データサイエンティストな私と現場の課長
私の名前は小鳥遊玲奈、26歳。大手機械メーカー本社のデータサイエンス部門で、日々数字と格闘している。そんな私が、青天の霹靂とも言うべき辞令を受けたのは、梅雨入り間近の蒸し暑い日のことだった。「工場への長期出張、生産効率改善プロジェクトのリーダー」。正直、耳を疑った。私の仕事は、あくまでオフィスでデータを分析すること。油と鉄の匂いが立ち込める「現場」とは、最も縁遠い場所にいると思っていたから。
不安と期待が入り混じる中、私は新幹線の窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。赴任先は、会社自慢の最新鋭設備を誇る地方工場。しかし、私にとっては未知の惑星に降り立つような心境だった。特に気が重いのは、製造ラインの人々との連携だ。本社育ちで、人見知りが激しく、自分の意見をはっきり言うのが苦手な私にとって、それは最大の試練と言えた。
工場に到着し、事務棟で簡単な挨拶を済ませると、早速プロジェクトの主要連携部署である製造第一課へ案内された。重い防音扉を開けた瞬間、機械の轟音と、独特の熱気が私を包み込んだ。そして、その中心にいたのが、噂に名高い郷田猛課長だった。
「小鳥遊さん、こちらが製造第一課の郷田課長です」
紹介されて顔を上げると、そこにいたのは想像を遥かに超える人物だった。日に焼けた浅黒い肌。作業着のTシャツは、鍛え上げられた分厚い胸板と、丸太のように太い腕でパンパンに張り詰め、今にもはち切れそうだ。短く刈り込んだ髪に、鋭い眼光。そして何より…声が大きい。
「おお!本社から来たデータのお嬢さんか!よろしく頼む!」
腹の底から響くような声に、私は思わず肩を竦めてしまった。握手を求められたが、彼のゴツゴツとした大きな手に、私の小さな手はあっという間に包み込まれ、軽く握られただけでも骨が軋むような錯覚を覚えた。
「は、はじめまして。小鳥遊玲奈です。よ、よろしくお願いいたします…」
蚊の鳴くような声で挨拶するのが精一杯だった。郷田課長は、私の顔をじろりと一瞥すると、ふんと鼻を鳴らしたように見えた。
「データ、ねぇ。俺たち現場の仕事が、そんなもんで本当に分かるのかね?」
初対面での、あまりにもストレートな、そして懐疑的な言葉。それは、私の心に小さな棘のように突き刺さった。怖い。この人とは、きっと上手くやっていけない。それが、郷田課長に対する私の第一印象だった。
*
工場での日々は、想像以上に過酷だった。慣れない安全靴で広大な工場内を歩き回り、機械の稼働データや作業員の動線を記録する。目にするもの、耳にするもの、すべてが新鮮であると同時に、私にとっては異文化そのものだった。作業員の人たちは皆、郷田課長を筆頭に体格が良く、黙々と作業をこなしている。彼らの間には、私には立ち入れないような、長年培われた暗黙の了解や絆があるように感じられた。
収集したデータとにらめっこする毎日。だが、数字の羅列だけでは、現場の複雑な状況は掴みきれない。もっと現場の人たちとコミュニケーションを取らなければならない。そう頭では分かっていても、郷田課長のあの威圧的な存在感を思い出すと、どうしても足が竦んでしまう。質問したいことがあっても、「こんな初歩的なことを聞いて呆れられないだろうか」「忙しいのに邪魔にならないだろうか」と逡巡し、結局タイミングを逃してしまうことの繰り返しだった。
ある日の午後、製造ラインの一角で、私は数値を計測するための少し重い機材を抱えていた。自分のデスクに戻ろうとしたその時、足元のわずかな段差に気づかず、バランスを崩してよろけてしまった。
「あっ…!」
手に持っていた機材が滑り落ちそうになる。その瞬間、太い腕が伸びてきて、いとも簡単に機材をひょいと持ち上げた。
「…危ねぇな。そんなもん、一人で運ぼうとすんな」
低い声。見上げると、そこには眉間に皺を寄せた郷田課長が立っていた。彼の力強い腕、作業着越しにも分かる筋肉の感触、そして微かに漂う汗と機械油の匂いに、不覚にもドキッとしてしまった。
「す、すみません…ありがとうございます…」
彼はぶっきらぼうに「ん」とだけ言うと、機材を近くの台に置き、すぐに自分の持ち場へ戻って行った。怖い人だと思っていたけれど、今の行動は…優しさ、なのだろうか。私の心に、小さな波紋が広がった。
それから少しして、変化は訪れた。私が一人、会議室で夜遅くまで残ってデータ分析をしていると、不意にドアが開き、郷田課長が入ってきた。手には、缶コーヒーが二本。
「…まだやってんのか。無理すんなよ」
そう言って、私のデスクに一本、ことりと置いた。そして、自分も隣の椅子にどっかりと腰を下ろし、プルタブを開ける。予想外の出来事に、私はただ目を瞬かせるばかりだった。
「あの…ありがとうございます」
「ああ。…で、何か分かったのか?その、データとやらで」
少し馬鹿にしたような口調は変わらない。けれど、その声には以前のような刺々しさは感じられなかった。私は恐る恐る、分析途中のグラフや数値を見せながら説明を始めた。すると、彼は意外にも真剣な表情で耳を傾け、時折、鋭い質問を投げかけてきた。
