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1.社長令嬢と凄腕PLCエンジニア

私の名前はたちばな 結衣ゆい。この町の片隅にひっそりと佇む、父、たちばな 健二けんじが社長を務める橘製作所で、ささやかながら事務の手伝いをしている。窓際の、私専用に誂えられた日当たりの良い席から見える作業場には、今日も彼の姿がある。たちばな かけるさん。その細身の背中は、いつも少し丸まっていて、黙々と機械と向き合っている。彼が世界最高のPLCエンジニアであることを、この会社で知る者は、もうこの世にいない先代社長であり、私の祖父でもあるたちばな 宗一郎そういちろうと、そして何を隠そう、この私だけだ。


幼い頃から病弱だった私は、学校も休みがちで、友人たちのように活発に外で遊ぶこともままならなかった。そんな私の数少ない楽しみの一つが、祖父の書斎にこっそり忍び込み、難しそうな専門書や論文を眺めることだった。意味は分からなくても、そこに描かれた図面や数式は、まるで美しいパズルのように私の心を捉えた。そしてある日、そこで見つけたのが、翔さんがかつて国内最大手の重工業メーカー「帝都重工」に在籍していた頃に発表した、革新的なファクトリーオートメーションシステムに関する論文だった。匿名ではあったが、祖父が「これこそ本物の天才の仕事だ」と目を細めていたのを覚えている。まるで魔法の呪文が目の前で具現化していく様を見ているような、機能美に満ち溢れたプログラム。その論文の片隅に小さく載っていた著者近影の、少し困ったように、けれどどこか挑戦的な光を宿した瞳で微笑む彼に、私は一瞬にして心を射抜かれた。そして、彼が帝都重工を退社し、祖父の熱心な誘いに応じてこの橘製作所に移籍してきたと知った時、私は胸を高鳴らせた。病気がちな私にできることは限られているけれど、彼の近くで、少しでも彼を支えたい。そんな想いから、高校を卒業すると同時に、父に頼み込んで、橘製作所で事務の仕事を手伝わせてもらうことになったのだ。


「結衣ちゃん、この前の請求書、処理終わったかな? 無理はしなくていいからね」

「はい、お父様!もちろんです。こちらにまとめてあります」

現実は、論文で見た自信に満ちたオーラを放つ彼とは少し、いや、かなり違う。翔さんは極度の口下手で、人と話す時も視線を合わせることが苦手なのか、いつも少し俯き加減だ。周囲の社員たちは、彼を「ちょっと変わってるけど、まあまあ仕事はできる真面目な人」程度の認識でしか見ていない。特に、彼の才能を唯一理解し、彼をこの会社に招き入れた祖父が急逝してからは、その傾向は顕著になった。父である健二社長は人柄は良いが、技術的なことには疎く、翔さんの真価を見抜くことはできていない。結果として、彼はますます日陰の存在となり、本来なら彼が指揮を執るべきプロジェクトでさえ、山田やまだ課長のような、声は大きいが実力は凡庸な人物の後塵を拝している。しかし、当の本人は、その状況を甘んじて受け入れているように見える。「今の環境でいいんだ」と、諦観にも似た穏やかさで、彼は日々を過ごしている。時折、彼のデスクにそっと置かれる、栄養ドリンクや喉に良いとされるハーブティーに、彼が気づいているのかいないのか、私には分からない。


それが、私にはたまらなくもどかしい。

彼の稀有な才能が、こんな小さな町工場で、誰にも知られずに埋もれていくなんて。もっと大きな舞台で、たくさんの人々に称賛され、その名を世界に轟かせてほしい。そう心から願う一方で、私の胸の内には、醜く黒い感情も渦巻いている。

