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幸福法

作者: 大体千字噺

幸福とは何か?

何か、そりゃ何かなのだろう。答えは問う前に出ているというが、幸福に対して、何ものかであるという期待は、発問者の意思を超越した部分に存在しているのだろう。一見、この問いには答が無いよう見える。実際、質問者が期待するような意味では答などないだろう。この質問は正否を問うのではなく、どうしようもない納得を問う問題であるからである。

しかし、私はこの問に対する明確な答えを所有している。

帰宅後間も無くに、無気力に、無意識に、能動的受動の快楽を摂取、一般的には動画の視聴をしていた時だった。いつもの様に、知った顔で情報まとめ動画を見ていると、サジェストに現れ、目を惹かれた。具体的ではなく抽象的に求めていたのかもしれない。タイトルは「幸福法」であった。三大幸福論ではなく、「幸福法」とは一体。何より、法であるからに何かしらのルールなのであろう。そんな予想が建築途中のまま、爆破解体されてしまった。

「幸福法」とは一日に三度、人と挨拶を交わすことであった。

ただこれが幸福のための唯一にして絶対の法であると言い放った。

そんな馬鹿なことがあるかと思う。

好意的には受け取れない、かといって無関心ではいられない。怒りにも近い感情を自身の中で反芻する。胸焼けのする心は、宙に浮いたまま。その日は、逃げるように眠った。

「お疲れ様です。」

昼間、背中から声を掛けられた。自分も何か、そう思うが、喉がつっかえたように声が出なかった。忙しい為か、返事を待つことはなく通り過ぎていく、特段珍しいことではない。返事が無いことをわざわざ咎めることもないだろう。だが、どうしても自身は気になってしまう。一方的に負債を押し付けられたような気持になる。

結局、その日は一度も他人と挨拶を交わすことはなかった。

人に会う予定も無かったのだから。喉の調子も決して良くなかった。

自身を納得させる御託を並べようと意味は無かった。

必死に無意識を取り繕うほど、あの動画の法は鮮明に思い出される。

ふざけた話を信じた訳ではない。ただ、そんな当然のこともできなかった自分を責めているのだ。無意識であっただけで、今までもそうだったのかもしれない。考えれば沸々と湧いてくる。自分について考えることは数多くあれど、足元を見直したことはなかった。人間として、社会的生物として、染み付いた道徳がどれほど形骸化されたものであったか。

日に挨拶を三度交わすこと、少なくとも自分は幸福である。


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