入るべきではないことも承知している。あなた方は、私のような俗物には見えない世界を見ておられる」


視線を聖職者へ移す。


「彼は公的市場で正当に購入した。書類に不備はない。

だが、もし改宗の疑義があるというなら、今後の商いの教訓として、詳しくお話を聞かせていただけないだろうか」


善意を盾にした「無償の没収」を、ラウロは巧妙な交渉術で阻んだ。

その張り詰めた空気を切り裂いたのは、当の聖職者の静かな声だった。


「……私を、降ろしてください」


彼は穏やかに、しかし断固とした意志を込めて言った。


「私は改宗者ではありません。

ですが、それを明らかにすることも、この地で務めを果たすことも、聖職者として私に課せられた使命だと思います。

どうか、ご主人……」


ラウロはわずかに目を伏せ、短く首を振った。


「御人…。あなたの意志と信仰を否定する言葉を、私は持たない」


ラウロは騎士に向き直り、「失礼した」と短く告げた。

騎士は何かを言いかけ、苦々しげにそれを飲み込むと、桟橋を指し示した。


「準備が整い次第、そこの兵に声をかけよ」


騎士たちが去った後、甲板には奇妙な安堵と、切ない別れの気配が漂った。

聖職者は、震える手で荷を整えながら、自嘲気味に微笑んだ。


「このような形になって誠に申し訳ない。せっかくあの地から救い出して貰ったというのに…」


「勘違いするな」


ラウロは帳簿に目を落としたまま、淡々と言った。


「私は、買っただけだ」


聖職者は神妙な面持ちでラウロに述べる。


「彼らは立場上、一度振り上げた拳を下ろせない。ここで私が役に立てるなら、あの日、君が私の手を握ってくれた意味があるというものだ」


遠くを見つめながらぼやくラウロ。


「帳簿的には損失なんだがな…」


「補填してもらえるよう、神に熱心に祈っておこう」


「神がそんな現金な方だと聖書に書いてあるのか?それなら私は苦労しないはずなんだが」


二人は、短く、乾いた笑いを交わした。


「主イエス=キリストも、自らの足でゴルゴタの丘を登った。

自ら選べる時を与えてくれたというのは、それだけ意味のある事だ。

砂漠で朽ちていたら、出来なかったことだからね」


聖職者の言葉に、ラウロは彼を見つめながら目を細める。


「……あなたの過去が、なんとなくわかる。

神は見ておられるさ。

あなた自身しか知らぬことも、そうでないことも、唯一人」


「それを言えてしまう君は一体…」


「ただの不届者だ」


しばし沈黙が流れる。


「惜しいな…。君とはもう少し語り合いたかった」


惜別の念を溢す聖職者にラウロが答える。


「私の船は年に三度、ここを通る」


ラウロは突き放すように、しかし確かな約束を込めて言った。


「会いたければ――頑なになりすぎないことだ。

あなたの心の内を、人は知らない。——だが、神は知っておられるだろう。


「君は……」


「それ以上は、無粋だ」


書類を渡し、背中を向ける。

聖職者は、一歩ずつ、踏みしめるようにタラップを降りていった。


ラウロはその背を追わなかった。

ただ、地中海の眩い青の中に消えていく者の足跡を、心の帳簿の片隅に深く刻み込んだ。

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