0021:数に変わる(アル=カーヒラ)
夜と朝の境界が定まらない頃。
石造りの天井を這う淡い光が、寝台の上のラウロを呼び戻す。
ほぼ同時に、石壁を叩く控えめな音が響いた。
コン、と一度きり。
念を押すことも、返事を急かすこともない。
ラウロが身を起こすと、扉の外から落ち着いた声が告げる。
「起きておられますな」
応答を待って、扉が開いた。
入ってきたのは、昨日と変わらぬ無駄のない所作の家宰だった。両手に四角い盆を抱えている。
その上には、羊皮紙が二枚。折られも丸められもせず、平らなまま並べられていた。
「ご主人様より」
それだけ言って、盆を机の上に置く。
音はほとんどしない。だが、置かれた瞬間、部屋の空気が一段、沈んだ。
ラウロは無言のまま机に向かい、一枚目の羊皮紙に視線を落とす。
新しく、滑らかな紙面。墨の線には一切の迷いがなく、整然としている。
――取引見積書。
少年奴隷、技能奴隷、高級奴隷。
そこに、ラウロがこれまで呼んできた「名前」は一つもない。
出自も、教育の過程も、血の滲むような調整も、すべてが削ぎ落とされている。
残されているのは、番号。分類。
そして、ディナール金貨とディルハム銀貨の数値。
等間隔に並ぶその数字は、高すぎず、安すぎない。
昨夜、あの沈黙の中で行われた検分が、そのまま数値へと圧縮されていた。
ラウロの胸に驚きはなかった。
自身の査定感覚とこの数字が、恐ろしいほど一致している。その事実によって、商人としての眼が確かに研ぎ澄まされていることを、ラウロは理解した。
同時に、この数値をためらいなく、違和感なく受け取れてしまう自分自身の慣れと上達が、否定しようのない重みとなって胸の奥に残った。
二枚目に手を伸ばす。
こちらはやや厚手で、使い込まれた癖がある。上部には簡潔な一文。
――今回、放出可能な品目一覧。
産地を明記した香辛料。
調合済みの医療用薬剤と原料。
医学、天文学、測量に関する写本。
金銀象嵌の武具、象牙細工。
各項目の脇には、短い注記が添えられている。
「即金化非推奨」
「国家払い下げ扱い」
「再販向け」
どれも単なる物資ではない。
換金性、希少性、そして背後に連なる権益――そのすべてを内包した、凝縮された価値の塊だった。
「……」
内容は簡潔だが、重い。
ラウロが沈黙したままでいると、家宰は微動だにせず告げる。
「ご主人様は、昼前には書記室におられます」
それ以上は語らない。
価格の補足も、条件の説明もない。
値引きの余地を示す言葉も、善意を装う枕詞も、一切ない。
――これが値だ。
――これが渡せるものだ。
――あとは、お前が選べ。
そう言われているに等しかった。
家宰は一礼し、音もなく退出する。
再び部屋には、ラウロと二枚の羊皮紙だけが残された。
ラウロは椅子に深く腰を下ろし、もう一度、数字の列を凝視する。
昨夜、声を発しなかった時間。
測られ、待たされ、値をつけられる前の沈黙。
それが今、この紙の上に貼り付いている。
数字は冷酷だ。
だが、商人にとってそれは、最も誠実な言語でもあった。
ラウロは二枚の羊皮紙を静かに重ね、深く、長く息を吐いた。
ここから先は、言葉を尽くす交渉ではない。
己の覚悟を、どの数字に預けるか――
その選択だけが残されていた。
-
書記室は、館の喧騒から切り離された空白地帯だった。
厚い石壁が外の熱気を遮り、空気はひんやりと、古い紙と乾燥したインクの匂いが微かに漂う。
高い窓から差し込む光は、白い漆喰の壁で角を落とされ、乳白色の平穏となって机を照らしていた。
ここでは、銀貨が鳴る音よりも――
