回路図の向こう側
薄いブルーの作業着の袖を軽くめくり上げ、私はディスプレイに表示された回路図にじっと目を凝らした。
工場の設計室は、いつも穏やかな静けさに包まれている。淡々と図面や回路を見つめる視線と、時折響くキーボードの打鍵音。ここは生産ラインの喧騒とは異なる、静かな集中が支配する世界だ。
私はエンジニアとして入社して3年目。製品の電気設計を担当しているが、同僚の村上さんは機械設計だ。彼とは同期で入社したものの、業務が微妙に異なるため、じっくり会話をすることは少ない。ただ、ふとした瞬間にすれ違うたび、小さく会釈を交わす。そのわずかな仕草に、なぜだか胸がきゅっとなることに最近気がついてしまった。
「設計、大丈夫ですか?」
私が回路に没頭していると、背後から静かな低い声がした。驚いて振り返ると、村上さんが小さく笑いながら立っている。彼はいつもと同じように、穏やかな眼差しで私の画面を覗き込んだ。
「あ、村上さん。大丈夫ですよ。電源回路の効率改善をしていて……」
「そうか。最近遅くまで頑張ってますね」
その言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。彼は仕事のことを話しているだけなのに、どうしてこうも心が乱れるのだろうか。
「村上さんこそ、ずっと残業続きじゃないですか。設備ラインのトラブル、大変そうですね」
村上さんは少し照れたように視線を逸らした。
「そうなんですよ。機械設計の方も、思った通り動いてくれないことが多くて」
「でも、村上さんがいればきっと上手くいきますよ。みんな言ってます」
自分で言った言葉に驚き、また顔が熱を帯びた。なぜこんなに素直な言葉が口から出てしまったのか、自分でもわからない。
村上さんは照れ笑いを浮かべ、小さく頷いた。
「ありがとう」
彼はそのまま自分の席へと戻っていく。私は彼の後ろ姿をちらりと見送り、心の奥に小さく響く鼓動を噛み締めた。
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その日以来、私は自分でも少し不自然なほど、村上さんを意識してしまうようになった。何気ない会話や目が合う瞬間が特別に思えてしまう。自分がこんなにも奥手であることに苦笑してしまう。
村上さんはというと、仕事以外ではあまり積極的に話しかけてくることはない。だから余計に、たまに交わす言葉が大切な宝物のように感じてしまうのだ。
ある日、私は新しい製品の試作機を工場で動かすことになった。試運転に緊張しつつも、一人で機械の調整を進めていた時だった。
「手伝いましょうか?」
聞き慣れた柔らかな声に、胸が跳ねた。振り向くと、やはりそこには村上さんがいた。
「あ……大丈夫ですか?忙しいでしょう?」
「調整なら、機械屋の僕も少しは役に立てますよ」
彼はそう言いながら、慎重な手つきで機械に手を伸ばした。その真剣な横顔に、私はつい見惚れてしまった。
試作機の調整を進めながら、私たちは自然と話をしていた。仕事のこと、好きな映画や本の話、何気ない会話が少しずつ距離を縮めていく。
「山田さんって、普段はクールなのに意外と笑うんですね」
彼の言葉にハッとして顔を上げると、村上さんは優しく笑っていた。その笑顔を見ていると、どうしても鼓動が速くなる。
「私、クールに見えます?」
「ええ、設計室ではいつも集中しているから。ちょっと話しかけづらい時もあります」
彼がそう言って苦笑すると、私も恥ずかしくなってつい下を向いた。
「話しかけづらい、か……ごめんなさい」
「いや、いいんです。真剣に仕事をしている姿は素敵ですから」
彼の言葉に、再び胸が熱くなった。村上さんは穏やかで控えめだけれど、時々驚くほどストレートに褒め言葉を口にする。それが私を少しだけ大胆にさせた。
「村上さんこそ、私が困った時にさりげなく助けてくれる。その方がずっと素敵ですよ」
その瞬間、私たちの間に静かな空気が流れた。告白など、明確な言葉はなくても、この空気が確かな気持ちを伝えているようだった。
ふたりでしばらく無言で機械の調整を進めていると、不意に村上さんが口を開いた。
「そうだ。週末、会社の近くに新しいカフェができたらしいですよ」
「そうなんですか?」
「もし良かったら……」
言いかけた彼の言葉は、途中で止まった。それ以上は聞かなくても、意味は伝わってきた。
「行きましょうか」
私は自分でも驚くほど自然にそう答えていた。村上さんは驚きつつも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、土曜日」
「ええ、楽しみにしています」
会話はそこで終わったけれど、私たちの間には不思議と穏やかな温かさが残っていた。
村上さんが席を外した後、私は再び機械に向かいながら小さく微笑んだ。言葉には出さなくても、確かに感じられるものがある。それは設計室の空気にも似て、静かな中に温かな確信を帯びている。
回路図や機械図面の線が交差するように、私と村上さんの気持ちもまた、ゆっくりと静かに重なり始めていた。
胸にそっと手を当てると、小さく跳ねる鼓動が、これから少しずつ変わっていく私の心を示しているようだった。
窓の外には夕陽が工場の屋根を静かに照らしていた。それはまるで、言葉にならない私たちの気持ちを優しく包み込むような、温かな光だった。
「高橋クリスのFA_RADIO:工場自動化ポッドキャスト」というラジオ番組をやっています。
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