守衛室のあかり
工場の正門前で営業車を停める。ハンドルから手を離し、小さく息をついた。
車窓の向こうでは、薄暮の中で守衛室の小さな灯りが淡く光っている。工場の門を通るには、いつもこの守衛室の前で守衛さんとやりとりをしなければならない。
私は斉藤結衣。制御機器メーカーの営業として働いている。入社して5年。担当エリアの大手工場にはもう数えきれないほど訪問しているけれど、工場に入る前のこの瞬間だけは毎回少しだけ緊張してしまう。
守衛室の前に立ち、窓越しに控えめに手を挙げると、中から守衛の篠原さんが微笑んで応えてくれる。
「斉藤さん、お疲れ様です」
篠原さんの落ち着いた声は、工場の喧騒を遮断しているかのように穏やかだ。彼の制服はいつも清潔で、口数は多くないけれど、どこか安心感を与える存在だった。
「今日もよろしくお願いします」
私は軽く会釈を返して入場記録簿に記入する。そんな短い儀式のような時間が、最近少しだけ楽しみになっている自分に気がついた。
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篠原さんは特別目立つ人ではなかった。背は高いけれど痩せ型で、落ち着いた雰囲気をまとっている。けれど、この工場の従業員だけでなく、出入りする業者や営業担当者にも人気があった。その理由を私は徐々に知ることになる。
ある日の夕方、私は重要な商談を失敗してしまった。顧客から期待していた契約を取れず、心は沈んでいた。
そんな日に限って、工場への最終訪問予定が残っていた。どうにか気持ちを奮い立たせて工場を訪れたものの、私の表情は硬かったのだろう。
守衛室の前を通ると、篠原さんが小さく眉を寄せて窓を開けた。
「斉藤さん、何かありました?」
「え……?」
突然の問いかけに私は驚いた。守衛室を通る営業は私だけではないのに、どうして私が落ち込んでいると気づいたのだろう。
「いや、すみません……ただ、今日はいつもより少し元気がないなと思って」
彼の控えめだが優しい問いかけに、気づけば私は素直に口を開いていた。
「ちょっと仕事がうまくいかなくて……契約、取れなかったんです」
篠原さんは何も言わず、じっと私の目を見つめたあと、穏やかに口を開いた。
「そうでしたか……大変でしたね。でも、いつも頑張ってらっしゃるのは皆知っていますよ。次はきっと大丈夫ですよ」
静かで、でも確かな彼の言葉が、私の胸に優しく染み込んだ。
「ありがとうございます」
それ以上何も言えなかったけれど、沈んでいた心は彼の一言で少し軽くなっていた。
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それ以来、守衛室での短いやり取りが増えた。私が訪問するたび、篠原さんは必ず少しだけ会話を交わしてくれる。
「最近はお仕事、順調ですか?」
「まあ、ぼちぼちです。でも今日はいい話ができそうで」
「それは良かったです」
彼との小さな会話は、営業という仕事の慌ただしさの中で、ほっとできる数少ない時間になっていた。私は次第に、この工場へ来るのが仕事以上に楽しみになりつつあることを自覚していた。
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季節が移り変わり、工場の周囲には冷たい風が吹くようになっていた。ある冬の夜、私は再び長引いた商談を終え、疲れきった身体で守衛室の前にたどり着いた。
守衛室の窓越しに篠原さんと目が合う。彼は小さく微笑み、すぐに席を立つと守衛室から出てきた。手には温かい缶コーヒーを二本握っていた。
「遅くまでお疲れ様です。これ、よかったら」
そう言って篠原さんはコーヒーを差し出してくれた。その温かさが指先を伝い、胸にまで届いていく。
「いつもすみません……こんなに気を使っていただいて」
「いえ、斉藤さんが頑張ってるのはよく見てますから。……でも、あまり無理しすぎないでくださいね」
彼のその言葉が、不思議なほど私の心を強く揺さぶった。彼はいつも守衛室から静かに人々を見守っているだけなのに、なぜ私のことをこんなにも分かってくれるのだろう。
「篠原さんって……本当に優しいですよね」
私の口から自然にこぼれ出た言葉に、篠原さんは少しだけ困ったように笑った。
「いや、そんなことないですよ。ただの守衛ですから」
彼は謙遜したけれど、その控えめさがまた私の心を温めた。
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それ以来、特別な言葉を交わすことはなかったけれど、二人の間に流れる空気は確かに変わった。訪問するたびに守衛室の窓を通じて交わす視線、穏やかな挨拶のひと言が、私にとっては特別なものになっていた。
ある日、帰り際に彼が呟いた言葉を私は忘れられない。
「斉藤さんが来る日は、守衛室もなんだか明るくなりますよ」
私は言葉を返せなかった。ただ頬が熱くなり、小さく笑って頷くだけだった。それで十分だった。私たちは言葉に出さないまま、互いの存在を静かに支えにしていた。
工場の正門を通るたびに見る守衛室のあかり。その淡い光が、私をいつもそっと包んでくれる。今日もそのあかりが私を迎えてくれる。守衛室の前で、私は小さく深呼吸する。
「お疲れ様です、斉藤さん」
その穏やかな声に、私は微笑んで答える。
「お疲れ様です、篠原さん。今日も、よろしくお願いします」
特別な告白はないけれど、その短い会話が、私たちを静かに繋いでいる。
――守衛室の灯りはいつも優しく、言葉にならない私たちの気持ちをそっと照らしていた。
「高橋クリスのFA_RADIO:工場自動化ポッドキャスト」というラジオ番組をやっています。
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