羽ペンの走る音の方が、価値を動かした。
ラウロが入ると、すでにハサンは席についていた。
上着を脱ぎ捨て、まくった袖から覗く腕は逞しい。だが、その眼差しは戦士のそれではない。
戦場でも市場でも見せることのない、帳簿に向き合う覚悟が、そこにあった。
机上には二冊の帳簿。
使い込まれた革の表紙は、持ち主たちの旅路を吸い込み、黒ずんでいる。
一冊はハサンのもの。
もう一冊は、ラウロ自身の帳簿だった。
挨拶はない。
代わりに、ハサンが顎で帳面を示す。
「選べ」
短く、低い声が静寂を震わせる。
ラウロは無言で頷き、羊皮紙に記された品目を追った。
ジェノヴァやフィレンツェへ向けては、香辛料、香料、書籍、医薬。
信仰と学問と金庫へと流れ込む品。
タタール商人トガイへ向けては、金と象牙で飾られた武具と装身具。
草原で掲げられ、権威として記憶される品。
その中から、必要な分だけを静かに抜き出す。
ラウロが選別の線を引くたび、ハサンのペンが数字を刻んだ。
前回取引時の余剰金が、帳簿から繰り越され、相殺されていく。
金貨のやり取りはない。だが、二人の帳簿の間では、確かに価値だけが移動していた。
「現物は確認するか?」
ラウロは首を横に振る。
「いや、いい。信頼している」
ハサンの動きが、わずかに止まった。
険しい表情の隙間に、ふっと柔らかな光が差す。
それは、人生という孤独な旅を歩む商人が、ようやく得ることのできる報酬だったのかもしれない。
「そうか」
「……そう言われるとうれしいものだ」
「物品はこちらで梱包しておこう。受け取りは、いつものように後にするか」
「恩にきる。身軽なのは助かる」
「決済用の信用文書は、アル=イスカンダリーヤ向けで良いな」
「いつも通り、通関用の預託信任状も添えておく。うまく使え」
「金貨と銀貨も用意させておこう」
ハサンが言い、家宰に目配せする。
家宰は一礼し、音もなく部屋を出ていった。
現金は最小限。
滞在と即応のためだけに残す。
それでも余剰や端が出た場合は、双方の帳簿に残す。
――数として残し、次へ回すという前提で。
しばらくして家宰が戻り、革袋と一通の文書を差し出す。
預託の信用状だ。
ハサンはそれを受け取り、金額を書き入れた。
それ以上の言葉は要らない。
すべてが記され、確認が終わる。
二人は同時に帳簿を閉じた。
革の表紙が重なり合う、鈍い音。
ハサンは信用状に封蝋を垂らし、
家名の刻まれた印章を、ためらいなく押し当てた。
その瞬間、ラウロは金ではなく、信頼を受け取った。
二人は、ほとんど同時に口を開く。
「感謝する。良い取引だった」
交わされた言葉は形式的だ。
だが、その後に続いた抱擁は、短くも力強い。
互いの肩に置かれた手のひらから、同じ重責を背負う者の体温が伝わる。
「感謝する。アル=イスカンダリーヤへ向かう際に寄らせてもらう」
「わかった。……さよならには、まだ早いな。では、行ってこい」
家宰に導かれ、ラウロは再び外の世界へ踏み出す。
石壁の影を抜けた瞬間、アル=カーヒラの喧騒と熱風が全身を包み込んだ。
ラウロの足取りは、来る時よりも、いくらか重い。
隣にいた奴隷たちは、もういない。
コンスタンティノポリスの前で議論し、鐘の音の前に沈黙した若者も。
アレッサンドロに水を奪われた者も、殴られた少年も。
彼らの新しい生活は、ここから始まる。
彼ら自身に価値を見出した者たちのもとで。
自分は、猶予を渡せただろうか。
よりましな明日へ、繋げただろうか。
そう考えかけて、
ラウロは足を止めなかった。




