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0016:選ぶ者の錯誤・前編(エーゲ海)

コンスタンティノポリスを過ぎ、船はダーダネルス海峡の群青を抜け、エーゲ海の蒼に身を投じた。


初夏の陽光は、黒海特有の重たい湿り気を焼き払い、海面を無数の銀の破片に変えていた。潮は軽く、風は乾いている。島影が点在し、海は交易の顔を取り戻していた。


キオス寄港を控えた朝、ラウロは船長室で一人、帳簿を閉じたまま窓外を見ていた。

視界の端を、白い帆と低い丘陵が横切っていく。

思考は、自然と一人の名に戻る。


――アレッサンドロ。

ジェノヴァ系有力家門の血縁。

連帯保証人として名を連ねたことで債務奴隷へと転落した男。


彼は、ラウロが奴隷出身であることを知っている。そして、その事実を軽蔑をもって受け止めている。アレッサンドロにとって、自身が奴隷としてラウロに扱われるなど、到底受け入れられるものではなかった。

アレッサンドロからすると、命を繋ぐための配慮も、航路の先を見据えた意図も、彼にとっては「下から差し出される命令」にしか見えなかった。

彼には、ラウロを理解する意思も歩み寄る気持ちもなかった。それは拒絶というより、最初から対等に見る気がないという宣言だった。

「私はお前とは違う。奴隷達とも違う」そう主張するかのように振る舞い、彼は他の奴隷からも距離をとられていた。


キオス到着前、船倉で起きた小さなざわめきは、その兆候だった。


奴隷達は、キオス到着を控えて船倉に集められていた。

見張りの船員の視線を盗むように、アレッサンドロは静かに、しかしよく通る声で話す。


「この航路は、無駄が多い」


誰かが息を呑む。


「キオスに寄る意味があるか?

 マスティハと水、塩、干し果実……それだけだ。

 本来なら直進して、もっと早く南へ出られる」


彼は、まるで商談の席にいるかのような口調だった。


「時間は金だ。船は資産で、奴隷は積荷だ。

 それを分かっていない者が、指図をしてるなんてな」


誰の名も出していない。

だが、誰に向けた言葉かは明白だった。


「お前たちは、選ばれた。

 だが、お前たちを選んだ者が正しいとは限らない。残念なことに」


鎖が、誰かの足元で小さく鳴った。反論しかけた者がいたが、言葉は出てこなかった。アレッサンドロは、“自分がまだ上にいる”という位置を確認しているようだった。


「私は、この海を知っている。

 ジェノヴァの地図も、商人の癖も、政治の裏も」


薄く笑う。


「私がここにいるのは、私の選択じゃない。

 お前たちがここにいる理由とて同じではない」


それ以上は言わなかった。言わなくても、十分だった。彼は一度だけ、甲板に上がる階段に目をやる。存在を測るように。



ラウロは、その報告を受け、短く息を吐いた。

予想していた。だが、思っていたよりも早い。

ラウロは、"ある事情"でもって奴隷のアレッサンドロを買取り、カッファより連れ出した。だが、アレッサンドロ自身にそういった理解はなく、ラウロからの干渉を一方的に拒絶している。アレッサンドロの拒絶は、エーゲ海に入ると反発へと変わっていった。


エーゲ海の光は、黒海よりもはるかに明るい。

だが、その下に沈む影は、よりはっきりと形を持っていた。




キオスでの補給を終えて次の航路へ向かう。

エーゲ海を渡る風は、驚くほど穏やかだった。

波は鏡のように滑らかで、船体は規則正しいリズムで海面を滑っていく。航海日誌に記されるのは「異常なし」の四文字。疫病の影もなく、海賊の帆影も見えない。商いとしては、これ以上ないほど順調な旅路だった。

だが、船内の空気は、目に見えない毒が染み出すように、じわじわと変質していた。

発端は、水場での些細な呟きだった。


夕刻、一日の労働を終えた奴隷たちが、配給される水の列に並んでいた。鉄の鎖が重苦しく擦れる音。その最後尾で、アレッサンドロが誰に言うともなく、ぽつりと漏らした。


「……量が減ったな。いや、減ってはいない。配る基準が変わっただけか」


低く、落ち着いた声音。だが、それは前後の男たちの足を止めるには十分な響きを持っていた。


「黒海の時よりは多いぞ」


一人が、渇いた喉を鳴らしながら反論する。


「ああ。だが、南へ行くほど『余裕』は削られる。交易というのは、そういうものだ」


アレッサンドロは、教えるわけではなく、ただそこに置くように事実を語った。


「備蓄はある。ただ――誰が、どこまで使っていいかを決めるのとは、別の話だ」


ガチャン、と鎖が激しく鳴った。誰かが不安を飲み込む音だった。アレッサンドロは静かに目を伏せ、付け加える。


「勘違いするな。不満を言っているわけじゃない。私はただ、事実を述べているだけだ」


その「事実」という言葉が、呪いのように周囲を侵食していった。

数日後、船の帆が生み出す僅かな影の下で、アレッサンドロは再び言葉を落とした。


「ラウロは合理的な商人だ。感情で動かない。だから信用できる」


まるで船長を称賛するかのような前置き。だが、その後に続く言葉が、聞き手の胸に楔を打ち込む。


「だが、合理性には『優先順位』がある。彼にとっての優先は、商品として"優秀"であることだ。だが、商品には序列がある。少年は高く売れ、技能持ちは管理要員、外見の良いものは上流階級、それ以外は……まあ、そんなもんだ」


