0015:千年の音(コンスタンティノポリス)
北風が、黒海の冷たく湿った重みを帆いっぱいに押しつけていた。
初夏。夜明け前の闇はまだ深く、船の舳先が切り裂く波頭だけが、燐光を放って白く浮き上がっている。水平線の彼方、わずかに群青色が滲み始めた頃、行く手にボスフォラス海峡の入り口が、巨大な獣の口のように口を開けて待っていた。
海峡に滑り込んだ瞬間、空気の質が劇的に変わる。
それまで船を翻弄していた黒海の予測不能な荒波が、両岸から迫る陸地によって強引にねじ伏せられ、船体は吸い込まれるような滑らかな加速を始めた。風はもはや四方から吹き付ける野蛮なものではなく、陸の香りを孕んだ、濃密な一本の「流れ」へと変わる。
「見ろ、アジアの灯が見えてきたぞ」
見張り員が指差す左舷(東側)の岸辺に、アナドル・ヒサルの低いシルエットが、夜明け前の残照の中に浮かび上がった。数年前にムラト2世が築いたその石壁は、まだ新しく殺気立った空気を放っている。狭い水路を睨みつける銃眼の奥には、オスマンの兵士たちの息遣いさえ感じられそうだ。
対照的に、右舷(西側)のヨーロッパ大陸は、深い沈黙と濃霧に包まれている。
かつて東ローマ帝国の栄華を支えた別荘地や修道院の残骸が、枯れ枝のような指を天に伸ばしている。崩れかけた石造りの桟橋に、打ち寄せる波だけが虚しく砕ける。そこにあるのは、数千年の歴史がゆっくりと砂に還っていくような、重く湿った気配だけだった。
潮の香りが消え、代わって鼻を突くのは、深い森の朽葉の匂いと、遠い村々で焚かれる朝食の薪の煙。そして、どこからともなく漂う野バラの香り。初夏の海峡は、死にゆく帝国と、産声を上げる新勢力の吐息が混じり合う、奇妙な調和の中にあった。
空が白み始めると、海峡の色は墨色から深いサファイア・ブルーへと転じた。
両岸の丘陵には、糸杉の黒い影が等間隔に並び、まるで葬列のように南へと続いている。流れはさらに速まり、船は激しい潮流(シェイタン・アクンティス:悪魔の潮流)に揉まれながら、蛇行する水路の奥へと引きずり込まれていく。
「帆を詰めろ! 流れに飲まれるな!」
船長の怒号が響く。前方の視界が急激に開き、海峡が大きく右へと湾曲する。その曲がり角の先、まだ朝霧に隠れて見えない場所には、かつて「世界の女王」と呼ばれた都市の心臓部が待ち構えている。
海峡を進むことしばし、吹く風は緩み船は惰性で滑るように進んでいた。
水平線の端、夜の残滓を振り払うように突き出したのは、ボスフォラスの出口を告げる「セライ門」の岬の影。そして、見張り員が声を上げる。
「……街だ。コンスタンティノポリスが見えるぞ!」
海峡が大きく南西へと曲がり、視界を遮っていた陸地が左右へと退いた瞬間だった。
船の帆が、昇り始めたばかりの東からの陽光を一身に浴びて、まばゆい琥珀色に染まる。それと同時に、乗組員たちの喧騒がぴたりと止んだ。皆の視線の先には、千年の歳月を積み上げた、人類の記憶そのもののような光景が横たわっていた。
霧を脱ぎ捨てたコンスタンティノポリスが、朝の光の中に現れる。
まず目に飛び込んできたのは、街の最も高い場所に鎮座するハギア・ソフィアだった。その巨大な円蓋は、朝陽の光を受けて煌めきながら海の上に浮かんでいる。かつて東の大唐国、長安の都を起点としたシルクロードが、何千マイルもの砂漠と山脈を越えて最後に辿り着いた西の終着。その象徴が、この圧倒的な大理石の塊であった。
最盛期には百万を数えた人口も、今や数万にまで減り、壮麗な宮殿の壁には蔦が這い、窓には灯火も乏しい。しかし、この距離から見る都の威容は、衰退という言葉を寄せ付けないほどの静かな威圧感に満ちている。
海岸線に沿ってどこまでも続くテオドシウスの城壁は、幾多の異民族の軍勢を跳ね返してきた守護者の如く、鈍い光を放って海から立ち上がっている。
