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0027:陽炎に煙る砂の国(アル=イスカンダリーヤ)

晩夏のアル=イスカンダリーヤは、港と街の境界が溶ける季節だった。


昼の暴力的な熱は夜まで居座り、夜の湿り気は朝になっても退かない。石造りの街並みに塩の香りと人の体臭が混じり合っている。


ラウロはアル=カーヒラから戻ると、ミケーレやマッテオからアル=イスカンダリーヤ残留組についての報告を受ける。


街の状態、船の状態、船員の状態、奴隷の状態。

大きな出来事や深刻な問題が生じない限り、情報共有は手短に済まされる。


聞く限り大きな問題は無いようなので、その場はお開きとなった。短い情報共有が終わり、出航に向けた実務的な動きが始まる。


ラウロが部屋を出て、フンドゥクの広間に出ると一般奴隷達のうちの何人かが集まっていた。


誰も騒がない。先に口を開く者もいない。ただ、暗がりに並んだ幾十もの視線だけが、主人の姿を逃さず捉えていた。


昨日、ラウロ商会で働かせて欲しいと申し出ていた奴隷達だった。

元の主人を亡くした者、破産によって債務だけを背負わされた者、どこか遠い地で攫われ、売られ、行き先を失った者。彼らの沈黙には、石床に溜まった熱のような、逃げ場のない切迫感が漂っている。


ラウロは、奴隷達を跪かせることなく同じ石の床に立ち、乾いた声で、ただ事実を告げた。


「商会でやる仕事は、いくつかある」


その一言で、広間の空気が変わった。全員が、一滴の水も漏らすまいと耳を澄ます。


「商館の運用として…

君達が受けてきたような教育補助、料理、衛生環境の維持改善。

船団の運用なら…

船員として船を操ったり、積荷の運搬や管理、索具のメンテナンス、或いは鍛治や造船を軸にした木工。

農園もある。

小麦を育て、葡萄を植え、酒を仕込んだり、保存食を作る仕事だ。海が荒れても、皆が飢えないようにな」


言葉を重ねるごとに、人々の瞳に光が戻る。だが、ラウロはその光を甘くは扱わない。


「楽な仕事は何一つとしてない」


短く断じ、幻想を切り落とす。


「だが、殴られることもない。そもそも真っ当に働けるなら、そもそも必要ないからな」


一瞬の静寂の後、さざ波のようなざわめきが走った。ラウロは彼らの反応を待たず、淡々と、この商会の「掟」を口にした。


「債務奴隷なら、今の借金と経費を。攫われた者なら、お前たちを買い取った仕入れ値と経費を、これからの給金から引く。……そして、その数字がゼロになった時、証文は焼く」


誰かが、喉の奥で息を呑む音が聞こえた。


「その先は自由だ。残るなら雇う。出るなら止めない」


奴隷という終わりのない身分が、数値化された「出口」を持つ可能性。

それだけで、うなだれていた背筋が次々と伸びていく。

これは慈善ではない。ラウロ自身が、忠誠心と生産性をいかに両立させるかという問いに対し、港で奴隷を昂めるミケーレの姿を見て導き出した、冷徹なまでの最適解だった。

――人は、希望が数で示されたとき、最もよく働く。


やがて独立する者が出るだろう。その時、商会は手を引くどころか、むしろ彼らを「外郭」として組み込む。荒廃した農園を買い取って土地を分け、鍛治ギルドや造船所に口を利く。酒場を構えたい者には、最初の信用という資本を与える。

彼らは裏切らない。裏切る理由がないからだ。


「ラウロ様の元で働けるなら、奴隷も自由民も関係ない」


そう零す者たちの目には、崇拝に近い熱が宿っていた。

支配されることへの安堵。選ばれているという優越。

ラウロの支配には、奴隷を支配される陶酔に堕とす甘美さがあった。

彼はただ、合理的に考えただけだった。

彼だけがその甘美な毒に無自覚だった。


「最終的な決断は、ジェノヴァに着くまでだ」


それだけを言い残し、彼は商いに戻った。



アル=イスカンダリーヤでの最後の取引は、帰路のための基礎貨物の仕入れとなる。派手さはないが、確実に金に変わるものばかりだ。


香辛料、砂糖、明礬みょうばん、染料。

精糖と粗糖を厳密に分け、明礬はその産地によって使い道を変えていく。高価なケルメス(貝紫)は常備せず、市場に出た年だけ、信用ある相手に静かに回す。

決済は、ハサンの信用文書で行われた。

金貨は鳴らず、ただ重厚な帳簿だけが静かに閉じられる。


市場の片隅で、ラウロはふと足を止めた。

そこは、奴隷市場だった。


濁った声が重なり、錆びた鎖が擦れ合い、肉に値を付ける音だけが、乾いた規則性をもって空気を打つ。怒号でも悲鳴でもない。売り手と買い手が、互いに感情を削ぎ落とした末に辿り着く、奇妙に落ち着いた騒音だった。


