【コミカライズ】悪役令嬢らしい高笑いを練習していたら、俺様皇太子に攻略されたのですが
学校敷地の端の端の、木々に囲まれた小さな池のほとり。
辺りを見渡す。人影はない。
「あのぉ。どなたかいますか」
声をかけてみても、返事はない。
よし、大丈夫ね。
水面に映る自分の姿を見ながら左手を腰に当て、右手を口元でそらす。
「お……ほほほほ……」
蚊の鳴くような、細く頼りない声しか出なかった。気を取り直して、もう一度。
「おほほ……ッゲホ、ガホホッ」
緊張で息が変なところに入って、咳こんでしまった。
「どうしよう。もう一週間も練習しているのに、全然高笑いができないわ」
水面の中の私が、しょぼんと肩を落としている。
「このままじゃきっと、ダメ。なんとか悪役令嬢らしくならないと」
もしかしたら下を向いているのが悪いのかもしれないわ。胸を張り顎を上げ、視線を遠くへ向ける。
「この姿勢、高飛車な感じが出ていそう」
見えないから、自信はないけれど。
んんっとのどをならしてから、再挑戦。
「おほほほほ。――やったわ、今のはいいのじゃないかしら。あとはもっと大きな声で笑うことよね。がんばらないと」
私がどうして高笑いの練習なんかをしているかというと。
悪役令嬢だから。
たぶん。
私は物心がついたときから、この世界に違和感があった。
それがはっきりとしたのは、数日前。ちょっとしたきっかけで、今の私として生まれる前は、日本の女子高生だったということを思い出したのよ。
違和感の正体はこれだったのね、理由がわかってよかったよかった。
そう思ったものの、すぐに心配になった。
もしかしてこれって異世界転生なんじゃないかしらって。
それで考えてみたら――
私は派手な赤毛で鼻がツンと上を向いた綺麗系美少女。実家は公爵家で、同い年の第二王子と婚約中。
これって悪役令嬢っぽくない?
そして寮で同室のルチア。二学年下の彼女は零れ落ちそうな大きな目をした愛らしい系美少女。実家は男爵家だけど、あまり教育熱心ではなかったのか庶民的な感覚をしている。どう考えても、ヒロインよね。
私の婚約者であるケネスは、ちょっとばかり頭がお軽いけれど、絶世の美男子。女の子には優しいし、とても素敵だからきっと攻略対象だわ。
そして、最近ルチアとケネスは急接近して、ふたりだけでよく話しているみたい。ルチアはただの世間話だなんて言っているけれど。
この状況からすると、ここは乙女ゲームの世界ということになるわよね。物語が進むためには、ルチアはケネス(もしくは他の攻略対象)と恋愛をしなければならないし、私は悪役令嬢としてそれを適度に邪魔をしなければならないはず。
だけど現実は、ルチアと私はとても仲良し。
これではゲームが進まないわ。
だから今からでも、物語の展開を修正しようと考えたのよ。
悪役令嬢は悲惨な運命をたどるのが定番だから、怖くはある。けれど、私が怯んだせいでルチアが幸福を手に入れそびれたら可哀想だもの。
それにルチアやケネスとの関係を考えたら、命を失うほどのことにはならないと思うのよね。多少の問題なら、自分で対処できるだろうし。
親友なのだから不確定な未来なんかを怖がらず、彼女のためにがんばるのよ。悲惨な末路回避はあとまわし。
そして私は見事、悪役令嬢を演じ切るの!
ただ。問題がひとつ。私は極度の人見知り。高飛車で意地悪な態度をとるどころか、普通のふるまいもうまくできない。
公爵令嬢なのに情けない、とずっと思っていたけれど、これは前世のせいなのだわ。昔の私は陰キャでコミュ障。きっとその属性のまま転生してしまったのね。性格はリセットしてくれればよかったのに。
仕方ないから、まずは悪役令嬢らしい高笑いを身につけることにしたのよ。意地悪を言ったりやったりするよりは簡単だろうと思ったから。
でもこれが難しいの!
それはそうよね。私、大声なんて出したことがないもの。
「もう一度やってみましょう」
ポーズをとり直し、口元で手をそらす。指先をピンと伸ばして優雅に見えるように、
「お――ほほほほ」
うん、いい感じ。声量さえあれば。
「なあ、それはなんの練習なんだ?」
「ひあっ!」
飛び上がった拍子に、しりもちをつく。
こ、声がした!
誰もいないと思っていたのに!