彼は、冷徹な鑑定士のような目で周囲を見渡した。そこには否定も、同情もない。


「では、我々は…?」


不安そうに誰かが問いかけたが、アレッサンドロは答えなかった。

濃密な沈黙が、代わりに答えを突きつけた。俺たちは「その他」だ。合理性が削ぎ落とされるとき、最初に捨てられる端数だ――。

亀裂が表面化したのは、エーゲ海の美しい夕映えの中だった。


クリミア出身の若者と、チェルケスの男が、帆の張り替えの作業の割り振りを巡って激しく言い争いを始めた。普段なら、注意喚起の声一つで収まるような小競り合い。だが、その日は違った。


「待て」

「それは彼の仕事ではない。割り当てを見ろ」


間に入ったアレッサンドロが、若者の肩を制する。


「今日は風が違うんだ!」


若者が苛立ち紛れに叫ぶ。


「風?」


アレッサンドロは首を傾げた。その動作は、酷く優雅で、酷く残酷だった。


「風は理由にならない。判断が変わっただけだ」


その一言で、その場の空気が凍りついた。


「誰が……判断した…か?」


誰かの震える声に、アレッサンドロは答えない。ただ、一瞬だけ視線を上方に向けた。厚い木の床を隔てた先、装飾が施された船長室のある方向へ。

その夜、灯りを落とした船倉で、囁きは熱を帯びた。


「あいつは分かっているらしい」

「何を?」

「俺たちの値段をだ」


アレッサンドロは、常に輪の外にいた。扇動するわけでも、計画を授けるわけでもない。


「勘違いするな」


彼は闇の中から静かに告げる。


「私はただ、自分の立ち位置を、自分の価値を知っておいた方がいいと言っているだけだ」


「それが、何になる」


「少なくとも、自分を捨てずに済む。誰の判断で生きているかを分かっているかいないかで、納得感は変わってくる」


船長室で報告を受けるラウロの眉間には、深い皺が刻まれていた。

暴力はない。命令違反もない。ただ、秩序という名の透明な糸が、一本ずつ、丁寧に解かれている感覚。アレッサンドロがやっているのは、反乱の準備ではない。


「この船のルールは絶対ではない」

「判断しているのは、神ではなく、ただの人間だ」

「そして、人間は時に間違える」


そう、奴隷たちの意識の中にある「価値の座標軸」を、数ミリずつずらしているのだ。

何よりラウロを苛立たせたのは、アレッサンドロのその態度だった。

彼は、自分を奴隷だと思っていない。自分は今もなお「選ぶ側」の人間であり、たまたま一時的にここにいるだけだと。その傲慢なまでの自意識が、沈黙を通じて船全体を支配し始めている。


エーゲ海は、どこまでも穏やかだった。

だがラウロは予感していた。この航海が終わるまでに、自分は何かを失うことになる。

それが人か、規律か。

あるいは、自分自身の「正気」という名の判断力か。

紺碧の海の上、目に見えない嵐が、確実に船を飲み込もうとしていた。




その夜、エーゲ海は鏡のような静寂に包まれていた。

月は薄雲に遮られ、海面は鈍色に沈んでいる。風は止み、船は惰性で進むのみ。帆は半ば畳まれ、甲板を刻む見張りの足音だけが、世界のすべてを支配しているかのように規則正しく響いていた。


だが、その平穏は虚飾に過ぎなかった。

異変は、澱んだ空気が溜まる船倉の最奥から、音もなく這い出してきた。


「――っ」


短い悲鳴。それは叫びになる前に、誰かの手によって強引に断ち切られた湿った音だった。

直後、静寂を切り裂いて鎖が激しくのたうつ。


「何だ、何が起きた!」


見張りの船員が駆け寄るより早く、船倉の入口から一人の男が転げ出た。クリミア出身の若者だった。顔はどす黒い血に塗れ、唇は酸欠に喘ぐ魚のように紫色に変色している。


「……とられた……」


若者は、喉の奥から絞り出すように喘いだ。


「水を……。俺たちの……命の……」


背後から、怯えた様子の奴隷たちが押し出されるように這い出してくる。誰もが視線を彷徨わせ、何かから逃れるように口を閉ざしている。その群れの最後尾から、アレッサンドロが姿を現した。

