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0012:夜に見る者: Lucifugus

時は少し遡り。


1448年6月

黒海の風は、潮の香りと共に草原の乾いた埃を運んでくる。

ラウロは執務室の窓から、眼下に広がる広場を眺めていた。この時期、カッファの街は奇妙な活気に包まれる。「草原の収穫:Harvesting of the Steppe」。年に二度、タタールの商団が富と悲劇を馬車に乗せてやってくる季節だ。


ラウロのは奴隷を軸にした貿易を行っている。

タタールから買い取った奴隷を東地中海へ送り、その対価で得た香辛料を北イタリアで捌く商売。

彼が他の奴隷商人と一線を画すのは、その商品に「教育」という名の磨きをかける点だった。


「旦那様、トガイ様が到着しました」


報告を受け、ラウロは執務室を後にする。


広場には、すでに独特の熱気が渦巻いていた。馬車から次々と下ろされ、家畜のように並べられていく人々。

その中心で、一際大きな体躯を揺らしている男がいた。タタール商人、トガイ。

日に焼けた顔の古傷と、威圧感のある肩幅。無表情であれば誰もが道を譲る「強面」の男だが、ラウロの姿を認めるや否や、彼は大型犬のように顔を綻ばせて駆け寄ってきた。


「ラウロ! 息災だったか!」


ラウロは、駆け寄ってくる男を見て小さく息を吐いた。

トガイ――クリミア・ハン国の草原を根城にする、少し変わったタタール商人だ。


体躯は大きく、肩幅も広い。日に焼けた顔には古傷があり、無表情で立っていれば盗賊か傭兵にしか見えない。

実際、初対面の人間はだいたい彼を避ける。子どもなら泣き出す。


だが、その外見に反して、トガイは驚くほど朗らかで、そして正直だった。

値を誤魔化すことができず、嘘をつくと顔に出る。交渉事ではいつも一歩引き、結果として損をすることも少なくない。不器用な男。


元々は馬や毛皮を扱う草原にいる素朴な商人だった。

だが、略奪者に「処分に困る人間」を押し付けられた事がきっかけとなり、貧村の親に泣きつかれ、断れずに子どもを引き取るうちに、いつの間にか奴隷を扱う立場に押し出された。

本人は今も、それを生業として誇ってはいない。


それでも彼は、人を粗末には扱わなかった。

鎖は必要最低限、食事は欠かさず、無駄に殴らない。

それが善行だとは思っていない。ただ、「そうしないと眠れない」だけだ。


ラウロは、トガイを信用していた。

優秀だからではない。ただ誠実であった。

誠実であるがゆえに、必ずどこかで失敗する。

そして、失敗したときに、隠さず彼は開示する。

――それだけで、この世界では十分に稀だった。


広場に並べられていく奴隷達。

目には様々な色が浮かぶ。

これまでの旅程で刻み込まれた恐怖から怯えているもの、これから訪れるであろう運命に必死に耐えようとするもの、疲労と絶望とで虚無を見つめているもの、生きることを諦めてしまっているもの、様々だ。おおよそ見慣れたもの、見慣れてしまった世界の一部だ。