あたりを見回す。でもやっぱり誰もいない。
「ゆ、幽霊?」
「誰が幽霊だ。上だよ、上」
「上? 浮遊霊?」
言われたとおりに上を見上げる。と、すぐそばの木の上に、幹にもたれるようにして座っている男子生徒がいた。
クセの強い黒髪に黒曜石のような瞳、やや浅黒い肌。エキゾチックな美貌。
同じ学年の隣国からの留学生、バルナバス皇太子だわ!
攻略対象と思われる男子の一人!
なんでこんなところにいるのよ。
――というか、登場の仕方がいかにもキャラっぽいわ。
そうでなくても陽気そうな彼は苦手なのに、どうしよう。
「なにをひとりで、あせあせしているんだ?」
バルナバス殿下がかなりの高さから飛び降りる。もちろん骨折なんてすることもなく、華麗に着地して、座り込んでいる私のもとに来た。
「お前、ケネスの婚約者のミランダ・トラレス公爵令嬢だよな」
「そ、そうです、殿下」
「で? さっきの練習はなんだ? 劇をやるなんて話は聞かないし、あの下手さじゃ舞台に立てるまでに百年かかるな」
「百年! それじゃ間に合わないわ……」
「だから、なににだよ」
ごくりとツバを呑み込む。万が一、ひとに見られたときの言い訳は考えてあるのよ。
「ええと、その、女神さまが夢枕に立って、こうしなさいと」
「なんだそれは」
私を見下ろすバルナバス殿下。この人、私と違ってすごく大きいのよね。まるで壁がそびえたみたいで、怖い。でもがんばって答えなくちゃ。
「内緒にしてくれますか」
「約束しよう。俺に二言はない」
本当かしら。あまりこのひとのことを知らないから、信用しかねるけれど、まあいいわ。自分の末路回避のときにも言うつもりのことだから。
「私は婚約解消をしたいのです。政略的な婚約とはいえ、どうしてもケネス様と夫婦になりたくなくて」
「なるほど、わかるぞ」とうなずくバルナバス殿下。「悪いヤツではないと思うが、男としての魅力は俺に劣るものな」
「そんな理由ではありません。とにかく、私からの解消は不可能なのですが、悩んでいたら女神さまが、性格の悪い令嬢になって嫌われなさいと教えてくださったのです。とはいえ急には難しいので、まずは笑う練習をしているのです」
「なるほど」
バルナバス殿下がしゃがんで、目線を合わせた。
「無理がある。そんな小心者そうな態度で、誰を騙せるというのだ」
「あう」がっくりとうなだれる。「だからこその練習だったのです」
「だが、おもしろい。俺が手伝ってやろう」
「はい?」
顔を上げる。
次の瞬間、ふわりと身体が持ちあがる。
立ち上がったバルナバス殿下が私の膝裏に両手をまわして、抱え上げていた。
「きゃああああっっっ!!」
思わず悲鳴をあげて、殿下の頭にしがみつく。
「落ちます、降ろして!!」
「ほら、大声が出た」
楽しそうな声が胸の下から聞こえる。
「こ、こういう練習はいらないです! 怖いです!」
「落としはしないぞ」
「助けて!」
「意地が悪そうに見えないなあ」
「これからなるんです!」
「ああ、俺がみっちり指導してやろう」
バルナバス殿下の楽しげな笑い声があたりに響く。
いいから早く、降ろしてよ!
