0013:ミレーナ
トガイからミレーナを引き取ったその日の夕刻、商館の奥にある小さな会議室は、蜜蝋の匂いと重苦しい沈黙に包まれていた。卓の上には何も並んでいない。この日の議題は別にあった。
――ミレーナ。
ナディラとファーティマが、まだ眠っている少女を一度見てきた直後だった。
「……あれが“白い人”、"夜を見る者"か……」
レオニダスが、静かに息を吐くように沈黙を破る。
「神の徴だとか、悪魔の印だとか、噂は耳にしたことはあったが……実際に目にしたのは初めてだ」
少し言葉を探し、彼は続ける。
「言葉にしづらい存在感だ。あれは……見る者の中に、恐怖も畏れも、同時に呼び起こし、暴き出す。それこそ…まるで、鏡のような。
様々な反応を引き起こすのは、無理もない」
ナディラは頷いた。
「ええ。
おそらくだけど…あの子を見るとき、人はあの子自身を見ないのでしょうね。
自分の中の好奇心や嫌悪、同情……勝手な袋をあの子に被せて。あの子は、誰からも“個”として見てもらえないのかもしれない」
ファーティマは、少し控えめに口を開いた。
「身体的にも、限界です。光を拒む瞳、紙のように薄い皮膚、そして……あまりに浅い眠り。今はただ、細い糸一本でなんとか命を繋いでいる状態です」
沈黙が再び落ちた。ラウロは椅子に深く腰掛け、組んだ指の間に顔を埋めていた。
「……壊れる寸前だ」
絞り出すような声だった。
「仮に命を取り留めても、売り物にするのは憚られる。ここで手放せば、それこそあの子の命はそこで終わる。…見捨てる訳たくは…ない…」
理知的な商人と、一人の男。その境界でラウロは揺れていた。珍しく迷っているのが誰の目にも明らかだった。
その様子を見て、ナディラがふっと笑った。
「ほんと、あんた分かりやすいわね」
肩をすくめる。
「初めてのケースに出くわすと、必ずそうやって立ち止まる。慎重過ぎてもう…石橋も叩き割れそうね」
「……笑い事じゃない」
ラウロがぼそりと返す。
「分かってるわよ。けれど、別に今すぐ決めなきゃいけない話でもないでしょ」
ナディラは軽く言った。
「まずは元気になってもらわなきゃ。話はそれからよ」
ラウロは言い淀む。
「……だが……」
「だからこそだ」
レオニダスが、穏やかに割って入った。
「ラウロ、私たちに任せなさい。
我々は我々で、出来ることを精一杯する。
一人で全ての帳尻を合わせようとするな」
ファーティマも静かに頷く。
「あなたが航海に出ている間、私たちも考え続けます。一人で抱える必要はありません」
ラウロは、ゆっくりと顔を上げた。
一人で決断を下し、一人で全責任を負うことに慣れすぎた男の瞳に、わずかな温度が宿った。
「……恩にきる」
短く、だが湿り気のない言葉を返した。
この場での結論は一つ。処分も売却も、今は考えない。ただ、少女の回復を最優先する。その一点において、彼らの意志は固まった。
-
深夜。商館が深い眠りに落ち、建材が冷えて軋む音が響く頃、ラウロは吸い寄せられるようにミレーナの部屋を訪れた。
寝台の上で、少女は獣の幼子のように身をよじらせていた。
「……っ、……ぁ……」
喉の奥で引きつるような声。荒い呼吸。まぶたの裏で、彼女は今もなお、自分を追い詰める「何か」と戦っているようだった。
枕元にはナディラが控え、声を潜めて様子を見守っていた。
「不眠と中途覚醒が酷いわ。やっと眠っても、すぐに悪夢に引き戻される」
「しばらくはファーティマと私が交代で看るわ。放っておけば、呼吸が止まってしまいそうだから」
「……そうか」
ラウロは寝台に近づこうとして、踏みとどまった。自分の影が、彼女を脅かすことを恐れたかのように。
「薬草でも、質の良い布でも、特別な灯りでも……市場で必要なものがあれば、迷わず金を使え。それでも足りなければ、サムエルに相談してくれ。遠慮はいらない。あの人なら、表に出ない品でも工面してくれる。話は私から通しておく」
ナディラが頷くのを確認すると、ラウロはそれ以上、言葉を重ねなかった。
ラウロはそれ以上、部屋に留まらなかった。
眠りを邪魔するわけにはいかない。
廊下に出て、重い木扉を静かに閉める。
――壊れる寸前。
昼間に吐いた言葉が、冷たい夜気に混じって胸に突き刺さる。
それでも。今夜、彼女の命はまだ、彼の指の間から零れ落ちてはいなかった。
ラウロは自らの足音を殺し、まだ仕事の残る執務室へと、闇に溶けるように戻っていった。




