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0017:選ぶ者の錯誤・後編(ロードス)

1449年、初夏。

エーゲ海の群青は、産声を上げたばかりの鋭い陽光に照らされ、宝石のような輝きを放っていた。吹き抜ける風にはまだ僅かな涼気が混じり、本来ならば航海者たちの心を逸らせる季節である。


だが、陽炎の向こう側に現れたその島、ヨハネ騎士団の本拠・ロードス島は、初夏の爽やかさを拒絶するように重く淀んでいた。ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)の本拠、ロードス島。


かつて世界の七不思議の一つ「ヘリオスの巨像」がそびえ立ったその島は、美しきエーゲ海のただ中にあって、一点の曇りのように重く淀んでいた。ロードスの城壁は、波に洗われる石の塊ではない。それは異教の海に打ち込まれた、巨大かつ冷徹な『石の楔』であった。


幾重にも張り巡らされた壮大な城壁が、岸壁を覆いつくすようにそそり立っている。聖ヨハネの象徴たる「八角形の十字」が刻まれた旗が、熱風に煽られて不気味な音を立ててはためいていた。


1444年のヴァルナの戦いで十字軍が壊滅し、東ローマ帝国がいよいよ落日の時を迎えるなか、この島だけがイスラムの海に突き刺さった聖十字の最後の一片として、異様な威圧感を放っていた。


甲板を支配しているのは、潮騒の音すら掻き消すほどの重苦しい沈黙だ。

帆を打つ風の音だけが虚しく響き、船員も奴隷も、互いの視線が交差するたびに刃物を交わすような緊張を走らせる。誰一人として口を開かない。船内に満ちる不穏な空気は、皮肉にも眼前に迫るロードス要塞の拒絶感と共鳴していた。


ロードスの城壁に設置された巨大な石弾砲の砲口が、ゆっくりとこちらを睨み据える。その黒い穴は、この船の中に潜む諸々の思惑をすべて見透かしているかのようだった。


船が港の入り口へと滑り込む。

巨大な鎖が海面を割り、入港を許す重厚な金属音が響き渡った。その音は、船内に閉じ込められていた不満の導火線に火を灯しかねない、危うい合図でもあった。


見上げれば、聖ニコラスの塔から騎士たちの冷徹な眼差しが突き刺さる。外には異教の海、内には逃げ場のない狂気。

1449年の夏、ロードスの高い城壁は、彼らを歓迎するためではなく、逃げ場を塞ぐ監獄の壁のようにその巨大な影を甲板に落とした。




ロードス島に到着した、その日の夜。

船は港に繋がれ、喧騒はすでに遠のいていた。

船長室に籠るラウロのもとを、男が訪れる。


「ラウロ? いるんだろ?」


返事はない。


「わかった。んじゃ、入る」


一方的に告げ、男は勝手に扉を開けた。


ミケーレ・スピナ。

元・私掠船長の家系に生まれ、半ば海賊のような半生を送ってきた男。今はラウロ船団の副団長であり、戦闘用に作られた三番艦の艦長でもある。

様々な奇策や珍戦術を用いるせいか、港の酒場にて語られる都市伝説の中心に君臨している。


ミケーレのスピナ一族は、ジェノヴァ草創期を支えた“公認の汚れ役”だった。敵対都市の通商破壊、密貿易の摘発、貿易船の襲撃。都市の発展に不可欠でありながら、決して表に出せない仕事に従事していた。だが、ジェノヴァが発展し安定するにつれ、悪評と外交リスクを理由に、一族は切り捨てられていった。


