0026:港の聲(アル=イスカンダリーヤ)
ラウロがアル=カーヒラへ向かってから、数日が過ぎていた。
アル=イスカンダリーヤの港は、相変わらず容赦がなかった。海は光を跳ね返し、石造りの岸壁は熱を溜め込み、空気は常に焼けている。
風が吹いても、冷えはしない。ただ、熱の層が入れ替わるだけだ。
ラウロ船団は、フンドゥクに着いた時点で二つに別れていた。
ひとつは、主人ラウロを中心とした、少年奴隷・技能奴隷・高級奴隷をアル=カーヒラへ運ぶ「売買組」。
もうひとつが、船と人を残し、アル=イスカンダリーヤに留まる「残留組」だった。
残留組の取りまとめを任されたのは、ミケーレ・スピナである。
ミケーレはまず船を見た。
帆。索具。船底。竜骨。傷みはないか。潮にやられていないか。ラウロがいない間に、船を「死なせない」こと。それが彼の最優先だった。
だが、人もまた積荷である。
一般奴隷に、ただ寝床と飯を与えて飼う気は、ミケーレにもなかった。
「タダ飯は出ねえぞ。ここは港だ」
それだけ言って、仕事を割り振った。
男たちは朝から港へ出された。
香辛料の袋、穀物の俵、ワイン樽。
肩に担ぎ、背中に押し当て、倉庫へ運ぶ。
真夏の港湾労働は、拷問に近い。
汗は目に入り、塩は皮膚を灼いた。
昼を過ぎると、別の仕事が回ってくる。
船を傾け、船底にへばりついた貝殻を削り落とす。
麻の繊維を板の隙間に詰め、溶かしたタールを流し込む。指は黒くなり、匂いは取れない。
一方、女たちはフンドゥクの中庭に集められた。
巨大な帆布が、石の床に広げられる。
まず洗う。
大桶に水を張り、布を沈め、引き上げる。塩と砂と魚の脂が水に溶け、白濁していく。濡れた帆は重く、何人かでなければ持ち上がらない。
乾かし、裂け目を探す。
使い古した帆から、まだ生きている部分を切り出す。縫い目は風を読む。少しでも狂えば、次の航海で裂ける。
指には骨や陶器の指貫。親指の付け根には硬い革。針の頭をそこに当て、腕全体で押し込む。
糸には蜜蝋。抜くときは、布を足の指で挟み、体重をかける。
家事の延長。そう呼ぶには、あまりにも硬く、あまりにも重い仕事だった。
誰も楽はしていない。
だが、誰も鞭で叩かれてはいなかった。
フンドゥクの上階から、ときおり声が漏れてくる。
笑い声。抑えた泣き声。静かな会話。
――あそこにいるのは、「売り物」として選ばれた者たちだ。
同じ船に乗り、同じ恐怖を共有したはずの人間が、いまは階段一本で分けられている。
港から戻った男たちは、下階でそれを聞きながら、黙って飯を食った。
女たちは針を動かしながら、誰も口にしない話題を共有していた。不穏は、音もなく溜まっていく。
ある日の夕刻。
港から戻った男たちは、ほとんど言葉を持っていなかった。女たちの指は赤く腫れ、油で光っている。
その全員を中庭に集め、ミケーレが話しかける。
彼は高いところに立たない。声も張らない。
「なあ」
それだけで、全員が顔を上げる。
「泊まるにしてもさ。もう少し、マシにしたいよな」
奴隷たちは、一瞬、意味が分からなかった。
「金があれば、だがな」
そう言って、彼は帳簿を広げる。
今日の港湾賃金。
帆布修理の出来高。
そこから食費と宿代を引いた残り。
「これだ。残りは自由に使え」
ざわめきが走る。
「部屋を替えたいなら言え」
「よりよい寝具が欲しいなら探してやる」
「酒? まあ、量は考えろ」
誰もすぐには動かなかった。
信じるには、あまりに柔らかい言葉だった。
ミケーレは、それを分かっている顔で肩をすくめた。
「今すぐ決めなくていい」
「だが、選べるってことだけは覚えとけ」
彼は知っていた。
ここで火が付けば、次の航海は終わる。
不満は、波より早く広がる。
数日もすると、変化ははっきりした。
若い男たちは、港での集中をきらさなくなった。船を海を世界を広く観るようになった。
索具を覚え、帆を見、操船を盗み見る。