彼が世界最高のエンジニアだと知っているのは、私だけでいい。彼が脚光を浴びてしまったら、今のようにすぐそばで彼を感じることも、彼の些細な変化に気づくこともできなくなる。この小さな職場で、私だけが彼の本当の価値を理解し、そっと陰から支える。そんな今の関係が、独り占めしているようで、どこか心地よくもあるのだ。矛盾した感情に、私の心はいつも揺れている。時折、胸の奥がチクリと痛むのは、持病のせいだけではないのかもしれない。


先日も、小さな事件があった。隣の町にある食品加工工場に納品した包装ラインの機械が、原因不明の誤作動を繰り返すようになったのだ。山田課長が二人の若手技術者を連れて出向いたが、丸一日かけても原因を特定できず、お手上げ状態で帰ってきた。「どうもプログラムのバグらしいんだが、うちのじゃ手が出せんかもしれん」と弱音を吐く始末。その間、翔さんは自分のデスクで、まるで他人事のように黙々と別の作業をしていた。しかし、翌朝。食品工場から「なぜか直りました!」と感謝の電話が入ったのだ。山田課長は「自然治癒したのか?まあ、結果オーライだ」なんて呑気なことを言っていたけれど、私は知っている。前日の夕方、翔さんがこっそり工場の担当者と電話で話し、リモートでシステムにアクセスしていたことを。そして、彼のデスクのゴミ箱に、修正されたプログラムの一部らしき走り書きのメモが捨てられていたのを、私だけが見つけてしまったのだ。彼はまた、誰にも気づかれずに問題を解決した。そして、その手柄は曖昧なまま、宙に消えた。私は、そっとそのメモを拾い上げ、自分の引き出しにしまった。彼の才能の欠片を、また一つ、秘密の宝物が増えたような気持ちで。


私の心の中の天秤が、また大きく揺れる。「このままではいけない」という焦燥感。「でも、この秘密を共有している特別感が失われてしまうのは…」という、身勝手な独占欲。ああ、私はなんて浅ましいのだろう。深く息を吸い込むと、少し胸が苦しくなる。主治医からは、あまり感情を昂らせないようにと言われているのに。


そんなある日、橘製作所に、創業以来と言っても過言ではないほどの大きなチャンスが舞い込んできた。国内トップクラスの自動車メーカー、フェニックスモータースが、次世代EV(電気自動車)の新型生産ライン立ち上げに伴い、その心臓部とも言える制御システムの一部を、コンペ形式で中小企業にも門戸を開いて委託するというのだ。橘製作所も、祖父が築き上げた細々としたコネクションを頼りに、そのコンペに参加できることになった。社内はにわかに活気づき、父も「これは我が社にとって千載一遇のチャンスだ!」と鼻息が荒い。技術的なハードルは極めて高く、要求される仕様は、正直言って現在の橘製作所の技術力では背伸びしても届くかどうか、というレベルだった。


当然、プロジェクトリーダーには山田課長が任命され、数名の技術者が彼の元に集められた。翔さんは、その高度な要求仕様を読み解く能力を買われたのか、あるいは単に人手が足りないからか、設計チームの末席で資料整理や簡単なモジュールの設計補助といった、地味な役割を割り振られた。私は、社長令嬢という立場でありながらも、一社員として、そのプロジェクトに関する大量の資料のコピーやファイリングを手伝う中で、その全貌に触れる機会を得た。そして、日に日に大きくなる不安を感じていた。山田課長たちの設計は、確かに堅実ではあるけれど、革新性には乏しく、何よりフェニックスモータースが求める複雑かつ柔軟なシステム制御に対して、どこか付け焼き刃感が否めなかったのだ。翔さんなら、きっともっとエレガントで、もっと効率的なシステムを構築できるはずなのに…。しかし彼は、いつものように自分の与えられた作業を淡々とこなし、会議の席でも決して自ら発言することはなかった。時折、彼のデスクに目をやると、彼は深い溜息をついているようにも見えた。


