0022:流浪する商人の時間(アル=カーヒラ)
1449年、盛夏のアル=カーヒラ。
ハサンの館の重い木扉を押し開けた瞬間、ラウロは熱波の壁に叩きつけられたような錯覚に陥った。石壁に守られた静謐な室内とは裏腹に、外の空気は煮え立つ大釜の底のように湿り、重く、肌に粘りつく。太陽はまだ天頂には遠いはずだが、街はすでに逃げ場のない荒い息を吐き散らしていた。
(次は、ママドゥだ)
ママドゥ・アル=ハッジ・アル=マグリビー
サハラを越えて金と塩を運ぶ、巡回の商人。
マリ王国北縁の砂漠地帯に生まれ、若くして隊商に加わり、サハラ交易の現場で叩き上げられた。
今はマグリブ交易網の一員として、トリポリ、アル=イスカンダリヤ、アル=カーヒラを季節ごとに巡っている。
敬虔なムスリムでありながら、形式に溺れない。
世界を渡り歩きながら、誰にも属さず、ただ神の前で誤魔化さずに生きる商人。
ラウロは喉の渇きを堪え、その名を心中で反芻した。
あの男は、特定の倉庫や館に根を下ろす類の商人ではない。季節の移ろい、星の巡り、そして祈りの声に身を預け、点から点へと砂を越えて移動する。サハラ縦断貿易商――その足跡は風が描く砂紋のように常に流動的だ。この酷暑の時期、確かに彼はこの都市のどこかに潜んでいる。だが、それがどの商館の奥座敷か、あるいはどの市場の影かは、神と本人以外には知る由もなかった。
ラウロはママドゥ宛の物品をロバとラバの背に慎重に振り分け、手綱を引いた。まずはマグリブ商人が多く集まる、入り組んだ商館街へと足を踏み入れる。
石畳の路地を折れた先で、ラウロはふと足を止めた。
目の前の建物は、極めて目立たない。だが、周囲に埋もれてもいなかった。
黄褐色の切石で組まれた正面は、幾星霜の砂と日差しに削られ、角という角が丸く磨り減っている。それは人工の磨きではなく、歳月が石の角を宥めた結果だった。手入れが行き届いているというより、無理をさせられていない石の顔。
正面中央には、天を指すような高い尖頭アーチ。
その奥に据えられた厚い木扉は、無数の鉄の鋲で補強され、一切の虚飾を廃している。固く閉じられているはずなのに、不思議と拒絶の気配はない。「必要な者だけを通す」――そんな静かな自負を湛えた扉だった。
看板はない。商館名を誇示する板も、客を引くための色褪せた布切れも見当たらない。
ただ、扉の上、石の継ぎ目に刻まれた小さな銘だけが、かろうじて文字の形を保っていた。人名ではない。称号でもない。神の名を含む、短い聖句。風化してほとんど読めなくなっているが、それで十分だった。
――名を残す気はない。
――だが、誓いは捨てていない。
ラウロは、建物の沈黙からそう読み取った。
扉脇には旅人のための水甕が置かれ、日除けの布が濃い影を落としている。荷を待つ騒がしい連中も、声を張り上げる呼び込みもいない。物乞いの姿すらないのに、荒れている様子はなく、そこだけ空気の粒子が落ち着きを払っているようだった。
その時、扉がわずかに内側へ引かれた。隙間から、中庭がちらりと覗く。
四角く切り取られた空の下、石の縁台には整然と荷が積まれ、傍らでロバが静かに首を振っている。埃は舞っているが、何一つ散らかってはいない。
ここでは、物が地面に投げ捨てられない。
――おそらくは、人も同じ扱いを受ける。
ラウロは館の門番らしき男に声をかけた。ここはマグリブ商人の商館であるか、そして、同胞の行方を知っているかと。
奥から一人、若者が姿を現した。
深く日に焼けた肌と、短く整えられた黒い髭。若いが、その双眸に若輩特有の軽薄さはない。
「何か用か」
「ママドゥ・アル=ハッジ・アル=マグリビー殿を探している。今時分ならこの街に滞在しているはずだが」
「あなたは誰だ。我々は仲間を無闇には紹介しない」
「カッファのジェノヴァ商人、ラウロと伝えれば、分かる者がいるはずだ」
男は一度だけラウロの風体を見据え、無言で館の奥へ消えた。
やがて戻ってきた男の顔からは、先ほどの警戒が消えていた。
「ようこそ、ラウロ。氏は確かに滞在中だ。だが、あいにく今はここにはいない」
「そうか。差し支えなければ、行き先を教えてもらえるか」
「アズハル・モスクで、正午の礼拝に向かわれたと聞いている」
「丁寧にありがとう。助かる」
一拍置いて、ラウロは続けた。
「それと、この積荷は氏宛の預かり物だ。一時、ここに置かせてもらえないだろうか」
若い商人は、今度は即答した。
「喜んで。氏宛の荷なら、我々が断る理由はない。中へ。受託の覚書を作成しよう」
年長商人と、書記役の若者が立ち会い、羊皮紙に覚書が記される。
その内容は、ジェノヴァの法務官が見れば驚くほど簡素なものだった。
日付。
預託者名――ラウロ。
受託側――マグリブ商人の商館。
品目――大まかな分類のみ。
受取予定者――ママドゥ。
そして末尾には、神の名を含む短い誓約の句。
書記が筆を走らせ、商館代表の小さな印が押される。
それだけで、金塊をも動かすほどの「信用」が成立した。
ラウロは荷を預け、軽くなった足取りで再び灼熱の街へと踏み出した。
広大なアル=カーヒラの迷宮、点在する祈りの場と市場の騒音のあいだで、彼は再び、ママドゥという名の流浪者を探し始める。