ただ、今回はひときわ違和感を覚える存在がそこにあった。


白い。


ラウロの視線が止まった。


「おお、気づいたか! 今回は掘り出し物がいるんだ」


トガイが誇らしげに胸を張る。


「肌は雪のように白く、髪は銀色に輝いている。目が変わった色をしているのは、王侯貴族が高く買うんだろう?」とトガイが尋ねてくる。褒めて欲しそうな顔が少し邪魔だ。


「ん?」


白い子どもを観察しているとラウロが違和感に気づく。目が赤い。ラウロには嫌な予感が浮かんでいた。


期待に満ちたトガイの視線を無視し、ラウロはその「白い子供」の前に立った。

無言でフードを剥ぎ取る。汚れにまみれた白銀の髪が、初夏の鋭い陽光を弾いた。

ラウロは子供の細い腕を掴み、無理やり日向へと引きずり出す。


「……っ」


子供は抵抗しようとしたが、その体には羽虫を払うほどの力さえ残っていなかった。

ラウロは袖を捲り、剥き出しの白い肌をじっと観察する。数分もしないうちに、その繊細な肌はジリジリと熱を持ち、見る間に痛々しい赤みを帯びていった。


アルビノ。陽光そのものが毒となる、呪われた、あるいは聖なる肉体。

アルビノの繊細な肌が陽光に反応するのを確認すると、ラウロは何も言わずに白い子どもに背を向け、商館の使用人に命じた。


「入浴させろ」


トガイは一瞬、何が起きたのか分からず、ラウロの横顔を見たまま立ち尽くしていた。

値が付くかどうかの話になると思っていたのだろう。もしくは叱責が飛んでくるものだと。

ラウロは黙ったままだった。


「……ラウロ?」


呼びかけは、いつもの朗らかさより少し慎重だった。

ラウロは振り返らない。

使用人が白い子どもを連れて行く。

その様子を視線の端で確認するだけだ。


「これは“良いもの”ではない」


ラウロは低い声で、事実だけを突き刺すように言った。


トガイは首を傾げる。


「でも、王侯貴族が好むって聞いた。見た目も――」


「“見た目”で売る話じゃない」


言葉は短い。だが、刃のように切り捨てる調子でもない。

ラウロはようやくトガイを振り返った。そこにあるのは怒りも軽蔑でもなかった。ただ、友人に残酷な真実を教えねばならない疲労感だった。


「トガイ、君の言うあながち間違いではない。

白い肌で銀髪の人間は確かに高い値がつく。

碧眼や翠眼もしくは灰色の目であれば確かにその通りだ。」


「じゃ、じゃあ何が…」


トガイが気まずそうに尋ねる。


「"白い人"だ。おそらく…プリニウスが記した"夜に見る者"だ。日光で皮膚が焼ける。目も極めて弱い。街道を裸同然で引き回せば、半月ももたない」


トガイの顔から色が失せていく。


「……そんな、そんな体の人がいるのか…」


トガイの声が少し沈む。


「草原では、まず生きられない」


ラウロは淡々と続けた。


「王宮なら?慰み者だ。珍獣扱いだ。

一般市場に出せば?見世物になればまだ良い方だ。

教会の目に留まると?神の徴だの悪魔の印だので弄ばれるに。長くは持たない。売れば、必ず死ぬ」


広場に沈黙が降りた。

トガイは何かを言おうと口を開き、そして、力なく閉じた。


「……知らなかったんだ」


ぽつりと、子供が謝るような声で零した。


「だろうな」


ラウロは突き放さず、ただ同意した。


広場では、他の奴隷たちの査定が進んでいる。

筋肉の付き方、歯、歩き方、目の焦点。

いつもと変わらない光景だ。


だがトガイの視線は、もう白い子どものいた場所から離れなかった。


「……俺は、ただ」


言葉が詰まる。


「高く売れるものを持ち込めば、お前に喜んでもらえると思って…」


ラウロは一瞬、視線を逸らした。

喜ばせる、という発想そのものが、トガイらしかった。

小さなため息が溢れる。


「値が付くかどうかと、扱っていいかどうかは別だ」


ラウロは短く告げた。

トガイは黙って頷いた。

叱られて落ち込むというよりも、言葉にならぬ悔いを奥歯で噛み締めているようだった。


「――これは、私が引き取る」


ラウロは続ける。


「帳簿には残す。だが市場には出さない」


「……金は?」


「払う。いつも通りだ」


トガイは慌てて首を振る。


「いや、いい。これは――」


「馬鹿を言うな。商売は商売だ」


ラウロは淡々とした語り口で遮った。


「これは慈善ではない。君の誠実な仕事への対価であり、この運命への敬意だ」


その言葉に、トガイは何も言えなくなった。

叱られているのに、拒絶されているわけでもない。

その曖昧さが、彼にはいちばん堪えた。


やがて、商館の中から使用人が戻ってくる。


「湯を用意しました。今、髪と肌を洗っています。大人しくしています」


ラウロは短く頷いた。


「目は?」


「赤く、光を嫌がります」


「覆っておけ。外には出すな」


使用人が去ると、広場に一瞬の空白が生まれた。

トガイは帽子を脱ぎ、胸の前で強く握りしめた。


「……俺は、間違えたのか」


ラウロは否定も肯定もせず、静かに述べる。


「何を間違いと呼ぶかにもよるが…

彼女がここまで無事に来れたのも、君が陽の光の入らぬ護送車で運んだからだ。

この陽射しの下を歩かされていたなら、少なくとも無事では済まなかっただろう。

少なくとも、君は彼女の命を繋いだ。

どういった巡り合わせかは分からないが、

これを間違いとせぬように努めよう。互いにな。

それだけだ」


トガイは、少しだけ救われた顔で笑った。


「分かった。……ラウロはやっぱり好きだ」


「やめろ」


ラウロはそう言って、再び事務的な表情で次の「商品」へと視線を移した。


白い子ども――後にミレーナと呼ばれる少女は、

この時点では、まだ“問題のある商品”ですらなかった。

ただ、ラウロが「値段を付けてはならない」と判断した、最初の一人であった。




広場の喧騒は、まだ続いていた。

次の馬車が到着し、別の商人の声が飛び交う。

だが、トガイの耳には、ほとんど入ってこなかった。

彼は帽子を被り直し、先ほどまで白い子どもが立っていた場所を見つめる。そこにはもう、誰もいない。

縄も、足跡も、ただ踏み固められた土だけが残っている。


——高く売れると思った。

——喜んでもらえると思った。


思った、という言葉が、やけに軽く感じられた。


草原では、「生きているか、死んでいるか」

それだけが判断基準だった。

だが今は違う。生きているだけでは、足りない。

トガイは、無意識に拳を握っていた。

爪が食い込む感触で、ようやく自分が震えていることに気づく。


怒られたわけではない。拒まれたわけでもない。

それなのに――どこにも逃げ場がなかった。


「……」


声に出そうとして、やめた。

何を言えばいいのか、分からなかった。

分からないままでは、もう、同じことは出来ない。

それだけは、はっきりしていた。

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