船長室の奥で、ラウロは椅子にもたれ、不機嫌そうに腕を組んでいる。


「なんだ、やっぱいるじゃねぇか」


「分かって開けた癖に何を言う」


忌憚のないやり取りが交わされ、ミケーレは部屋の片隅の椅子に腰掛ける。

座るなりミケーレが口を開く。


「何やら揉めたんだって? 大丈夫なのか?」

「あの手の輩はな、お前が判断を下すまで壊し続けるぞ」


心配するミケーレにラウロは淡々と答える。


「問題ない。もう手は打った。明日には解消される」


だがミケーレは、引っ掛かりを覚えた。


「お前……なんか隠してんな?」


「何を根拠に……」


言い淀んだ瞬間、ミケーレは確信した。


「あ。やっぱりそうだ」

「お前、自分が思ってるほどクールじゃねぇからな」

「分かる奴には分かるんだよ。陰気なだけのヤツだから」


ラウロは観念し、これまでの経緯を語った。


アレッサンドロの一族。

彼の父親は、ジェノヴァ貴族の政治不正を密告しようとしていた。港湾利権、傭兵契約、密輸、政治資金横流し――ドーリア家級の有力者が絡む国家間不正について。


糾弾は成立する前に察知され、記録は消え、関係者は一人ずつ「事故」や「行方不明」になった。


父親は、息子達から証言力を削ぎ、敵対勢力の照準から外せるため、連帯保証人に名を書かせ、債務奴隷へと落とした。

「奴隷になれば、発言力も正当性も失う」

それが逆説的な生存戦略だった。


父親は更に、保護名義で信頼できる商人のもとで奴隷となった息子達を匿う事で、命だけでも繋ごうと腐心した。しかし、その手配が終わるよりも早く刺客の手がまわり、父親は粛正された。


父親の死からしばらくの間、何事もなかったかのように時が過ぎる。そんな中、没落した元家宰のもとに、一族や関係者が次々と消されている情報が入ってくる。その中にはアレッサンドロ同様に奴隷に落ちていた他の兄弟も含まれていた。アレッサンドロの命が狙われていることを確信した元家宰は、信用できる奴隷商人としてラウロを頼る。その翌日、家宰の遺体が海に浮かぶ。