◇◇
それからというもの、私が拒もうが逃げようがバルナバス殿下がやってきて、池のほとりに拉致られるようになってしまった。
私たちの通う王立学園は男女ともに全寮制で、部屋は基本的に異なる学年ふたりで一室を使うことになっている。人数の関係で三人になることはあるけれど、ひとりはない。
なぜならちょっと変わった、師弟制度があるからなのよね。学校は三学年制なのだけど、先輩が後輩の師となって、マナーや生活規範、勉強までを教えるの。
それで悪役令嬢とヒロインが同室というのが不思議だけれど、きっと部屋でもいびりたおす展開なのでしょうね。
そんな訳で、自室では悪役令嬢の練習はできない。そしてそれをわかっている殿下は、私を拉致する。
「そ、そんな愚かな振る舞いをして恥ずかしくないのかしら。さすが低位貴族はレベルが低いわね。オホホホホ」
「いいぞ、だいぶ感じが悪くなってきた」
バルナバス殿下がわざとらしく手を叩く。自分で用意した椅子に優雅に腰かけて、まるで劇の演出家のように私を指導する。
「ありがとうございます」
「だが、目が泳いでる」
「うぅっ。そんなに一気に上達はできません」
「のんびりしていて平気なのか?」
痛いところをつかないで。
ゲームを知らないから、いつがエンドかわも当然わからない。ルチアの前ではがんばって悪役令嬢ムーブをかましているのだけれど、悪いものでも食べたのかとか、熱に浮かされているのかとか心配される始末。
ただ、私のことを相談するために、ケネスと会う頻度が上がっているみたいだから、ケガの功名とは言えるのかもしれないわ。
「おいで、ミランダ」
……いやよ。
「来ないとケネスにバラす」
いつもいつも、ケネスを引き合いに出して脅される。
仕方なしに彼に近づく。すると目にも止まらぬ速さで、彼の膝の上によこずわりさせられてしまった。
これだからイヤなのよ。
「ほら、演技がうまくなる魔法の菓子だ。食べろ」
殿下がそれこそ魔法のように取り出した(椅子の傍らにおいたバスケットに入っているのよね)焼き菓子を、私の顔の前に出す。
諦めて、ぱくりと食べる。まるで鳥のヒナのように。
どうしてかバルナバス殿下は毎回、これをやるのよね。なにが楽しいのかしら。
これは想像だけど、バルナバス殿下はきっとチャラくて女の子好き枠の攻略対象なのよ。そしてこのおかしな儀式はヒロインにやるものなのだと思う。
それなのに私が高笑いの練習をみられてしまったばっかりに、展開が変わってしまったのよ。そうとしか思えないわ。
「こんなこと、ケネス殿下に知られたら申し訳ないのですが」
「婚約解消したいのだから、構わないではないか」
「どんな方法でもいいわけではないのです」
このやり取りだって、もう定期だわ。
「バルナバス殿下の留学期間はいつまでなのですか」
「ん? お前がのぞむならば卒業までいるぞ」
ということは、それまでにいなくなってしまうということね。
胸がチクリとした。
――今のはなにかしら。
あまり深く考えてはダメそうな痛みだったわ。気づかなかったことにしなくちゃ。
「練習を再開させてくださいな」
「ミランダは面白い女だよな」
「どこがでしょう」
「小心者でおとなしいくせに、婚約解消のためといっておかしな演技の練習をする。どう考えても、面白いだろ」バルナバス殿下が楽しそうに言う。
「それにこのひと月観察していてわかったんだが、お前が意地悪なふりをしたいのは、同室のルチア限定だ」
うそっ。どうして気づかれているの?
「お前、彼女とケネスをくっつけたいのだろう?」バルナバス殿下が私の目をのぞき込む。
――嘘をつきとおせそうにないわ。
仕方なしに、そうだと答える。
「ルチアはケネス殿下を慕っているようですから。彼女は大切な友人なんです。幸せになってもらいたいのです」
「そうとは思えないが」とバルナバス。「色々な場所で誤解が生じているんだな」
「どういうことですか」
「知りたかったら、俺にキスをしてくれ」
「婚約者がいます!」
「構わないだろう? 婚約解消が目的なのだから」
「そのようなことをおっしゃるのなら、もう指導はお願いしません。ケネス殿下に知らせるなり、お好きにどうぞ」
彼の足からおりる。
「待て」
手首を掴まれる。
「冗談だ。そう怒るな。俺の指導のおかげで演技は上達している。ここでやめるのは悔いが残るのではないか?」
「そうですが……」
うつむいて靴の先をみつめる。
ルチアがケネス(もしくはほかの攻略対象)と結ばれるまでは、演技を続けたほうがいいだろうとは思っている。でもバルナバス殿下とふたりきの練習は、もうまずいような気がするのよ。私の心情的に。
