0025:ナイルの水位、商人の時間(アル=カーヒラ)
アル=カーヒラの朝は、張り詰めていた糸がふっと緩むような、独特の湿り気を帯びていた。
「今日の水位、15キュビット――!」
布告役の野太い声が、迷路のような路地を駆け抜けていく。昨日よりも一段高いその数字は、都市の肺に新鮮な空気を送り込んだ。
パン屋の店先に掲げられた値札が、人知れず書き換えられる。並ぶ人々の強張った頬に、ようやく慎ましい笑みが灯った。
増水の祝祭は、もう目前だ。この都市が「待つ」という受動的な苦痛から解放され、母なる川の意志に身を「委ねる」至福の時が近づいている。
(――刻限だ)
ラウロは、フンドゥクの窓から差し込む光の角度でそう判断した。喧騒が最高潮に達する前に、彼は音もなく旅の準備を終え、早朝の街へと滑り出した。
ハサンの館は、朝の光の中でも変わらぬ威容を誇っていた。石造りの壁は冷徹なまでの重厚さを保ち、門を叩けば、すでに申し送りを受けていた門番が、一言も発さずにラウロを中へと導いた。
中庭には、整然と並べられた木箱と包みが朝日を浴びていた。
象牙の装飾が鈍く光る武具。異国の芳香を漏らす香料の壺。丁寧に装丁された書籍と、乾燥した薬材の束。
それらはすべて、マムルーク朝への国家向け調達品という厳格な篩にかけられ、なおその網目から零れ落ちた、質を落とさぬ余剰である。
「数は揃っている」
奥から現れたハサンが、短く告げた。その眼光は鋭く、検品を許さぬ自負に満ちている。
「足りないものはない。過ぎたものもない」
「十分だ」
ラウロは即答した。
ここでは、秤を出すことさえ無作法にあたる。価格の再確認も、品質の保証も不要だった。ハサンという男の矜持が、そのまま荷の価値であった。
「今年は"金"はどうだ?持ち込まれる量はいつもより少ないとは耳にしているが…」
「ありがたいことに、少しばかり分けて貰えた」
それならと、ハサンは懐から封蝋の施された書類を取り出した。
「港を出る際に役立つだろう」
ハサンの預託信任状だった。
ママドゥの信用状と合わせることで国外に出る際に効果を発揮する。
「恩にきる。感謝する」
ハサンはラウロを鋭く一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。
「増水の祝祭前に出るとは、相変わらず嗅覚がいいな」
「祭りの中では商人は邪魔なだけだ」
「違いない」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。それは商取引の終わりを告げる事務的な間ではなく、互いの領分を認め合う、別れのための儀式だった。
ハサンは背筋を正し、右手を恭しく胸に当てる。それは知人への軽い挨拶ではない。マムルーク朝の秩序を背負う商人としての、公的な別れの所作だった。
「お前の航路が、秩序を失わぬことを」
国家に仕える者が、荒波を往く個人に送る最大限の祝福。ラウロもまた、鏡のように同じ所作を返した。
「あなたの選別が、国を壊さぬことを」
それは敬礼でもなければ、神への祈りでもない。
互いに巨大な歯車の一部として責任を負う者同士が交わす、冷徹で真摯な確認だった。
ハサンは満足そうに頷き、控えていた家の者たちに顎で合図を送った。
「港まで運ばせる。外の検問も、こちらで通す」
「助かる」
「商人は、荷を見ていろ。それでいい」
それが、この都の「力」を持つ者の流儀だった。
都市外縁の検問所。ラウロは一言も発さず、影のように荷の後ろに控えていた。
ハサンの家の者が、象牙の印章が押された書類を差し出し、簡潔に応答する。
「官営請負品の移送だ」
それ以上の説明は不要だった。兵士は箱の封印を一瞥し、重い槍を引いて目を伏せる。
アル=カーヒラの喧騒と、権力の残滓が、静かに背後へと退いていった。
ブーラーク港。
ナイルの水面は、上流から運ばれてきた豊かな泥を含み、鈍い光を帯びてうねっていた。
倉庫の管理人にママドゥの名を告げると、男は迷いなく頷いた。差し出された預託信任状の内容が照合され、奥から運び出されたのは、タガーザの岩塩だ。
白く、重く、乾いたその塊は、西アフリカの過酷な砂漠の時間を凝縮したような輝きを放っていた。
香料、書籍、武具、薬材。そして、砂漠の塩。
すべての荷が、船の胃袋へと吸い込まれていく。人は乗らない。今日はただ、価値ある「物」だけが移動する。
もやい綱が解かれ、船が岸を離れた。
ブーラークの喧騒が、遠ざかる風の音にかき消されていく。都市はすでに、ラウロという一人の異邦人を忘れ、来るべき増水の祝祭へとその熱量を注ぎ込み始めていた。
ラウロは甲板に立ち、最後に一度だけ、アル=カーヒラの輪郭を網膜に焼き付けた。
この街では、人は役割によって選別される。
信仰は祈りである以上に、秩序として都市を統治する。
そして商人は、軽々しく神の名を口にする代わりに、己の選択に全責任を負う。
(……良い都市だ)
だが、留まる場所ではない。
船首が北を向いた。
目指すはアル=イスカンダリーヤ。
次の取引へ。次の選択へ。
ナイルの流れが、ゆっくりと背後へ引いていく。
祝祭の喧騒は水位と共に街を飲み込み、商人の時間は再び、果てしない海の上へと戻っていった。