そして、運命の日がやってきた。試作品として納品した制御システムを組み込んだフェニックスモータースの試作ラインが、稼働テスト開始からわずか数時間で、原因不明の大規模なシステムダウンを引き起こしたのだ。ラインは完全に沈黙し、復旧の目処は全く立たない。もしこのまま解決できなければ、契約は白紙撤回。それどころか、莫大な損害賠償を請求され、橘製作所は倒産の危機に瀕するだろう。そのニュースは、瞬く間に社内を駆け巡り、事務所は凍りついたような静寂と、目に見えないパニックに包まれた。私は、急な動悸を覚え、そっと胸を押さえた。


父は顔面蒼白で電話にかじりつき、山田課長は技術部の精鋭たちを引き連れて、すぐさまフェニックスモータースの本社工場へと飛んだ。しかし、現地からテレビ会議で送られてくる報告は、絶望的なものばかりだった。「原因が全く特定できません…」「プログラムのどこにバグが潜んでいるのか、皆目見当もつきません…」「フェニックス側の技術者たちも、お手上げ状態です…」山田課長の顔からは血の気が失せ、普段の威勢の良さは見る影もなかった。事務所に残された社員たちは、誰一人として言葉を発することができず、ただ重苦しい空気が支配していた。


私は、自分のデスクから、作業場にいる翔さんの背中をじっと見つめていた。彼は、いつもと変わらない姿勢で、しかし、その背中からは普段以上の緊張感が漂っているように感じられた。彼なら、きっとこの絶望的な状況を打開できる。私の中の確信は、揺るがなかった。

でも、彼は動かない。きっと、自分が出るべきではないと思っている。あるいは、目立つことを恐れて、その才能を心の奥底に閉じ込めているのだ。

その時、私の脳裏に、今は亡き祖父の言葉が鮮明に蘇った。

『翔君はな、タチバナの宝なんだ。普段は大人しくて目立たんが、あいつの頭脳は本物だ。いつか、タチバナ製作所が本当に厳しい局面に立たされた時、あいつの力が絶対に必要になる時が来る。その時はな、結衣、お前があいつの背中を押してやってくれんか。あいつは、自分からはなかなか前に出られんからな。お前は体が弱いが、心は強い子だから、きっとできる』

祖父の、優しくて、少し寂しそうな笑顔。


私の心の中で、何かが堰を切ったように溢れ出した。

会社が潰れてしまうかもしれない。たくさんの人が路頭に迷うかもしれない。そして何より、翔さんの類稀なる才能が、このまま誰にも知られずに終わってしまうなんて、絶対にあってはならない。

彼が有名になって、遠い存在になってしまうかもしれないという独占欲なんて、もうどうでもいい。今は、ただ、彼に輝いてほしい。彼の実力を、世界に示してほしい。

深く息を吸い込む。少し咳き込みそうになるのを堪え、私は、静かに席を立った。ふらつきそうになる足を叱咤する。

私が、翔さんを表舞台に引っ張り出す。どんな手を使ってでも。たとえ、この体が悲鳴を上げたとしても。


まず、私は翔さんの元へ向かった。彼は設計図面らしきものに目を落としていたが、私の気配に気づくと、少し驚いたように顔を上げた。その顔には、隠せないほどの疲労の色が見えた。きっと彼も、この状況を誰よりも憂慮しているに違いない。

「翔さん」私の声は、自分でも驚くほど震えていた。緊張と、体調のせいかもしれない。「フェニックスモータースのラインのトラブル…あなたなら、直せるんじゃないですか?」

彼は一瞬、私から視線を逸らし、そして力なく首を横に振った。「俺なんかに、できるわけないだろ。山田課長たちが必死にやってるんだ。きっと、もうすぐ解決するよ」その声は、自信のなさからか、か細く消え入りそうだった。

「でも!」私は食い下がった。少し息が苦しい。「あなたの論文を読みました!帝都重工時代の、あの複雑な制御システムを、あなたはたった一人で設計したじゃありませんか!あの時のあなたなら、こんなトラブル…!」