女たちもまた違った視点で世界を見つめ始めた。
帆布の縫い目を揃え、互いに教え合い、道具を共有し始めた。
連帯感と、妙な自立心が芽生え始めていた。
労働の対価は鞭よりも遥かに雄弁だった。
ある日の夜。
港で囁かれる噂を話し合う影がいた。
――海賊船は、自由だ。
――帆が読めるなら、迎えられる。
――命を賭ければ、鎖は外れる。
港で働く男たちは、船を知っていた。
帆も、索具も、風も。
その夜、ミケーレはフンドゥクの管理をマッテオに任せ、港の酒場へ向かった。
-
アル=イスカンダリーヤの港には、荷だけでなく、言葉も澱む。
潮風に乗って運ばれてくる噂話は、安酒よりも早く回り、事実よりも重く男たちの腹に溜まった。
港湾労働の合間、日陰に腰を下ろした男たちの間で、その「火」は静かに熾された。誰が火種を投げ込んだのかは分からない。
だが、搾取され、使い潰される側の人間にしてみれば、それは極上の贅沢品だった。
「……また、ギリシアのガキが連れて来られたらしい」
「ジェノヴァの商船か。奴ら、教育を施すなんて吹いて、実際はどこへ売るつもりだ」
「ヴェネツィアの連中も同じさ。巡礼者が病に倒れりゃ、身ぐるみを剥いで海へ放り出す。船賃の足しだと言ってな」
誰かが拳を握り、誰かが乾いた唇を噛む。その場にいた全員が、似たような理不尽を背負っていた。怒りは共有され、膨らみ、形を成していく。
だが、物語には続きがあった。
「……でな、聞いたか。そいつらを専門に狩る奴がいるんだ」
「海の英雄」
いつしか、そんな名前が男たちの間で囁かれるようになっていた。
ヨーロッパ人の船だけを狙い、奇妙な戦法で音もなく現れる。金は奪うが、鎖は解く。身代金を奪い取ったその足で、捕まっていた者たちを買い戻し、自由の身にして放流する――らしい。
「らしい」という不確かな言葉が重なるたび、噂は信仰に近い熱を帯びていった。
その夜、その熱はついに「渇き」となって溢れ出した。
港の片隅、サラセン海賊の溜まり場として知られる酒場は、むせ返るような脂と酒の匂いに満ちていた。
「なんだぁ、お前ら」
腰に獲物を下げた男たちが、闖入者を値踏みするように睨む。
「この店はあいにく、貸切中なんだ。悪いな」
「俺たち、あんた達に加わ…」
群れの中心へ一歩踏み出そうとした奴隷の言葉は、喉の奥で凍りついた。
店の奥、上等な椅子に深く腰掛け、退屈そうに杯を弄んでいる男がいた。
ミケーレだった。
「おや」
歌うような、軽い調子。
その笑みだけが、場に浮いていた。
「夜間の外出は、許可した覚えがないけれど」
喧騒が、潮が引くように消えた。海賊たちの笑い声も、椅子の軋みも止まる。場を支配していたのは、ミケーレが放つ「静かな拒絶」だった。
男たちの顔から一気に血の気が引いていく。
「ま、最後まで言わなかったからな。聞かなかったことにしてやるよ」
ミケーレは肩をすくめ、僅かに声を落とした。
「うちの主人はさ、ああ見えてそこまで石頭じゃない。払うもんを払えば……多分、解放してくれる。君たちの望み通りにな」
コツン、と杯が置かれた。その小さな音が、撤収の合図だった。
「今夜は見なかったことにする。帰って、ゆっくりしな」
逃げるように店を出る男たちの背後を、海賊たちが無言で、だが確実に「護衛」するように付き従った。
フンドゥクの門前に、影のように立つ男がいた。
アルヴィーゼ・ヴァルディ
ラウロ船団のもう一人の船長。
ヴェネツィア下層の船乗りの家に生まれ、20年以上にわたり黒海・エーゲ海・東地中海を航行してきた熟練の船長。
櫂船・商船・武装キャラックと幅広く経験し、かつてはヴェネツィア商船の優秀な船乗りだった。
寡黙で規律を重んじるが、理不尽な暴力を嫌い、船員・護衛・奴隷を区別なく「船の構成員」として扱う。
彼は一言も発せず、顎で食堂を指した。
横一列に並ばされた男たちの前に、彼が立つ。逃げ場はない。