彼は、驚くほど平然としていた。

呼吸は乱れず、衣服に皺ひとつない。ただ一点、彼の右拳だけが赤黒く濡れていた。水ではない。生暖かい、他人の血だ。


「……何をした、アレッサンドロ」


駆けつけた船員が剣の柄に手をかけ、低く問い詰める。アレッサンドロは、わずかに肩をすくめて見せた。


「確認をしただけだ」


「何のだ!」


「この船の秩序が、どこまで機能しているかの、な」


その淡々とした告白に、現場の空気が凍りついた。

船倉の奥からは、もう一人、動けずにいる者の呻き声が漏れ聞こえてくる。


アレッサンドロは、まるで商談の報告でもするかのように訥々と述べる。


「彼らが水を隠していた。だから確認をしたまでだ」


「正確には"次に備えて"、だな。悪い判断じゃないだろう。むしろ、この不確かな航海においては理にかなっているはずだが――」


彼は冷たい視線を周囲に巡らせた。


「水を勝手に隠すなんてな…

まぁ、良くはない。良くはないが、彼らも悪くない。

水は、この海の上で生きる為に不可欠なものだ。

それが十分かつ公平に適切なタイミングで行き渡ってないなら、彼らがそうするのも致し方ないというものだ。

むしろ、問うべきは分配そのものではないかな。

いや、分配の決め方、ルール、基準…この船の法について問うのもありかもしれない」


「貴様が口にすることではない!」


船員の一人が怒鳴りつけた。だが、アレッサンドロは即座にそれを撥ね退ける。


「違う違う。私は問うべきだとは申していない。

改善すれば皆がより良くなるかもしれないなあという話だ。私はただ事実を示しただけだ」


「……違う……」


床に伏した若者が、血を吐きながら呻く。


「奪ったのは……」


だが、アレッサンドロはその声を見向きもしなかった。


「おおよそ秩序というものは、守る者が誠実に守る限りにおいて機能するものだ。だが、守る者がいないのでは、ただの幻想にしかならない。だから、守る為に何をしたら良いのかを話し合うことは大切ではないかなあ」


彼は鎖を鳴らし、挑発するように一歩前へ出た。

その瞬間、均衡が崩れた。クリミアの別の若者が、恐怖と怒りに耐えかねてアレッサンドロに掴みかかった。


「黙れ!」


乾いた衝撃音。アレッサンドロの拳が正確に若者の顎を捉えた。若者は糸の切れた人形のように崩れ落ち、動かなくなった。


一瞬の静寂。

そして、その静寂は爆発的な動揺へと変わった。

誰かが隠し持っていた水袋を抱えて逃げ出し、誰かが隣の者を庇って鎖を引き絞る。怒号と泣き声が入り混じり、船倉は一気に混沌の淵へと叩き落とされた。


ドン!とトゥマニのハルバードの柄が床を叩いた。暗闇の中に鋭く光るトゥマニの眼と黒鉄の肌が鈍く光る。

船倉の入口に、いつの間にかラウロとトゥマニが立っていた。誰も、彼らの足音に気づかなかった。


「……説明しろ」


その声は、嵐の前の静寂よりも鋭く響いた。


ラウロは倒れた者たちを一人ずつ、冷徹に観察した。流された血。割れた唇。恐怖に震える指先。そして最後に、アレッサンドロの瞳を射抜いた。


「これは、事故か。それとも――お前の意図か」


「ああ。意図だ」


アレッサンドロは、はっきりと言い切った。


「先に申し上げておくが、私には反乱を起こす意志もつもりもない」


「そうか。では、どういうことかな」


「証明だ」


その言葉に、誰もすぐには息を吸えなかった。

彼は真っ直ぐにラウロを見つめた。


「この船は、あなたが思うほど安定してはいないことを。そして――あなたはそれを知りながら、見て見ぬふりをしていたことも」


「……ほう」


ラウロの声が、初めて微かに揺れた。


「私は、あなたと皆の為に行動したのだ、ラウロ。あなたが商人として、あるいは――かつての奴隷として。どこまで目が行き届いているのかと。どこまでこの欺瞞に耐えられるかと」


その瞬間、ラウロの中で何かが音を立てて断ち切られた。それは怒りではなかった。深い、底知れない理解だった。この男は、私と共にいる限り、毒であろうとし続ける。


この船に留まる限り、アレッサンドロという存在は「秩序そのもの」を試し続けるだろう。止めようとすれば力が必要になり、力を行使すれば、この船の秩序が、信認や理性でなく暴力で動いていることを証明してしまう。

ラウロは深く、重い息を吸い込んだ。


「……負傷者を手当てしろ。水は船員が厳密に管理しろ」


短い命令。誰も声をあげない。ラウロは再びアレッサンドロに向き直り、名前も呼ばずに投げ掛けた。


「貴様の覚悟は受け取った」


アレッサンドロは、初めて笑った。

それは勝利でも嘲笑でもなく、何かに解放されたような、安堵に近い微笑だった。


「……そうか。では、次の港で」


ラウロは答えず、ただ踵を返した。

その背中を見送りながら、これから起こるアレッサンドロの運命について船にいた誰もが悟っていた。


エーゲ海は、相変わらず穏やかだった。

ラウロの胸に刻まれた、消えない傷跡と共に、船は闇の中を滑り続けていった。

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