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0024:線の内側(アル=カーヒラ)

翌朝。

隊商宿(フンドゥク: فندق)の中庭に差し込む光は、前日よりもわずかに白かった。夜のあいだに石造りの回廊が熱を吐き出し、冷え切った朝の空気が一瞬だけ、この過酷な都市を許している。


ラウロは重い木製の扉を引き、倉庫に閉まったの封を確認した。昨夜、ママドゥから託された品々と、前日に自ら仕入れた生活用品が、用途ごとに整然と積まれている。

香と油、紙と封具、布と金属。

混ざらない。混ぜない。

「分類」こそが交易の半分を終わらせるのだと、彼は自らに言い聞かせるように指先で荷の端をなぞった。


彼は軽装で宿を出た。腰に提げた袋には、必要最低限の硬貨しかない。


今日は買わない。

ただ、この街の深部を「視る」ために。

この都市の奴隷市場は、ひとつの巨大な広場に集約されているわけではなかった。

それは都市の毛細血管に沿って点在する、複数の「淀み」のような場所だった。


ある路地では、砂漠を越えてきた隊商が連れてきた捕虜が数名、日陰の壁際に座らされている。


別の通りでは、家内労働向けの少年少女が、年齢と技能を記した木札を首から下げて立っていた。


そこには、想像していたような卑俗な呼び込みも、耳を劈くような怒号もない。

取引は、さざなみのような低い声で淡々と進む。

値段は、まるで潮の満ち引きのように、あらかじめ決まっているかのようだった。


ここは、見世物の市場ではない。

冷徹な「選別」の市場だ。

ラウロは足を止め、一団の群れを眺めた。


十歳前後の少年が三人。服は幾度も洗われて清潔だが、生地は薄く、新しくはない。髪は短く切り揃えられ、指の爪も綺麗に整えられている。

売り手は過剰な宣伝をしない。


「村はもうない」

「親は死んだ」

「この子は、病をしていない」


その三節だけで、商品としての説明は十分だった。

買い手は、子供たちの身体つき以上に、その「目」を凝視する。

情緒の安定。視線の鋭さ。呼ばれた瞬間の反応。

そこに「恐怖」より先に、事態を把握しようとする「理解」が立ち上がるかどうか。それが価値を決める。

ラウロは値段を問わなかった。聞かずとも、この沈黙の重さで理解できた。


(――高すぎる。だが、それは誤魔化しの値ではない)


ここでは、精神が壊れた人間は、そもそも店頭に並ばない。

壊れていれば、市場に辿り着く前の郊外で、塵のように消える。

ここにあるのは、淘汰を生き残った「個」だけだった。


別の場所では、成年の男が一人、石柱の影に立っていた。おそらくは敗残兵だろう。逞しい肩幅を持ち、背も高いが、視線は地面の一点に固定されている。

売り手は短く、事実だけを告げた。


「働ける。だが、言葉はまだだ」


それだけだ。

ラウロは男の手に目をやった。指の節は潰れていない。重い刃物を握り慣れた武人の手ではないが、その厚みは過酷な肉体労働に耐えうることを示している。


――だが、買わない。

彼の関心は、商品としての人間ではなく、その「売り方」にあった。

ここでは誰も怒鳴らない。客を煽り立てることもない。そして何より、卑怯な商人がよくやるように、「神の名」を値段の背後に置いて誓うこともしない。

この市場を支配する不文律が、ラウロの肌を刺した。


「神は保証人ではない。保証するのは、売り手自身だ」


その覚悟が、重苦しい空気となって共有されている。

歩きながら、ラウロはハサンの老獪な微笑を、そしてママドゥの静謐な瞳を思い浮かべた。

彼らはこの市場の残酷さを知っている。そして、このシステムに呑み込まれぬだけの均衡を保っている。


市場の端で、ひとりの少年と目が合った。

十二、三といったところか。少年は怯えていなかった。かといって、救い出されるような期待も抱いていない。

ただ、こちらを視返している。


ラウロは視線を逸らさなかった。同時に、一歩も近づかなかった。

買う気のない者が、無責任な情をかけるべきではない。それがこの場における、最低限の敬意だ。

彼は踵を返し、喧騒の薄い大通りへと歩き出した。


背後で市場は、巨大な生き物が呼吸を続けるように、静かな取引の音を奏で続けていた。

宿へ戻る道すがら、ラウロは自らの内側に引かれた線を確かめる。


壊さずに売る者。

壊さずに買う者。

そして、壊れたものを最初から扱わない市場。


それを「倫理」と呼ぶにはあまりに冷酷だが、そこには確かに、獣の世界とは異なる「一線」が引かれている。


(……この線の内側で、商いを続ける)