――空気を裂く音。
次の瞬間、一人の男の体が折れ曲がった。
一人ずつ、平等に、重い拳が沈み込む。
罰ではない。規律の確認だった
「……意味は分かってるよな」
怒声ではない。腹の底に響くような、冷徹な確認だった。
誰も言い返せない。ただ、脂汗を流しながら頷くしかない。
アルヴィーゼは満足したように、一度だけ短く息を吐いた。
「座れ」
卓に着かせた男たちの前に、彼自ら杯を並べる。その手つきは、先ほど拳を振るったものとは思えないほど丁寧で、静かだった。
「ウチで変な真似はせんことだ……」
彼は自分の杯にも酒を注ぐと、遠い目をして語り始めた。
かつて、ヴェネツィア商人に雇われていた頃の話。
命じられるまま、泣き叫ぶ乗客に鎖をかけたこと。知らなかったわけではない、ただ、考えないようにしていたこと。
「だが、ある夜、アル=イスカンダリーヤの港で一人の若い商人が噛みついてきた」
その数日後、商船を襲った「奇妙なサラセン海賊」のこと。
奇妙な戦術で瞬く間に無力化され、怪我人はいないのに負けるという奇妙な敗北を味わったこと。
その船では、ザンジュ、マグリブ、マジャール、ラテン。人種も信仰もバラバラな奴らが、対等に笑い合っていたこと。
そして、その後に聞いた「身代金で人を買い戻し、故郷へ帰した」という、お伽話のような結末。
「最後の方は、どこまで本当かは知らん」
アルヴィーゼはそこで言葉を切り、男たちを見回した。
食堂には、もう沈黙しかなかった。
男たちは、今の話と、自分たちが追いかけていた「海の英雄」の噂を重ね合わせ、そして飲み込んだ。
自分たちがどれほど危うい場所で、誰の庇護下にいるのかを、ようやく肌で理解したのだ。
「気分も落ち着いただろ。今夜は寝ろ。明日も早い」
アルヴィーゼが立ち上がると、男たちも力なく立ち上がった。
心の中には、まだ困惑と戸惑いが渦巻いている。だが、先ほどまでの焦燥とした「渇き」は消えていた。
フンドゥクの夜に静寂が戻る。
ここを離れる、という言葉を口にする者は、もう誰一人としていなかった。
-
奴隷たちがそれぞれの部屋に引き上げ、フンドゥクにようやく夜の静けさが戻った頃。
ミケーレは、午後の散歩帰りのような、緊張感の欠片もない面持ちで食堂に姿を現した。
「いやあ……老船長も人が悪い」
卓上の杯を手に取りながら、彼は大袈裟に肩をすくめて見せる。
「たまたま古い友達と飲んでただけなのによ。あれじゃあ、ウチがどこかの不良船団だの、何か良からぬことでも企んでるように見えるじゃねぇか」
向かいに座るアルヴィーゼは、視線を落としたまま短く鼻を鳴らした。
「規律が守られるなら、何でもいい」
鉄火場を潜り抜けてきた男の、短く、重い一言。だが、それで追求は終わりだという合図でもあった。ミケーレは喉を鳴らして酒を飲み干し、ふっと満足げな息を吐く。
「ま、せっかくだ。噂の"真実"ってやつを教えてやるよ」
ミケーレの瞳に、夜の灯火が妖しく揺れた。
ことの始まりは、エーゲ海の青い海原だった。
ヴェネツィアの商船が、難民や巡礼者、出稼ぎの労働者たちを「格安」の運賃で募る。
困窮した彼らにとって、それは救いの手に見えただろう。
だが、目的地のアレクサンドリアが見え始めた頃、商人はその本性を現す。
――運賃が足りない。相場が変わった。
――払えぬなら、負債だ。その身で償え。
用意された書類は完璧だった。法的には「負債奴隷」。彼らは正義の皮を被った略奪者だった。
アル=イスカンダリーヤの港は紛糾した。泣き叫ぶ客、冷笑を浮かべる商人。そこに若きラウロが割って入った。彼は誰よりも真っ直ぐで、誰よりも青かった。
結果は火を見るより明らかだった。言葉の武装をした老練な商人に、若造の理想論は通じない。ラウロは言い負かされ、ただの一人も救い出すことができなかった。
「……ここまでは、俺も見ていた」
アルヴィーゼが低く言う。