サムエルはきつく言った。「絶対に手を出すな!」と。

それでもラウロは、アル=カーヒラなら刺客からの追撃もジェノヴァからの影響も断てると判断し、アレッサンドロを“商品”として引き取った。


話を聞き終え、ミケーレはため息をつく。


「なるほどねぇ……

 相変わらずだねぇ、ウチは。

 しかも…ガチもんのヤバい奴が動いてんな、それ」


ラウロが素直に感想を述べる。


「お前が言うと、さすが…年季と重みが違うな」


「褒め言葉になってねぇよ」


ラウロの感想を受け流し、少し間を置いて尋ねる。


「……明かさなくていいのか? そんな重要なこと」


「明かしても救いがない」

「何より、彼の父君の配慮を踏みにじる」


「……だよな」


父親は、アレッサンドロを真実から遠ざける事で守ろうとした。父親が命をかけてまで遠ざけた以上、その真実に近寄らせる理由はない。

それ以上にそんな事をすれば、ラウロ達の方に矛先が向くのは明らかだった。

仮に、アレッサンドロだけに明らかにしたとしても、未来のない奴隷だと見下していたラウロによって守られ、運命づけられるなんて、信じるどころの話ではないだろう。


「で、そんなラウロの気持ちなど露とも知らず、

終始ラウロの秩序に抗って、問題起こして、

結局アル=カーヒラまで運べなくなって、ここで売ると…」


ミケーレは事の次第を把握したようだった。


「それにしてもさ」

「何がしたかったんだろうな、あいつ」

「俺は違う、分かってる――って言って、結局何を手にしたかったんだ」


「手にしたかったのではないのだろう。

彼は失くしたものから目が逸らせず、失くしたものを数えている…」


ラウロは寂しそうにつぶやいた。


ミケーレは呟く。


「分からんでもないがなぁ…」

「失ったもんばかり数えてたら、今の自分に残されたもんも何もみえなくなるぜ。

 握りしめた拳を開いて、掌に残ったものも見つめなきゃな…」

「あーあ。親父さんも家宰さんもあいつにゃ見えてないんだろなぁ…」


肯定でも否定でもない。答えを持たない者の声だった。ラウロは黙り、帳簿を指で叩く。乾いた音が、船長室に小さく響いた。

短い沈黙の後、ミケーレは椅子から立ち上がり扉に手をかける。


「…サムエル翁じゃねぇけど、政治との距離も程々にな」


「もともと好きじゃない。むしろ、嫌いだ」


「知ってる。嫌うのは構わねえ」

「嫌うならこそ、もう少し知っておいた方が良いぞ。立ち回り方も含めてな。

 お前が思ってる以上に向こうはこっちを見てる。あいつらはそういうもんだ」


「……肝に銘じておく」


扉を開け、ミケーレは去って行った。


船長室に残ったのは、帳簿と、ランプの火と、救えなかった一人分の重さ。数字は変わらない。航路も、損益も、予定通り。


それでもラウロは知っていた。この船は、確実に何かを失った。人か。理念か。それとも――まだ手を伸ばせると信じていた余地か。


ランプを消し、ラウロは立ち上がる。明日、ロードスで一つの選択が完了する。救済ではない。罰でもない。ただ、この船が生き延びるために切り離される一人分の重さだった。




ロードス港・港湾区外縁


石灰岩の倉庫が並ぶ一角は、昼間の喧騒から切り離されたように静かだった。街の人間も巡礼者も来ない。騎士団の旗がはためく正規の埠頭からも、半刻ほど離れた場所。そこにあるのは、事務所とも倉庫ともつかない、低い天井の石造りの建物だった。