ふわりと頭に殿下の大きな手が乗った。
「最後までがんばるぞ。ミランダを立派な『嫌な奴』にしてやる。それでみな、幸せになるのだ」
殿下は眩しいような笑顔で私を見下ろしている。
「……はい」
ドキドキとしている胸には、気づいてはダメ。
私の目的は、ルチアの幸せよ。
◇◇
「いい加減にしろっ!」
講堂にケネスの怒鳴り声が響き渡り、生徒も教師も凍り付いたように動きを止めた。
三ヵ月に一度の、学校主催のダンスパーティー。この日ばかりは制服ではなく私服を着られるから、誰もが着飾り楽しみにしている。
その弾んだ雰囲気のなかで、突然ケネスがルチアの細い肩をつかんで叫んだのだった。
「どうなさったのですか」
慌ててふたりの間に割って入る。
私が怒鳴られるのなら、わかる。どうしてなのかルチアは私と踊りたいなんて言って、ずっとそばにいるのだもの。ケネスとケンカでもしたのかなと心配していたところだったのよ。
だとしてもいかにもゲームイベントといった行事で、攻略対象がヒロインを怒鳴りつけるなんておかしいわよね。
「ミランダは黙っていろ!」とケネス。
「では私の友人を威嚇する理由をお教えください」
「その女が!」とケネスがルチアを指さす。「邪魔をするからだ!」
「なんのでしょうか」
「私とお前の仲だ!」
「……なんて?」
ちょっと理解不能な言葉を聞いた気がする。
「ミランダ様っ」ルチアが私の腕にしがみついた。「もう苦しまないでくださいっ!」
「……はい?」
「わかってます、ここひと月
の奇行は全部ケネス殿下のせいなんですよね。殿下との愛のない婚約のお辛さ……。ミランダ様の心中を思うと涙がでます」
「どういうこと?」
というか本当にルチアは涙を浮かべている。
「政略結婚なのはミランダも承知だ!」とケネス。「貴様が入学するまでは、私たちはそれなりにやってきたのだ。貴様がミランダをおかしくした!」
「いいえ殿下です」
「貴様だ!」
ルチアとケネスは口角泡を飛ばしはじめ、私が呆然としているうちに、相手に掴みかかった。
「ちょっと、待って待って。なにがなんだかわからないわ」
「このくそ女!」とケネスがまたもルチアを指さす。「私からお前を遠ざけようとあの手この手で邪魔をしている!」
「この人」とルチアも負けじとケネスを指さす。「私を排除しようと、権力を使ったり学用品を壊したり、はては従者に暴行させようとまでしたんですよ」
「まさか!」
「し、していないぞ、そんなことは」ケネスの目が泳ぐ。
いやだ、本当にしているのだわ。
「王子のくせにサイテイのクズ男ですっ」
ルチアが私の腕にふたたびしがみついた。
「婚約は破棄したほうがいいですよ。いつ犯罪者になることか」
「ふざけるな、たかが男爵家の娘のくせに、王子を犯罪者呼ばわりするなど言語道断。ミランダ! 付き合う友は選べ!」
なんだか、おかしくないかしら。
ふたりは仲睦まじく恋愛をしていたのではないの?
「私は知っているんですよ」とルチアが恐ろしい表情でケネスを睨む。「あなたの浮気の数々を!」
ケネスは動きを止めた。顔が引きつっている。
「ミランダ様。この人は一年生の子たちを何人も毒牙にかけているのです!」
「人聞きの悪い言い方をするな! ちょっと声をかけただけだ!」
「あら、無理やりキスされそうになったと泣いている子たちがいますけど?」
「名誉毀損で訴えるぞ!」
だけどケネスの顔には脂汗が浮かんでいる。
「本当ですか、殿下」
「くそっ、私だって年頃の男だぞ! キスをしてみたいと思ってなにが悪い」
「ついに開き直ったわ」とルチアが意地の悪い顔をする。
「私は年下の子リスみたいな女の子が好きなんだ! ミランダはサイズと性格は子リスだが、見た目が派手すぎる!」
「まあ、なんて失礼な!」とルチアが顔を真っ赤にしてプルプル震えている。「ミランダ様の素晴らしさがわからないなんて、どうかしているのではありませんか!」
「ルチア、ちょっと落ち着いて。それから殿下、彼女の話は本当ですか」
「泣かせてはいない! たぶん」ケネスは自信なさそうに言葉を弱めた。「断られたら、すぐに引き下がったから」
「……ちょっと大袈裟に言いました」とルチアも弱々しく言う。「でもでも、こんな人はミランダ様にふさわしくありません」
「確認したいのだけど」ルチア、ケネスと順に見る。「ふたりは相思相愛なのではないの?」
「「まさか! こんなヤツ、冗談じゃない!」」
見事なほどに言葉を重ねるふたり。
「でも、ふたりだけで会っていたでしょう?」
「ミランダ様を苦しめるなと伝えていただけです!」とルチア。
「ミランダとの仲を邪魔するなと文句を言っていただけだ」
あら。
「では、ふたりは好きあっては……」