「この数値の異常な変動は、もしかしたら先週のAラインの部品供給遅れが影響してるのかもな」
「ここの作業時間は、ベテランと新人じゃ倍近く違うはずだ。平均値だけじゃ見えてこねぇぞ」
彼の言葉は、現場を知り尽くした者ならではの的確な指摘ばかりだった。それは、私がオフィスでデータだけを見ていては決して気づけない視点。彼の経験と知識が、私の分析に血を通わせ、意味を与えてくれるような気がした。
「すごいですね、郷田課長…」
「ん?何がだ?」
「いえ…現場のことを、本当に良くご存知で」
素直な感想を口にすると、彼は少し照れたように鼻の頭を掻いた。
「ま、これでも伊達に何年も飯食ってるわけじゃねぇからな」
その言葉には、確かな自信と誇りが滲んでいた。怖いと思っていた郷田課長が、少しだけ違う側面を見せてくれた夜だった。
*
プロジェクトが進むにつれ、私は郷田課長と話す機会が増えていった。相変わらず彼の声は大きく、言葉遣いもぶっきらぼうだったけれど、その奥にある真摯さや、仕事への情熱を感じるようになっていた。
ある時、製造ラインで突発的なトラブルが発生した。けたたましいアラーム音と共に、一部の機械が停止。現場は騒然となった。私はただオロオロするばかりだったが、郷田課長は違った。
「慌てるな!まず原因を特定するぞ!B班は代替ラインの準備、C班は部品の確認だ!」
いつもの大きな声が、今は頼もしい指示となって響き渡る。彼は自らも作業着の袖を捲り上げ、汗だくになりながら機械と格闘し始めた。その背中は、どんなデータよりも雄弁に、リーダーシップとは何かを物語っていた。油にまみれ、真剣な眼差しで機械を見つめる彼の横顔から、目が離せない自分がいた。いつしか、彼を目で追うことが、私の日常の一部になりつつあった。
私の分析も、少しずつ現場に受け入れられるようになってきた。ある工程で、特定の時間帯に不良品率がわずかに上昇する傾向を発見し、その原因と思われる作業手順の細かな問題点を指摘した。最初は半信半疑だった郷田課長も、実際に現場の状況と私のデータを照らし合わせ、「なるほどな…確かに、お嬢さんの言う通りかもしれん。こりゃ盲点だった」と、唸るように呟いた。
「お嬢さん」という呼び方は相変わらずだったけれど、その声には確かな信頼が込められているように感じられた。初めて彼に、データサイエンティストとして認められた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。それは、どんな称賛の言葉よりも嬉しい瞬間だった。
郷田課長への気持ちは、尊敬だけでは収まらなくなっていた。彼の無骨な優しさに触れるたび、仕事に対する真摯な姿勢を見るたび、私の心は静かに、でも確実に揺れていた。年の差は12歳。住む世界も、性格も、まるで違う。でも、惹かれている。この感情に気づいた時、私は戸惑いと同時に、どうしようもない切なさを感じていた。
*
プロジェクトが佳境に入り、工場全体が一種の興奮状態に包まれていたある日のこと。それは、突然やってきた。主要な生産管理システムに、大規模な障害が発生したのだ。復旧作業は困難を極め、私もデータ照合や原因究明のために、郷田課長をはじめとする現場のスタッフと共に、不眠不休で対応に追われた。
ようやくシステムが復旧の見込みが立ったのは、日付も変わろうかという深夜だった。疲労困憊の私たちが工場の外へ出ると、まるでタイミングを合わせたかのように、空からはバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り注いでいた。
「…最悪だ」
誰かが呟く。もちろん、終電はとっくにない。タクシー乗り場へ向かっても、この雨では捕まるとは思えなかった。途方に暮れ、雨に濡れるまま立ち尽くす私に、不意に声がかかった。
「…小鳥遊さん、俺の車で送る。乗ってけ」
郷田課長だった。彼の言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「え、でも…ご迷惑では…」
「こんな雨ん中、お嬢さん一人じゃ帰れんだろうが。いいから、早く乗れ」
有無を言わせぬ口調。でも、そこには確かな気遣いが感じられた。彼の車の助手席に乗り込むと、ふわりと彼自身の匂いがした。いつも工場で感じる汗と機械油の匂いとは違う、もう少し柔らかくて、安心するような匂い。
車内は、雨音だけが静かに響いていた。いつもは騒がしい工場とは違う、二人きりの空間。緊張で体が強張る私に、郷田課長はぽつりぽつりと話し始めた。それは、普段は決して聞けないような、彼の仕事への想いや、部下たちへの深い愛情、そして、この工場を守りたいという熱い情熱だった。
「なんで…そんなに頑張れるんですか?」
思わず、心の声が漏れた。彼は少しの間黙り込み、そして、運転席の窓に視線を向けたまま、ぽつりと答えた。
「…守りたいもんがあるからな」