「で、その先だ」
ミケーレは、獣のような笑みを浮かべた。
「俺が……ムカついちまった」
ヴェネツィア船が港を離れた夜、ミケーレは馴染みのサラセン海賊に文を送った。
――ちょっと実験したい新兵器があってよ。
月明かりの下、奇妙な海戦が始まった。ミケーレが持ち込んだのは、殺傷を目的としない「船を無力化する」ための試作兵器。爆音と煙、殺意のない混乱だけを撒き散らす戦術に、ヴェネツィアの船員たちはパニックに陥った。
血の一滴も流れることなく、誇り高きヴェネツィア船は海上で沈黙した。
戦勝に沸く海賊たちに、ミケーレは淡々と言い放った。
「人質と捕虜は俺がもらう。あとの積荷は全部お前らで分けな」
犠牲者ゼロで大金を手に入れた海賊たちに不満などあるはずもない。むしろ、その手際の鮮やかさに敬意すら払われた。
ミケーレが確保したのは、金を持つ商人、家柄のある若造、そして何より――汚れた「帳簿」を持つ連中だ。
為替と帳簿を突きつけ、彼は優しく囁いた。
『払え。今すぐ、奴ら全員分の代金をな』
そうして毟り取った金で、ミケーレは不当に拘束されていた乗客たちを買い戻した。
更に身代金ブローカーを通し、彼らの身代金も請求した。
この段階でようやく、ラウロに報告を入れた。
完全な事後報告だった。
「『……勝手にしろ』。ラウロの野郎、そう言って天を仰いでたぜ」
ミケーレは愉快そうに肩を揺らす。
「だからさ、俺がやったことだ。金の使い道も、俺が決めた。奴らには帰りの船賃を握らせて、故郷へ帰してやったよ」
「……なんだ」
アルヴィーゼが、ゆっくりと杯を置いた。その目には、少しだけ呆れたような、それでいて得心のいったような光が宿っている。
「お前さんが、裏で糸を引いていたのか」
「残念だったか?」
ミケーレは笑う。
「けどな、ラウロのやつ……立場が逆なら、同じことしてたと思うぜ」
アルヴィーゼは、ほんの僅かに口角を上げた。
「……今なら、それは分かる」
心地よい沈黙が流れる。酒が喉を通る音だけが、静かな部屋に響く。
「ただなぁ……」
ミケーレは困ったように頭を掻いた。
「自分がやってねぇ“いい話”まで、俺の仕業にされてんのが困りもんでよ」
「困っているのか?」
「いや、全然」
ミケーレは即答し、太陽のような屈託のない笑みを見せた。
「めちゃくちゃ面白くて」
今、港には「妙に態度の良い」ヨーロッパ商人が増えている。彼らは一様に腰が低く、書類の不備を恐れ、奴隷への扱いにも神経を尖らせている。「あのミケーレ」がどこで見ているか分からないからだ。
「俺、他にも何かやったんじゃねぇかって疑われてんのさ」
「……心当たりは?」
「ありすぎて覚えてねぇな」
ミケーレは豪快に笑い、杯を高く掲げた。
「俺はな、価値(Value)より勝ち(Victory)に拘る男なんだ。勝つのは一流、お互い無傷で勝てば超一流!てな」
二人の杯が、カチリと乾いた音を立てて重なった。
数日後。
アル=カーヒラでの取引を終えたラウロが商館に戻ると、そこには見慣れた、しかし奇妙に活気のある光景が広がっていた。
「船で働きたい! ラウロ商会で働かせてくれ!」
そう息巻く体力自慢の若者たち。
「自分がこんな形で人様の役に立てるとは思ってもみませんでした。もっと他にやれる仕事はありませんか。ラウロ商会で働かせて貰えないでしょうか」
誰かの所有物としてではなく、一人の労働者として扱われた経験から、自立の光を宿した女たち。
ミケーレに一任すると、いつもこうなる。フンドゥクはもはや、ただの宿泊施設ではなく、ちょっとした再生の場へと変貌しつつあった。
「検討する」
ラウロは押し寄せる元奴隷たちに、事務的かつ誠実に応じる。
かつてはこの光景に目眩を覚えたものだが、今は違う。
皆が生きている。それで十分だった。
欠けることなく再会できた。
それ以上の理由は、どこにも要らなかった。