「「いない!!」」
またも重なったわ
なんていうことかしら。私は誤解していたのね。
「てっきりふたりがそのような仲だと思っていたから――」
「違いますぅ」ルチアが泣きそうな顔で私にすがる。「こんなに男の趣味は悪くありません」
「私だって!」
「――思っていたから、私はふたりがうまくいくように意地悪な令嬢を演じていたの」
「「え、あれは意地悪だったんですか」」
またふたりで口をそろえる。
「言動がおかしいとは思いましたけど、意地悪だとは思いませんでした」
とルチアが言えば、ケネスも、
「私もこっそり見ていたが、てっきり個性を出そうとしているのだとばかり」なんて言う。
いやだ、全然通じていなかったのね。あんなに練習をしていたのに。
だけどこれでは。私が悪役令嬢として悲惨な運命を送ることはなさそうだけど、ルチアも良い恋愛ができずに終わってしまうわ。
それともほかの攻略対象と愛を育んでいたりするのかしら。
でも今は。
ルチアを見る。
「そうなのね。誤解をしていてごめんなさい。もう意地悪なふりはやめるわ」
「演技でよかったです! 可愛かったからずっと見ていたくはありましたけど、お心の傷が深いのかと心配でした」とルチア。「婚約は解消しますよね?」
「どうして。必要ないでしょう?」
「だって、こんな浮気者!」
ルチアは叫び、ケネスは勝ち誇った顔でルチアを煽っている。
「このお話はここまでにしましょう。パーティーの邪魔になっているわ」
参加者全員が私たちに注目しているもの。いったん外に出たほうがいいのかもしれない。
ふたりに、そう声をかける。
それにしてもバルナバス殿下をみかけなかったわ。いたなら、きっと最前列で見物していたと思うのよ。お休みをしているのかしら。
周囲に謝り、三人で扉に向かう。
と、その扉からバルナバス殿下が颯爽と入ってきた。皇太子の正装をしている。
ものすごくかっこよくて、みとれそうになってしまう。
「おや」とバルナバス殿下。「三人揃ってどうした」
私が経緯を簡単に説明し、ルチアとケネスにはバルナバス殿下に演技指導をしてもらっていたと明かした。
ルチアがきつい目でバルナバス殿下をにらむ。
「ぽやぽやしたミランダ様ならともかく、バルナバス殿下は事実に気が付いていたのではありませんか。どうして彼女に演技なんてさせたんですか」
「面白かったから」
その返答って……。
もしかしてルチアの言うとおりに、知っていたということなのかしら。
「そういうことで」と笑顔のバルナバス殿下。「ミランダとケネスの婚約は解消になった」
ええ?
「は!? どういうことだ!」とケネスがバルナバス殿下に迫る。
「ミランダは俺がもらう。案ずるな、ケネス。陛下とミランダの父親には相応の見返りを提供して、喜んでいただいている。お前にもよい縁談を用意する。子リスみたいな令嬢とのな」
「ならばいい」とあっさり引き下がるケネス。
ちょっと待って。
「バルナバス殿下、訳がわからないのですけど!」
「簡単だろ。ミランダは俺のものになったということだ」
「よかったな、ミランダ」ケネスが良い笑顔で私の背中を叩く。「君は第二王子の妻ではもったいない。ぜひとも幸せになってくれ」
「うぅん、ケネス殿下よりはバルナバス殿下のほうがマシかしら」と呟くのはルチア。
ケネスは『それじゃ』と去って行った。
これは一体どういうことかしら。
「もしかして下僕として仕えろということですか?」
「なぜそうなる」
おかしそうに笑うバルナバス殿下。
「じゃあ、おもちゃ?」
わたしをからかって遊ぶため、とか。
「お前なあ」
「だって、私が必死に練習をしているのを見て、面白がっていたのでしょう?」
目に涙がにじんだ。
この人が面白がっていること自体はわかっていた。けれど、私の目的を叶えるためという大前提はあるのだと思っていた。なのに。
「まったく。鈍すぎる」
ぐい、と引っ張られ、次の瞬間キスをされていた。
「わかったか」とバルナバス殿下。
いえ、胸が破裂しそうにドキドキしています!
なにがなんだかわからないわ!
「黙っていたのは、状況を整えるのに時間がかかったのと」殿下が意地悪い顔で私の目をのぞきこむ。「ミランダを俺に惚れさせるのに手間取ったからだ」
それって――
「いや、はっきり言わないとお前はわからないか」
バルナバス殿下は私の手をとり、口元に持って行った。
「友人のために、性格と真逆の女になろうと必死になっているミランダに一目ぼれした。この俺を惚れさせたんだ、覚悟して愛されろよ。返事は?」
こんな都合のいいことが起こるものかしら。
このセリフはルチアが言われるものなのではないの?