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東へ向かう角を曲がった瞬間、視界のすべてを巨大な白石の壁が埋め尽くした。
正午の礼拝(ズフル: الظهر)を告げるムアッジンの朗々たる呼びかけが、熱を孕んだ大気に溶け、消えゆく。
アズハル大礼拝堂(アル=アズハルジャーミー: الجامع الأزهر)。
その石灰岩の肌は直射日光を撥ね返し、まるで自ら発光しているかのような、眩いばかりの白銀を放っている。この時代、アズハルは単なる建築物ではない。それは世界の骨格を支える、巨大な知の結節点だった。
ムカッタムの丘から吹き下ろす熱風が、ラウロの頬を撫でる。そこにはナイルの川底から巻き上がった泥の重たい匂いと、水没し始めた中州の草が放つ青臭さが混じり合っていた。
重厚な門からは、礼拝を終えた学生たちが溢れ出してくる。陽炎の向こう、彼らの纏う白い長衣(カフタン: قفطان)が波のように揺らめき、そのシルエットは祈りと学問の要塞を守る守護者のようにも見えた。
門の奥からは、幾人もの学生がクルアーンを唱える「輪(ハルカ: حلقة)」のざわめきが、地鳴りのような響きとなって漏れ聞こえる。それは、乾ききったこの街が切望してやまない「知の奔流」であった。
ラウロはコバルトブルーの天頂を見上げた。雲ひとつない虚空に、尖塔の鋭い先端が突き刺さっている。それは来るべき洪水の恩恵を天に乞う、街そのものの指先のようだった。
中庭は、普段以上の熱気に包まれている。"ナイルの増水を願う祈り"(イスティスカー: استسقاء)の準備だろう。ラウロは邪魔にならぬよう足早に歩き、マグリブ出身者の区画(ワーク・アル=マガーリバ: رواق المغاربة)へと向かった。
「氏なら……今朝、礼拝のあとに南へ向かわれましたよ」
若い学生が、教典から目を上げずにそう教えてくれた。
街を南へ下るにつれ、空気はさらに落ち着きを失っていく。
増水の祝祭――ナイルの充足(約束の履行)の祭り(イード・ワファー・アン=ニール: عيد وفاء النيل)を控え、人々の期待と焦燥が混ざり合う。
「今日の水位、13ピカ――!」
布告役(ムナーディー: منادٍ)の声が響くたび、通りを行く人々の肩が微かに揺れる。ナイルの恵みが「16」の刻印に届くまで、この街に真の祝福は訪れない。
運河の方角から、鼻を突く腐臭が漂ってきた。増水を前に、停滞した泥が街の裏側のすべてを吐き出そうとしているのだ。ラウロは思わず顔を背けた。
(……この空気が、水に洗われる前に、ここを発ちたい)
増水の祝祭が始まれば、商人の時間は止まる。河岸の土手は崩され、倉庫の扉は閉じられる。街全体が狂熱と祈りの渦に飲み込まれ、身動きが取れなくなる。
それまでには、何としても商談を終え、アル=イスカンダリーヤへ引き上げなければならない。
ズワイラ大門の周辺。
隊商がひしめき、公証人の机が並ぶこの場所なら、あるいは。だが、淡い期待はあっさりと裏切られた。
「先ほどブーラーク港で、塩の話をしていたのを見たぞ」
促されるまま、埃にまみれて港へと足を伸ばした。マグリブ商人が集まる岩塩の倉庫前。そこで管理人がさらりと告げる。
「都市の中へ戻ると言っていたがな」
ラウロは天を仰ぎ、深く、重いため息をついた。
答えが重なり、すれ違うたび、
胸の奥にじりじりと苛立ちが積み重なっていく。
一度、足を止める。
「ああ、くそ……」
喉の奥で声が熱に焼ける。珍しく苛立つラウロ。背中を伝う汗が不快に張り付き、足取りは鉛のように重い。
残るは、市場か、あるいは学院か。
ラウロは再び都市の中心部へ向けて踵を返した。
中央大通り(アル=カサバ: القصبة)
人と物と声が幾重にも渦巻く喧騒の中。香料、金、皮革を取り扱うママドゥと同郷の商人に片端から声をかける。
「今日は見ていないな」
ああ、もういい……
内心で叫び、なかば諦めきったように顔を上げた、その時だった。
飲料売りの屋台(シャラバト・ハーネ: شربات خانة)がつくる、濃い日影の中。
ひときわ涼しげな佇まいで座る男がいた。
サトウキビの汁を満たした杯を手に、目を細めて街の喧騒を眺めている。
――ママドゥだった。
「うむ。息災で何より」
杯を置き、ラウロを見るその眼差しは、祈りの後の静けさを帯びていた。
その声は、苛烈な太陽の下にあって、なお砂漠の夜のように穏やかだった。
「お主も飲むか?」
差し出された杯。その静かな響きに、ラウロは思わず肩の力を抜いた。
「……ああ、頼む。一息、入れさせてくれ」
二人は近くの石の腰掛けに並んで腰を下ろした。
石の座面は、驚くほどひんやりと冷たい。日影を抜ける風が、ようやくラウロの汗を乾かしていった。
受け取った杯を傾けると、濃厚な甘い汁が喉を滑り落ちていく。
見上げれば、空はどこまでも抜けるように青い。
祭りを待つ街のざわめきが、今は少し遠くの出来事のように感じられた。
商談の言葉は、まだ交わされない。
だが、この静かな一息こそが、過酷な季節を生きる商人にとって、金にも帳簿にも載らぬ、最も高価な時間だった。