扉の前に立つと、港の潮と、油と、古い羊皮紙の匂いが混じった空気が鼻を刺す。

この場所で扱われるのは、貨物の中でも最も説明を要しないものだった。


中は狭い。粗末な机が一つ、木箱がいくつか。壁際には秤と封蝋、そして騎士団の印章。書記官は若くも老いてもいない男で、顔に感情の痕跡が残らない類の人間だった。


「一名。成人男性。問題行動あり」


ラウロが短く告げる。


書記官は頷き、羽根ペンを取る。


「出身」

「ジェノヴァ系。カッファ経由」


その瞬間、書記官のペン先が一拍だけ止まった。だが、それ以上の反応はない。


「宗教」

「ラテン」

「健康状態」

「航海に支障なし」


質問は淡々と続く。まるで馬か、樽か、古い船具を扱うかのように。その間、アレッサンドロは鎖をつけられたまま、壁際に立っていた。

姿勢は崩れていない。視線も伏せない。

むしろ――この場の誰よりも「選ぶ側」に近い顔をしていた。

書記官が顔を上げる。


「……分かってると思うが…価格は、相場より下がるぞ」


「結構だ」


ラウロが即答する。


「こちらとしては、早く処理したい」


「承知した」


封蝋が溶かされ、騎士団の印が押される。その音は、甲板で鎖が鳴る音よりも、ずっと軽かった。


アレッサンドロが、ふと笑う。


「なるほど」


誰に向けたともなく、そう言った。


「ずいぶん、静かな勝利だな」


ラウロも、まだ口を開かない。

アレッサンドロは、ようやくラウロを見た。


「お前の考えは読めている」


声は澄んでいた。怒りも、悲嘆も、ない。


「サラセンどもの下で奴隷をするなぞ、真っ平ごめんだ」


一歩、鎖が鳴る。


「ここはヨーロッパだ。この意味がわかるか」


ラウロの目を、真っ直ぐ射抜く。


「ロードスで下ろされると、サラセンどもの地で下ろされるのとでは訳が違う」

「ここなら、俺にはまだ"やりよう"がある」


彼は、誇らしげですらあった。


「俺の勝ちだ、ラウロ」


ラウロは、すぐには答えなかった。


机の上の帳簿を見る。記された数字。差し引き。封印。すべて、計算通りだ。

それから、静かに言った。


「……お前は」


一拍。


「ついぞ何も理解しなかった」


アレッサンドロの眉が、わずかに動く。


「何を言っている」


「…勝ったのだろう。おめでとう、とでも言えば良いか」


ラウロは視線を上げない。

アレッサンドロは笑った。短く、乾いた笑い。


「哀れみか?」

「それとも、負け惜しみか?」


ラウロは首を振らない。肯定もしない。

ただ一言。


「……お前の父上は、よく考えてられておられた」


その言葉が、アレッサンドロの顔から、ほんの一瞬だけ表情を奪った。だが、彼はそれを否定するように、顎を上げる。


「知らんな。あんな男のことなど」

「俺は俺だ」


書記官が、手続きを終えたことを示すように咳払いをする。


「引き渡しは完了している」


騎士団の兵が、無言で鎖を取る。その動作は丁寧だった。だが、そこに敬意はない。扉が開く。


外の光が差し込み、港の喧騒が一瞬だけ流れ込む。アレッサンドロは、振り返らなかった。最後に残ったのは、彼の「勝利宣言」だけだった。


扉が閉じる。再び、倉庫は静寂に包まれた。

ラウロは静かに帳簿を閉じる。

その音は、人一人分が世界から切り離されるには、あまりにも小さかった。




ロードスを離れて数日の後、ラウロ達は次の寄港地に到着していた。


手続きを済ませ、積荷を搬入するさなか、ロードスから一つの書状が届いた。差出人は、ロードス騎士団の名を冠した、形式だけは整ったものだった。


「貴殿が引き渡した反抗的な奴隷は、規律違反により処分された」


それだけだった。処分の方法も、時刻も、立ち会った者の名もない。ラウロは、文面を何度も読み返したが、行間に意味を探すことはできなかった。そこに書かれているのは、結論だけだった。


処分された。


それ以上でも、それ以下でもない。

書状を畳み、卓に置いたまま、しばらく動けなかった。彼は、その言葉の重さを量ろうとする癖があったが、今回は秤そのものが壊れている。

それは罰でも、報告でもない。


「これ以上知る必要はない」という通知だった。



ふと、ロードスで船を下りた船員の言葉が、遅れて胸に戻ってくる。


彼は、ラウロの船に長く乗ってきた男だった。

荒天も、検疫も、裏切りも、死も、すべてを知っている。別れ際、彼は甲板の影で立ち止まり、振り返って言った。


「……気をつけられた方が良いですよ」


その時は気にも留めていなかった。ただの挨拶だと。その声音に、敵意はなかった。むしろ、親しい者にしか向けられない重さがあった。


ラウロの中で様々なピースがつながり、像を結んでいく。もしや、まさか、いやそんなはずは。ラウロは椅子から立ち上がる。



彼の言葉は、三つの意味を含んでいた。


ひとつめ。

ラウロは商人であり、政治ではない。

秩序に属さぬ善意は、最も危険な不確定要素だという警告。


ふたつめ。

今回の件に、明確な証拠はない。

だが、ラウロの関与の仕方は、「裏切り」と解釈する余地を残している、という事実の通告。


そして、みっつめ。

次に同じような動きをすれば、ラウロ自身が「市場ではなく、秩序の側で処理される存在」になるという忠告。


船員の声にはどこか「お前がそうなってほしくない」という、言外の感情が滲んでいた。彼は、ラウロを売ろうとしたわけではない。生き残らせようとしていた。


ミケーレの言葉が耳の奥に響く。


「お前が思ってる以上に向こうはこっちを見てる。あいつらはそういうもんだ」


ラウロは、その時ようやく理解した。


自分は政治と距離を置いてきた。承諾の返答もしていない、証拠もない、商人然とすることで、何も問題はないと思っていた。しかし、あちら側はそうは見ていなかった。船員はアレッサンドロをけしかけ、わざとロードスで下ろすように仕向けていたのかもしれない。そう考えると、あまりにも辻褄が合いすぎていた。


ロードスの報せは、処分の通知ではない。

線引きだった。ここまでだ。それ以上は、踏み込むな。


ラウロは書状を火にくべなかった。破りもしなかった。ただ、帳簿の間に挟み、何もなかったかのように立ち上がった。


市場は、何事もなかったように動き続ける。だが彼は知っている。この航海で、ひとつ、戻れない場所を越えたことを。

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