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0029:奴隷商人:章中解釈②西方キリスト教世界

本章で描かれたアル=カーヒラおよびアル=イスカンダリーヤは、イスラム圏における秩序・交易・信仰が、極めて実務的かつ一貫した形で結びついた都市である。


そこで扱われる人間、労働、奴隷、商取引は、善悪や感情によってではなく、制度と責任の所在によって整理されている。


この章の終わりにあたり、次章以降で舞台となる

西方キリスト教圏 に入る前に、いくつかの重要な視点を明示しておく必要がある。


それは、文化や宗教の優劣ではない。

「赦し」と「救済」が、どのような構造で暴力に転化し得るか という問題である。



【1】白とは何か —— 無垢ではなく、線引きである


西方キリスト教圏において、「白」は純粋さ・無垢・正しさの象徴として機能する。


しかしこの白は、自然状態を示す色ではない。

それは選別の結果として与えられる色であった。


白であるためには、正しい信仰を持つこと・正しい共同体に属すること・正しい言語と儀礼を用いることが求められた。

つまり、白とは肯定された状態であり、同時に 否定された存在を不可視化する装置 でもあり、白が成立するためには、白ではないものが常に必要とされた。


また、洗礼を受けて「罪を洗い流す」ことは、精神的な「白さ(無垢)」への転換とされていた。


これは15世紀後半以降、単なる比喩ではなく、実際の「肌の色(人種)」と結びつき始めてゆくこととなる。



【2】赦しと救済 —— 行為ではなく、選別である


イスラム圏における救済は、秩序への回収である。

そこでは、救う側と救われる側の関係は明確であり、救済は制度的行為として完結する。


一方、西方キリスト教圏における救済は、魂の状態に関わる価値判断を伴った。


救済とは、「この者は救われるに値する」という認定行為であり、救われない者が確定することと同義となった。


また、赦しとは普遍的な慈悲ではなく、選ばれた者にのみ与えられる特権でもあった。


この構造において、救済は善意でありながら、同時に排除を正当化する論理となった。



【3】奴隷制の差異 —— 役割から価値へ


イスラム圏において、奴隷は制度上の地位であり、役割である。

奴隷解放は徳行だが、奴隷であること自体が即座に「劣った人間性」を意味するわけではなかった。


対して、西方キリスト教圏では、役割的奴隷は存在するものの、奴隷制そのものは理念や建前において「否定されるべきもの」とされていた。


だが、現実問題として存在する奴隷に対し、正当化される理屈が必要だった。


この矛盾を処理するために導入されるのが、異教徒・異端・未開・堕落といった人格評価のラベルだった。


このラベルが貼られることにより、奴隷は役割ではなく、「価値が低いと認定された人間」という存在と化した。



【4】教会系ブローカーという存在


アンブロージョなどの教会系ブローカーは、この矛盾の中から生まれた。


彼らは奴隷制を肯定しない。

同時に、それを否定することで生じる責任も引き受けない。

救う価値がある者は救う、そうでない者は「神の判断」に委ねる、という形で、救済と放置を同時に成立させた。

身代金取引は、その最も実務的な形である。


金を払える者、払う価値があると判断された者のみが、救済の対象となる。

救われなかった者は、「救われなかった」のではなく、「救済の対象ではなかった」 と再定義された。


ここにおいて、奴隷や捕虜や拉致被害者の放置は罪ではなくなる。


実際に「メルセド修道会(Mercedarians)」や「三位一体修道会(Trinitarians)」といった、イスラム圏に捕らえられたキリスト教徒の「身代金交渉・解放」を専門とする修道会が存在した。

彼らは寄付を集め、アルジェやチュニスへ渡り、捕虜や拉致被害者を買い戻した。



【5】善意が最も多くの免罪符を生む


西方キリスト教圏では、正しさ・善意・信仰・赦しは、行為を正当化する言語として機能した。


赦しは「告解(悔い改め)」と一体のものであり、「謝罪しない、あるいは正しい神を知らない者は、殺害や放置の結果に対しても、加害者が罪を問われにくい」という論理が存在しており、結果として悪意を漲らせるよりも善意を振り翳した形により、多くの暴力が生み出されるという逆説が成立した。



イスラム圏にも暴力の隠蔽や正当化は存在したが、神学的言語が西方ほど“免罪符化”しにくかった為、イスラム圏の冷徹さは、暴力を隠さないように映る。


反面、次章以降で描かれる西方キリスト教圏の温かさは、“免罪符化”しやすかったことも相まって暴力を包み隠す形になっている。

どちらが正しいかではなく、「見えにくいか」の違いである。



【6】境界に立つ者の視線


ラウロのような存在は、この二つの世界のどちらにも完全には属さない。

彼は秩序を理解し、同時に、その秩序が生む犠牲を知っている。


そのため、西へ進むほどに、彼の立ち位置は曖昧になり、味方も敵も増えていく。


それは彼の思想の問題ではない。


世界が、単一の正しさを許さない構造を持っているからである。

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