彼は私の言葉に少し目を見開いたが、すぐにまた俯いてしまった。「あれは…昔の話だ。それに、運が良かっただけだよ。今はもう、あんな大それたことは…」そして、ぽつりと言った。「俺は、目立ちたくないんだ。ここで静かに、自分の仕事をしていければ、それで十分なんだよ、結衣さん」

彼のその言葉に、私の心の奥底で何かがぷつりと切れた。苛立ちと、悲しみと、そしてどうしようもない憤りが、ごちゃ混ぜになって込み上げてくる。

「お祖父様は、あなたのことを『タチバナの宝だ』って言っていました!その宝が、今、錆びついて、ホコリを被ったまま、誰にも気づかれずに朽ち果てようとしているんですよ!?あなたはそれでいいんですか!?お祖父様が、どれだけあなたの才能を信じて、この会社に未来を託そうとしていたか、あなたは知らないわけじゃないでしょう!」

私の声は、いつの間にか大きくなっていた。翔さんは、ハッとしたように顔を上げ、その瞳が大きく揺れた。祖父の名前を出されたことに、明らかに動揺している。しかし、それでも彼はまだ、重い腰を上げようとはしなかった。「俺には…そんな責任、重すぎるよ…もし、失敗したら…」

その弱々しい言葉を聞いて、私は悟った。彼を説得するだけではダメだ。彼が自ら立ち上がれないのなら、私が無理やりにでも、彼を光の当たる場所へ引きずり出すしかない。それが、たとえ彼に嫌われたとしても。そして、この体が、少し悲鳴を上げ始めていた。


私は踵を返し、社長室へと向かった。ドアをノックする音ももどかしく、父の返事を待たずにドアを開けた。

「お父様!」

父は、電話の受話器を握りしめたまま、憔悴しきった顔で私を見た。「結衣か…今は、取り込み中なんだが…顔色が悪いぞ、大丈夫か?」

「橘 翔さんに、フェニックスモータースへ行ってもらうべきです!彼なら、きっとあのラインを復旧できます!」私は単刀直入に切り出した。咳を堪えるのに必死だった。

父は、私の剣幕と切迫した様子に驚いたように目を瞬かせた。「翔君?ああ、あの大人しい…彼に、一体何ができると言うんだね?山田君たちでも匙を投げている状況なんだぞ」その声には、期待よりも戸惑いの色が濃かった。

その時、社長室のドアが開き、報告に来たのか、数人の社員と、そして心配そうに様子を窺っていた翔さん自身も顔を覗かせた。

私は、彼がいることも構わず、一気にまくし立てた。少し息苦しさを感じながらも、言葉を続ける。

「翔さんは、以前、帝都重工にいらっしゃった頃、世界でも類を見ない革新的な生産管理システムをたった一人で開発した実績があります!その論文は匿名でしたが、業界では伝説として語り継がれています!そして、この橘製作所に来てからも、公にはなっていませんが、何度も危機的な状況を陰で救ってこられました!先日の食品加工工場のラインだって、彼が直したんです!」

私の言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。山田課長の姿も見える。彼は信じられないという顔で私と翔さんを交互に見ている。

翔さんは、自分の秘密が衆人環視の中で暴露されたことに、顔面蒼白になっていた。「結衣さん!何を…勝手なことを…!」

私は怯まなかった。むしろ、彼のその反応が、私の言葉の真実性を裏付けているように思えた。私は、自分のデスクから密かにファイリングしていた束を取り出した。それは、翔さんが誰に見せるでもなく書き溜めていた、様々な機械の改善案や、今回のフェニックスモータースの要求仕様に対する彼自身の詳細な考察メモ、そして、彼が独自に描いたと思われる、より洗練された制御システムの設計図の断片だった。