城壁の背後に並ぶマグナウラ大宮殿の円柱群や、ヒッポドローム競馬場のオベリスクが、鋭い影を街並みに落としている。それらは、かつて地中海を「我らが海」と呼んだローマ帝国が、この地に残した壮大な墓標のようでもあり、同時に、今なお拍動を続ける生きた伝説のようでもあった。
船が金角湾の入り口へと近づくにつれ、空気には聖堂で焚かれる乳香の香りと、港に停泊する千差万別の船から漂うタールとスパイスの匂いが混じり合う。
波間に反射する朝日は、かつてこの都が世界の富の四分の一を独占していたという伝承を裏付けるように、海面を一面の金箔へと変えていた。
-
ラウロは奴隷の一部を甲板に上げていた。いつもの健康管理の一環であったが、この日は少し訳が違っていた。船縁に集まっていたのは、皆この都を「名前」でしか知らない者たちだった。クリミア出身の少年、ルーシの若者、チェルケスの男、アルメニアの中年。白い石の城壁と、丘の上に重なる屋根が見え始めた、その時だった。
「……あれが、ローマか…」
誰かが呟いた。
「ローマ、だと?」
「名ばかりだ。真の信仰は、とうにこちらを離れている」
低く笑ったのはアルメニアの男だった。
「何を言う」
「神の都だ。あの大聖堂がある限り、ローマはローマだ」
すぐにルーシの若者が噛みつく。
「なら、なぜあんなに静かなんだ」
「都なら、もっと神の声で満ちているはずだろう」
チェルケスの男が肩をすくめる。
「静けさを知らぬ者ほど、声の多さを信仰だと思う」
アルメニアの男が吐き捨てる。
「静かにしろ」
船員からの注意が入り、奴隷達は沈黙する。
ルーシの若者は、無意識に十字を切った。その動きが、アルメニアの男のものとは僅かに違っていた。
「……その切り方は、正しくない」
アルメニアの男がボソリとつぶやく。
「正しくないだと?」
若者の声が強張る。
「神は形ではなく、心を見る」
若者が気色ばんで言い返す。
「形を軽んじる者ほど、己の都合を神に預ける」
アルメニアの男は一歩踏み出しかけ、すぐに踏みとどまった。
鎖が、甲板で小さく鳴った。空気が、ひりつく。男は静かに続ける。
「お前たちは、ローマを“憧れ”としてしか知らない」
「我々にとっては、古い兄だ。尊敬もあれば、失望もある」
ルーシの若者は何か言い返しかけ、言葉を失った。若者の言うローマは、歌と祈りの中にしか存在しない。
その時だった。
風がやんだ。
帆が鳴る音も、甲板を歩く足音も、波の擦れる音も、一瞬、世界から抜け落ちたかのように感じられた。誰かが息を吸う音だけが、妙に大きく聞こえる。
そして――
ごう、と。
低く、深い音が、空気そのものを震わせて届いた。音は街から来たのではない。海と空の境目から、押し寄せてきた。それは耳で聞く音ではなかった。胸の奥、肋の裏、骨の内側に直接触れてくる重さがあった。
一打。
二打。
誰も言葉を発さない。
先ほどまで声を荒げていた者たちも、十字を切る者も、切らぬ者も、ただ、音の行方を見失ったように立ち尽くしていた。
鐘は、誰の正しさも裁かない。誰の神学も選ばない。
ただ、「ここに在る」という事実だけを、千年分の重みで叩きつける。
アルメニアの男は、ゆっくりと視線を落とした。
ルーシの若者は、十字を切る途中で手を止めた。
チェルケスの男が、何か言おうとしたが、やめた。
言葉は、誰の口からも出てこなかった。
鐘の余韻が消えた後も、甲板にはしばらく、誰も動けない時間が残った。勝者もいない。和解もない。
ただ、自分たちが争っていたものの小ささと、それでも消えない信仰の重さだけが、同時に残る。
少し離れた場所で、ラウロは何も言わずにそれを見ていた。仲裁もしない。評価もしない。
この沈黙もまた、市場と同じく、人が選べず、避けられない現実の一部だと知っているからだ。
船員の誰も、帽子を脱いでいない。
それが何度目の通過かを、彼らは覚えていない。
船は再び、風を受けて進み出す。
誰も、もう都について語ろうとはしなかった。
ただ、鐘の音だけが、それぞれの胸の中で、違う意味を持ったまま鳴り続けていた。