その言葉と共に、彼はふと私の方を向き、少し照れたように、はにかむように笑った。その笑顔は、いつもの豪快なものとは全く違う、とても優しい、少年のような笑顔だった。ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。雨音が遠のき、彼の笑顔だけが、スローモーションのように私の目に焼き付いた。
家まで送ってもらい、車のドアを開けて降りようとした時、雨に濡れた彼の肩が目に入った。
「あのっ、郷田課長…!風邪、ひかないでくださいね…!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。彼は一瞬、きょとんとした顔をし、それから「…ああ」と短く答えた。その夜、私はベッドに入っても、彼のことが頭から離れなかった。あの優しい笑顔、守りたいものがあると言った時の真剣な眼差し。年の差も、立場の違いも、何もかも分かっている。それでも、どうしようもなく、彼が好きだ。はっきりと、そう自覚した。でも、私なんかが彼に想いを伝えても、きっと困らせるだけだ。臆病な心が、また顔を出す。
*
数週間後、私たちのプロジェクトは大きな成功を収めた。私の分析と提案は高く評価され、工場の生産効率は目に見えて改善された。その夜は、工場全体でのささやかな打ち上げが開かれた。いつもなら、こういう賑やかな席では隅の方で小さくなっている私だけれど、今夜ばかりはどうしても郷田課長にお礼を言いたかった。
ビールジョッキを片手に談笑する彼の姿を見つけ、私は深呼吸を一つして、勇気を振り絞って近づいた。
「郷田課長…あの…」
私の声に気づいた彼が、少し屈みこむようにしてこちらを向く。彼の周りの喧騒が、ふっと遠のいた気がした。
「今回のプロジェクト…本当に、ありがとうございました。課長のアドバイスや、ご協力がなければ、ここまでできませんでした…!」
しどろもどろになりながらも、なんとか感謝の言葉を伝える。すると彼は、いつもの豪快な笑顔ではなく、少しだけ優しい、どこか照れたような顔で言った。
「…何言ってんだ。小鳥遊さん…いや、玲奈さんの頑張りがあったからだろ」
初めて、彼は私を「玲奈さん」と呼んだ。その瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出し、私はほとんど無意識のうちに口走っていた。
「私、課長のことが…好きです!」
言ってしまった。周りのざわめきが、まるで音を失った映画のワンシーンのように遠のき、彼の驚いた顔だけが、大きく私の目に映った。しまった、と後悔するよりも早く、顔に熱が集まるのを感じる。
一瞬の、永遠にも感じられる沈黙の後。郷田課長は、その大きなゴツゴツとした手で、私の頭を優しく、わしわしと撫でた。
「…俺も、あんたのことが、ずっと気になってた」
顔を少し赤らめながら、彼はそう言った。信じられない言葉に、私はただ彼を見つめることしかできない。
「年の差も、まあ…色々あるかもしれんが…それでも、いいのか?」
真剣な眼差しで、彼は私に問いかける。私は、涙で滲む視界の中で、何度も、何度も、力強く頷いた。
後日、私たちは初めて二人きりで食事に出かけた。まだ少しぎこちないけれど、彼の隣を歩けることが、ただただ嬉しくてたまらなかった。レストランへ向かう途中、ふと彼の手が私の手に触れた。工場で鍛えられた、大きくて、少し硬いけれど温かい手。データと数字ばかりを追いかけていた私の小さな手が、その大きな手にそっと包まれた時、0と1だけでは決して描けない、温かくて確かな未来の設計図が、私の心の中に広がり始めた気がした。
*
そして、数年の月日が流れた。
あの雨の夜、郷田課長の車の中で聞いた「守りたいもんがある」という言葉。その「守りたいもん」の中に、いつからか私も加えてもらえたらしい。私たちは、周囲の温かい祝福を受け、夫婦となった。私は今もデータサイエンティストとして、時々本社と工場を行き来する日々を送っている。そして、家に帰れば、あの頃と変わらず豪快だけど、私にだけ見せる不器用な優しさで迎えてくれる彼がいる。
工場では、時折こんな噂が囁かれていると、同僚の女性社員がこっそり教えてくれた。「郷田課長、最近ますます仕事に気合が入ってるけど、奥さんの手料理が力になってるらしいぞ」「いやいや、あれは奥さんに頭が上がらないだけだって!」なんて。それを聞くたび、私はくすりと笑ってしまう。彼の大きな背中を支えることが、今の私の何よりの喜びだ。
かつては0と1の無機質な数字の羅列にしか見えなかった工場のデータも、今ではそこで働く人々の汗と情熱、そして彼の存在を伝える温かい物語のように感じられる。
鋼鉄の心臓を持つと思っていた彼は、実は誰よりも温かい心を持っていた。そして、0と1で始まった私たちの物語は、これからもたくさんの愛情という名のデータで彩られながら、続いていくのだろう。
「高橋クリスのFA_RADIO:工場自動化ポッドキャスト」というラジオ番組をやっています。
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