「これを見てください!」私はそれを、父のデスクに叩きつけるように置いた。「これが、橘 翔さんの実力の一部です!彼は、誰よりも深く、この問題を理解しているはずです!」

事務所内が、水を打ったように静まり返る。誰もが、その資料と、蒼白な顔で立ち尽くす翔さんを凝視している。

私は、込み上げる咳と涙を必死で堪えながら、翔さんに向き直った。目の前が少し霞む。

「ごめんなさい、翔さん!あなたの気持ちを無視して、こんなことをして…!でも、もう私、見ていられないんです!あなたの素晴らしい才能が、こんなところで燻っているのも、この会社が、お祖父様が大切にしていたこの場所が、なくなってしまうかもしれないのも!あなたは、口には出さないけれど、誰よりもこの会社と、お祖父様のことを大切に思っているのを、私は知っています!だから…だからお願いです!あなたの本当の力を見せてください!」

私の声は震えていた。でも、瞳は逸らさなかった。

「これは、社長令嬢としての命令じゃありません。ただの、橘 結衣からの、必死のお願いです。私を…ううん、お祖父様の想いを信じて、どうか、立ってください!」

言い終えた瞬間、激しい咳が込み上げ、私はその場にうずくまりそうになった。翔さんが、ハッとしたように私に駆け寄ろうとするのが視界の端に見えた。


長い、長い沈黙が流れた。翔さんは俯いたまま、微動だにしない。誰もが固唾を飲んで彼を見守っている。もうダメかもしれない、私の独りよがりだったのかもしれない、と諦めかけた、その時だった。

ゆっくりと、翔さんが顔を上げた。

その瞳には、いつもの困ったような臆病な色はなく、静かだが、鋼のように強い覚悟の光が宿っていた。彼はまず、心配そうに私を見つめ、「…大丈夫か?」と囁いた。私は小さく頷く。

そして、彼は父に向き直り、はっきりとした口調で言った。

「社長。俺に、行かせてください」

その声は、決して大きくはなかったが、不思議なほどの説得力と自信に満ちていた。

父は、唖然とした表情で私と翔さんを交互に見ていたが、やがて何かを確信したように、力強く頷いた。「…ああ、頼んだぞ、橘君!会社を…救ってくれ!結衣のことも…頼む」最後の言葉は、私に向けられたものだったのかもしれない。

翔さんは、私の方をちらりと見て、ほんの少しだけ口元を緩め、「…ありがとう、結衣さん。無理はしないでくれ」と囁くように言った。それからすぐに、彼はまるで別人のようにテキパキと指示を出し始めた。「山田課長、現地の最新のログデータを至急転送してください。それから、俺のノートパソコンと、開発ツール一式を車に。結衣さん、フェニックスモータースの担当技術者の連絡先をもう一度、教えてもらえるか。君は休んでいてくれ」

その背中は、先ほどまでとは比べ物にならないほど大きく、頼もしく見えた。まるで、長年眠っていた獅子が、ようやく目を覚ましたかのようだった。


フェニックスモータースの本社工場へ向かう翔さんを見送りながら、私は自分の部屋のベッドで安静にしていた。父が心配して、すぐに休むように言ったのだ。それでも心は落ち着かず、祈るような気持ちだった。私の行動は、本当に正しかったのだろうか。彼に、とてつもない重圧を背負わせてしまったのではないだろうか。でも、もう後戻りはできない。彼を信じるしかない。


数時間後、信じられないようなニュースが飛び込んできた。父が興奮した様子で私の部屋に駆け込んできたのだ。

「やったぞ、結衣!ラインが復旧した!それどころか、以前よりも格段にスムーズに動いているそうだ!」

父の言葉に、私はベッドの上で思わず身を起こした。

聞けば、翔さんは現地に到着するや否や、膨大なログデータとプログラムソースを驚異的なスピードで解析し、他の技術者たちが数日かけても見つけられなかったバグの根本原因を、わずか1時間ほどで特定したという。そして、彼の書いた修正プログラムは、単にバグを修正するだけでなく、システム全体の効率と安定性を劇的に向上させる、まさに神業のようなものだったらしい。現地のベテランエンジニアたちは、彼の的確な指示と、魔法のようなプログラミング技術に舌を巻き、最後には彼を「マエストロ」と呼んで称賛したという。


