(18)日常
翌朝アルダンは久しく離れていた我が家の温かさを全身で感じていた。
朝の光が差し込む食堂には、食欲をそそるパンと薄切りの肉、そして属州から届く果実が並んでいる。
レオノラは微笑みながら、彼の旅の疲れを気遣った。
「アルダン。さあ、たくさんお食べなさい」
母はアルダンの正面に座り、頬杖しながらまじまじと息子を見ている。そして少し大人びた顔つきになったと誇らしげに使用人達に話している。
隣の席では前夜にアルダンの湯浴みを待つ間に眠ってしまったアイリスが、
「兄上、遠い街の話を聞かせて」
と言って離れない。
アルダンは微笑み、妹の頭を優しく撫でた。この平和な朝食のひととき。ささやかな幸せを噛み締める。
「どこから話そうかな」
彼はアイリスが興味を持ちそうな話題を探した。まだ十に満たない彼女には各国の産業や政治的な話は通用しない。
アルダンが最初に選んだのはセルシア王国の双子の姉弟のこと、王都カナンの底無しに明るい雰囲気のことだった。
年端もいかない少女アイリスはお姫様や王子様といった話が大好きで、すぐに兄の話に引き込まれていた。アルダンはその日の午前中いっぱいをアイリスに付き合わされた。
昼下がりの首都ハウゼンは。
大通りから一歩路地に入れば、迷路のような細道が蜘蛛の巣のように広がり、活気と喧騒が渦を巻く。そこには実に人間臭い生活がある。
路地裏のパン屋からは、焼きたてのパンの香りがあたりに満ち、陶工の工房からは轆轤を回す音、鍛冶師の鎚の音など、様々な生活の音が響き渡る。
アルダンは十三の頃より、この街のすべてを知ろうと好奇心の赴くままに歩き回っている。
「ひさしぶりだねぇ。またそんな格好で」
そう言って声をかけてくるのは、第二区画で陶器の工房を営むウルスという男だ。歳は40ほどか。
アルダンの身なりは季節に合わせた動きやすく膝丈の簡素なもので、市民と同じような革のサンダルを履いている。
元老院階級の子弟はアルダンくらいの年齢になると大人の役人らと同じように、羊毛で織られた巨大な布を足元までゆったりと纏うようになるのが常だった。
「久し振りに帰ってきてね」
アルダンの返事に対してウルスはにやりと笑い、今日できたという陶器の杯を差し出した。
「そいつはいいや。お前さんの姿が見えないと、ここらの連中は話のタネがひとつ減るもんでね。さあこれでも飲んでいけ」
ウルスは水で薄めた葡萄酒を杯に注いだ。
この街の商人、職人、労働者、彼らとの会話の中にこそ、共和政ライネを支える真の力が息づいていることを、アルダンは知っていた。
それは元老院の議場で語られているであろう、虚飾に満ちた言葉とは全く異なるものだった。
それが父ユリアヌス卿が言う「共和国が守るべきもの」の一つなのだと思う。彼は市民生活に馴染んでいる時間がいつも心地よかった。
「しかしあんたのお仲間連中、相変わらず街の空気を悪くしてよぉ。ガキのくせにいつも偉そうに」
「お仲間じゃない、俺は違うよ。ガキってのは合ってるけどね」
「わかっているさ。すまねえな、愚痴が溜まっていたのさ」
ウルスの言う”お仲間”とは、元老院階級の間で開かれる定期的な『夜会』で、アルダンを「鶏冠頭の気取った奴」と揶揄する者達のことだ。
彼らの会話は最新の流行、噂話、あるいは互いの家柄や親の自慢話ばかり。
アルダンはそういった”お仲間付き合い"に興味がなく、顔見せ程度に知人たちに挨拶を済ませると腹を満たすことに集中し、満足すると帰ってしまう。その必要以上に他人と関わらない態度が『気取ったやつ』と評される原因だ。
彼自身、そういった集団を心の底から軽蔑している訳では無いが、その態度は周囲の若手貴族たちの反感を買うに十分だった。
しかしそんなアルダンにも少しは理解者がいた。上層階級の邸宅用に拓かれた『第7区画』の一角に居を構えるリヒト卿の息子、ルキウスはその一人。
「なんだよ、少しは大人になって帰ってくると期待していたんだがな」
ウルスと話し込むアルダンの背後から、聞き慣れた声がする。それがルキウスだった。
アルダンより3歳上で今年から首都警備隊の小隊長を務めていた。
また社交界の華やかさを好まずとも、上手く立ち回る術を身に着けており、しばしばアルダンの気質を案じていた。アルダンが彼の父を『師』と慕うように、ルキウスは幼少よりユリアヌス卿を『師』と仰いでいる。
「アルダン、君はまた昼間から遊んでいるのか」
ルキウスはそう言って興味深そうに尋ねる。
「......これでも社会勉強のつもりだよ」
いつもの様に答えようとするアルダンを制して、ルキウスは笑う。
「ははっ、君らしいな。だがハッキリ言っておく。そんな君を疎ましく思う彼らを、集団の力を甘く見ないことだ。今回の旅の件もそうだが、君は色々と目立ちすぎる」
ルキウスはそう忠告したが、アルダンは軽く肩をすくめただけだった。アルダンはまだ理想を信じていたかった。
「ルキウス兄、公務中なんだろ?」
アルダンは逃げようと試みる。
「近々うちへ来い。ヴェリアでの父上の様子も聞きたい」
「わかったよ、そのうちね」
「お母上を心配させるな」
「大丈夫だよ」
帰路にアルダンは思う。今日のルキウスと同様にあと2〜3年後には自分も何らかの公職に就かねばならない。それが元老院階級の義務であった。
『俺は軍や警備隊より、民会に関わりたいんだが、さて......』
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