――ああ。


胸の奥で、何かがひとつ、静かに噛み合う。

かつて、自分もここに並んでいた。


名はなかった。

出自も、年齢も、言葉も、すべてが不要だった。

残されたのは、順番を示す刻みと、帳簿に振られた数字だけ。


サムエルに買われるまでのあいだ、ラウロはこの街で生きていた。

生きてはいたが、進んではいなかった。

日々はただ、熱と塩と砂に溶かされ、泥のような労働の中で平らに均されていた。


視線を巡らせると、何人かのラテン人が目に留まった。

肌の色。骨格。癖のある立ち方。

サラセン海賊に攫われ、そのままこの市場へ流れ着いた者たちだと、説明されるまでもなく分かる。


ラウロは歩みを止め、しばらく黙って眺めた。

値段。買い手の視線。競りの空気。

そして――その先に待つもの。


彼は数名を指で示した。

それだけだった。


「お、俺も買ってくれ……」


背後から、掠れた声が縋りつくように響く。

振り返ると、若い男がこちらを見ていた。目に焦りがあり、身体はまだ保っている。

この街でなら、仕事もあるだろう。言葉を覚え、使われ、やがて溶け込む余地もある。


ラウロは表情を変えずに言った。


「君には、まだこの地でも生きていける余地がある」


男は言葉を失った。

拒絶ではない。だが、救済でもなかった。


ラウロが選び出していたのは、この市場を一度通過した時点で、戻れなくなる者たちだった。


まず、少女たち。

年端もいかぬ身体に、すでに値が付けられ始めている。

この先で与えられる役割は、想像するまでもない。


次に、腹部を庇うように立つ女。

妊娠が望まれたものかどうかは分からない。

だが市場は、事情を考慮しない。

価値が下がった肉は、別の形で使い切られる。


最後に、清貧な佇まいの男。

粗末な衣。背を伸ばした姿勢。

祈りの名残が、まだ指先に残っている。

この場にあるすべてと噛み合わない、その場違いな静けさが、彼を最も危うくしていた。


ラウロは、彼らを順に見た。

誰とも目を合わせなかった。


彼が見ていたのは、哀れさではない。

同情でも、怒りでもなかった。


この市場を一度通ったあと、戻って来られるかどうか。ただ、その一点。


「なかなかな趣味してやがる」


近くの商人から野次が飛ぶ。


「私は業突く張りでね」


ラウロは顔色ひとつ変えずに淡々と返した。


「損切りの判断が、少し早いだけだ」


砂と声と鎖の音が、再び視界を満たす。

ラウロは踵を返し、商人としての歩幅で、選別の続きを進めた。





数日後の朝、ラウロは港の最果てで足を止め、天を仰いだ。

視線の先では、千切れ雲が意思を持った生き物のように流れていく。頬を撫でる風には、重たい湿り気が混じっていた。帆を孕ませるには十分な力強さがありながら、決して粘りすぎない。確信に近い予感を含んだ、南寄りの風だ。

瞬きほどの刹那、ラウロの内で答えは結実していた。


「出られる」


その呟きを拾ったのは、隣に立つアルヴィーゼだった。老船長は空を見上げることも、ラウロの横顔を窺うこともしない。ただ、潮の香を含んだ風を肺の奥まで深く吸い込み、短く、地を噛むように頷いた。


「今日だな」


それは確認ですらなく、魂の共有だった。


「昼前だ。潮も悪くなさそうだ」


「……積み込みを急がせる」


それだけを言い残し、アルヴィーゼは踵を返した。

その背中が動いた瞬間、ひとつの「判断」は、巨大な船団を動かす「命令」へと、音もなく変換されていった。



港は、すでに静かな熱狂に包まれていた。


重厚な倉庫の扉が次々と開かれ、香辛料を詰め込んだ麻袋が男たちの肩へと吸い込まれていく。石畳の上を砂糖の樽が転がり、明礬みょうばんを満たした木箱が、重低音を響かせて積み上がる。水濡れを極端に嫌う染料の小箱だけは、大切に、一番最後に回された。


誰も声を荒らげない。急かす者もいない。

だが、そこには一分の隙もない、熟練の無駄のなさが支配していた。

その喧騒を縫うようにして、ラウロは交換所へ向かう。

懐から取り出したのは、ママドゥから託された羊皮紙――「スフタジャ(信用状)」である。


羊皮紙一枚の重みが、砂金の詰まった革袋へと姿を変えた。

ラウロは秤を使わなかった。ただ封を切り、指先を砂金の中に沈める。その粒子が肌に触れる感触だけで、彼は全てを理解した。

砂金が革袋に落ちる音は、驚くほど静寂に満ちていた。

しかし、手に伝わるその確かな質量だけは、決して嘘をつかない。



通関所では、二人の兵が槍を手に、彫像のような構えで立っていた。

ラウロは無言のまま、二通の書類を差し出す。


一通目は、ハサンから仕入れた物品のための預託信任状。

そして二通目は、ママドゥから預かった「金」を正当化するための信任状。


兵の片方が書類を一瞥し、象牙の印章が放つ鈍い光を確認すると、音もなく目を伏せた。

彼らがラウロの顔を直視することは、最後までなかった。

それ以上を問い質すことが何を意味し、どのような波紋を呼ぶか、彼らは痛いほどに熟知していたのだ。

わずかに引かれた槍の穂先が、道を開く。


「行け」


その一言すら、ここでは蛇足でしかなかった。



帆が上がった。

乾いた音を立てて索具が張り詰め、甲板にピンと張り詰めた緊張が走る。

巨躯を震わせ、船体が岸壁からゆっくりと、剥がれ落ちるように離れていく。


石造りの建物、乾いた砂、人々の祈りの声。

市場の喧騒と、港を支配する怒号。

それら全てがひとつの塊となり、視界の後方へと遠ざかっていく。


ラウロは甲板の端に立ち、去り行く都市を静かに振り返った。


「――夏が終わる」


独り言は、湿った潮風に攫われ、たちまち霧散した。


良い都市だった。


法と秩序があり──

責任の所在は冷徹なまでに明確で、商人が己の腕一本で仕事を完遂できる場所。


だが。

自分のような、風を追って生きる男が根を張る場所では、決してない。


帆が力強く風を掴み、船首が正確に北を指した。

アレクサンドリアの街並みは、もはや港としての形を失い、砂の色をした淡い記憶へと溶け込みつつあった。

砂の国は、音もなく、蒼く深い海の背後へと沈んでいった。

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