橘製作所は、文字通り英雄の凱旋を迎えた。翔さんは、社員たちからの嵐のような拍手と称賛の言葉に、戸惑いながらも少し照れくさそうに頭を下げていた。山田課長は、自分の非力さを素直に認め、深々と翔さんに頭を下げて謝罪した。父は、翔さんの肩を何度も叩き、「君は我が社の救世主だ!」と手放しで彼を褒め称え、後日、正式に彼を新設する技術開発部の部長に任命することを約束した(翔さんは例によって固辞しようとしていたが、父の熱意と、私の「お願いです」という小さな一言に、最終的には頷いてくれた)。


事務所の喧騒がようやく落ち着き、夕暮れのオレンジ色の光が窓から差し込む頃、翔さんが、父に促されて私の部屋に見舞いに来てくれた。

「結衣さん」

「…はい」私は、緊張と少しの気恥ずかしさで声が上ずった。

「あの…本当に、ありがとう。君がいなかったら、俺は多分、ずっとあのままだったと思う。それから…体は大丈夫か?」彼は、いつものように少し俯き加減だったが、その声には確かな感謝と心配の響きがあった。

「そんな…私は、何もしていません。ただ、翔さんの力を信じていただけですから。体は、もう大丈夫です。少し休んだら、すっかり」本当はまだ少し怠いが、彼の前では元気に振る舞いたかった。

「いや」彼はゆっくりと首を振った。「君は、俺の心の奥底に眠っていた、ほんの少しの勇気を掘り起こしてくれたんだ。…それに、俺の才能なんてものを、本気で信じてくれたのは、先代の社長と…君だけだったから」

彼の言葉は、訥々としていたけれど、その一つ一つが私の胸に温かく染み込んでいくようだった。

彼は、ふと顔を上げ、真っ直ぐに私の目を見た。その瞳には、もう以前のような臆病な光はなく、穏やかで、それでいて力強い輝きが宿っていた。

「これからも…俺のこと、見ててくれるか?君がそばにいてくれるなら、俺はもっと頑張れる気がするんだ」

その言葉は、まるでプロポーズのようにも聞こえて、私の心臓が大きく跳ねた。頬が熱くなるのを感じる。

私は、込み上げてくる涙をこらえることができず、何度も、何度も頷いた。

「はい…!もちろんです!私は、いつだって、世界で一番の、あなたのファンですから!」

涙で滲む視界の中で、彼が今まで見たこともないくらい、優しくて、少し照れたような笑顔を見せてくれた。


私の身勝手な独占欲は、彼をもっと大きな世界へ羽ばたかせたいという純粋な願いへと昇華された。それは、もしかしたら少しだけ寂しいことなのかもしれないけれど、彼の隣で、彼が放つ輝きを一番近くで見守ることができるのなら、これ以上の幸せはない。この体がいつまで持つかは分からないけれど、許される限り、彼のそばにいたい。

ありがとう、翔さん。あなたの勇気と才能に。

そして、ありがとう、あの時、一歩踏み出す勇気をくれた、私自身と、天国で見守ってくれているお祖父様に――。

橘製作所の、そして私たちの新しい夜明けは、まだ始まったばかりだ。願わくば、この穏やかな時間が、一日でも長く続きますように。彼の温かい眼差しを感じながら、私はそっと祈った。

「高橋クリスのFA_RADIO:工場自動化ポッドキャスト」というラジオ番組をやっています。

https://open.spotify.com/show/6lsWTSSeaOJCGriCS9O8O4

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