それが自分の選んだ立ち位置なのだと、今日、改めて確信した。

昼の光が強まり、街が再び暴力的な熱を帯び始める。




市場の縁を離れ、熱気の引き始めた路地へと足を踏み出したその時だった。


「おや」


背後から、不自然なほど軽やかな声が降ってきた。


「もう帰るのかい、救世主さま」

その特異な呼び声に、ラウロの歩が止まる。

振り返るまでもない。この界隈で、聖者の名をこれほどまでに皮肉の色に染めてラウロにぶつけてくる男は、ただ一人しかいなかった。


雑踏の切れ目に、その男は立っていた。

白すぎず、汚れすぎてもいない、絶妙な色合いの外套。流行をわずか一拍だけ先取りした裁ちは、砂埃に塗れた市場の中で、そこだけが別の時間が流れているかのような錯覚を抱かせる。

風に乗って漂うのは、甘い砂糖の香りと、隠し味のようなムスク。



アンブロージョ・ディ・ヴィヴィアーノ。


ジェノヴァ旧市街出身の商人。

教会系ブローカーとしてヨーロッパ人捕虜の身代金取引を請け負い、主にアル=イスカンダリーヤを拠点に活動する。


彼がアル=カーヒラを訪れるのは例外的な案件のみ。

身代金が極めて高額な者、あるいはマムルーク朝の支配下で罪を犯し、処刑も解放も容易でない高位人物――

そうした「金と政治が絡む人間」を処理するためにのみ、この都市に姿を現す。


「……貴様か…」


ラウロは視線を市場の地平に置いたまま、短く応じた。

アンブロージョは、舞台役者のように肩をすくめて笑う。


「冷たいな。同郷の誼だろ? それに――」


彼は顎で、ラウロが背にしてきた空間を指し示した。


「今日は随分と、“買わない顔”をしていたじゃないか」


ラウロはようやく、男を正面から見据えた。


「……視察だ」


「そうだった。そうだった。忘れていたよ失礼、失礼。

救世主さまは、選り好みされることで有名だものね。

"都合の良い悲劇"を抱えた子は居なかった訳だね」


アンブロージョが一歩、距離を詰める。それは獲物を追い詰める歩幅ではなく、距離を支配するのが当然だと心得ている者の足取りだった。


「君はいつもそうだ。市場に来て、商品より先に『売り方』を見る」


ラウロは答えなかった。否定をする必要も感じなかった。


「悪くない趣味だよ。

だが、俺は逆だ。数を見る。回転を見る。

結果、どちらが金になるか――まあ、君がよく分かっているだろう?」


浮かべた笑み。しかし、その双眸だけは、磨き抜かれた硬貨のように冷たく凪いでいた。


「……貴様は、アル=カーヒラには用はないはずだ」


「そうでもないさ」


アンブロージョは即答した。


「結構、いい値段になった『ヤツ』がいてね。こんな臭い季節に砂埃に塗れるのは真っ平だが――」


彼は口角を歪め、愉快そうに続ける。


「サラセンどもの体臭に舌打ちしないで済む程度には、今日は寛大な気分でいられるんだよ」


一瞬、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。

背後の市場では、相変わらず低い声の取引が淡々と続いていた。誰も怒鳴らず、神の名を口にする者もいない。ただ、命の値段だけが決定されていく。


「なあ、ラウロ」


アンブロージョの声が、密やかな囁きへと変わる。


「君、さっきから一度も値段を訊いていない。それは、はなから買う気がない人間の振る舞いだ。

見物とはまぁご趣味のよろしいことで。」


「……」


「買う気もないのに背を向けるのは……その、なんだ。酔っているのか?昼だぞ?それとも自分にか?」


言葉が、抜き身の剃刀のように鋭さを増した。


「奴隷商人の癖に。俺以上に、人の人生を金に換えて食っている癖に何を今更」


ラウロはゆっくりと、肺の底に溜まった重い空気を吐き出した。


「俺は――」


言いかけて、言葉を飲み込む。反論は、彼にとっての肯定に繋がる。


「……何だい?」


アンブロージョの目が、捕食者のように細まった。


「言わずとも分かるさ。君の言葉は何も面白くないから、そのまま黙っていてくれ」

「君は『教育』し、俺は『活用』する。人を活かすという意味じゃ、やっていることは同じだろう? 兄弟」


ラウロは即答できなかった。

理解はできる。だが、生理的な拒絶が喉の奥で澱のように沈殿している。

その苦渋の表情を見届け、アンブロージョは満足げに頷いた。


「安心しな。今日は商談じゃない。見かけたから、ただの挨拶しただけだ。同じ街で育った、商人同士のな」


彼は踵を返し、去り際に楽しげな一言を投げ捨てた。


「――そういや、君が背を向けたこの光景。いずれ世界を塗り替える力になるよ、きっと。それだけは伝えておこう」


ラウロは答えなかった。


「また会おう、ラウロ。人は金になる。君も、本当は分かっているはずだ」


振り返ることなく、アンブロージョの背中は人波の中へと溶けていく。

ラウロは、その残像を見送ることはしなかった。

ただ、胸の奥に刻まれた違和感だけが、砂漠の熱気よりも重く、いつまでも消えずに残っていた。


(……あれは)


敵ではない。

だが、避けがたく訪れる「未来」そのものだ。

ラウロは再び歩き出した。

神の名に縋らず、冷徹な数字にも飲み込まれぬよう、壊れることのない「一線」を泥濘の中に探しながら。

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