どうしよう。
はいと答えていいのかしら。
「どうした」バルナバス殿下が眉を寄せる。「返事をきかせろ」
答えに迷いながら、口を開く。
そのとき、ガラスが割れる音が講堂内に派手に響いた。いくつもの悲鳴が上がる。
振り返るといくつかの窓ガラスが割れ、そこから顔を隠した不審者が複数人なだれこんできた。
逃げ惑う生徒たちがこちらに殺到する。
「いたぞ!」と叫ぶ侵入者。
「や、やめてくれ、なんなんだお前たちは!」
人波に隠れて見えないけれど、聞こえた声は間違いなくケネスだった。
「大変だわ」
向かってくる人が多すぎて前に進めない。
「ミランダ様! 逃げないと」ルチアに手を掴まれる。
「あなたは逃げて。私は婚――約者ではもうないけれど、ついさっきまで、そうだったのだもの」
今日のことは全部おかしい。
まるで悪役令嬢の断罪シーンのようなことが起きた。
悪事を暴かれ、糾弾され、婚約が解消となる。
でもその対象は私ではなく、ケネス。
もしかしたらなにかの手違いで、彼が悪役令嬢のポジションにいるのかもしれない。
だとしたらこのあと彼に起こるのは、悲劇的な運命ということになってしまう。
「貴様は国王に対する切り札にする!」
そんな声が聞こえてきた。
急がなければ。
「ミランダ!」
今度はバルナバス殿下だった。
「すみません、殿下。ケネス殿下を見捨てるわけにはいきません。政略的な関係でしかなかったけれど、長い付き合いですもの」
「危険だ!」
「ですから殿下は急いで警備を呼んでください」
彼の手を振り切って、奥に向かう。
人は減り、逆行はだいぶラクになっている。
ケネスを連れて、窓から出ようとしている侵入者が見えた。全部で三人。何人か、先に外に出たのかもしれない。
「待ちなさい!」
叫ぶとケネスも侵入者たちも、一斉に私を見た。
「殿下を連れて行くなら、私も共に行きます!」
叫びながら彼らに駆け寄る。
「はっ、どうなるか、わかってんのか? 純愛気取りかよ」
ケネスを後ろ手にして拘束している侵入者が、嘲る。
その顎に頭突きを食らわし、よろめいたところでお腹を蹴り飛ばす。
すぐに方向転換し、剣で突いてきた二人目の足元にしゃがんで脛を蹴り飛ばす。すぐさま床を転がり、振り下ろされた三人目の剣を避ける。立ち上がり攻撃しようとしたら――
バルナバスが蹴り飛ばしたところだった。
三人目の体が吹っ飛び、窓から中へ入ろうとしていた仲間に衝突した。
「大丈夫ですか!」
「お怪我は!」
そんな声と共に、窓から扉から警備兵が走り込んでくる。立ち上がりかけた二人目の侵入者をバルナバスが蹴飛ばして、私を見る。
ものすごく驚いているわ。
「さすがミランダ」高揚したケネスの声。「私より強いだけはある。助かったよ!」
でも。バルナバスはどう思ったかしら。武術に秀でた令嬢なんかを。
「……嫌いになりましたか」
恐る恐る尋ねる。
と、バルナバスは破顔した。
「最高だな! ますます愛しい!」
大股で歩み寄ってきた彼に抱き寄せられる。
「さあ、返事を聞かせろ」
「……ええと。質問はなんでしたっけ」
好きかどうかだったかしら。微妙に違うような気がするのだけど。
「ほう。この俺の問いかけを忘れるとはいい度胸だ」顎を掴まれ、上を向かされる。黒曜石のような瞳が楽し気にきらきらと輝いていた。「もうさっきの返事はいらぬ。俺のことをどう思っているかを教えろ、ミランダ」
またも心臓が破裂しそうになっている。
「……惹かれています、殿下」
「ん? 聞こえないぞ」バルナバス殿下は悪い顔をする。
すうっと息を吸い、大きな声が出るよう願って口を開く。
「とても意地悪です!」
「そうきたか」
「でも」また声が小さくなってしまう。「そんなところも、好きです」
囁くような声量。だけどしっかりと届いたみたい。バルナバス殿下は満足そうに笑ったのだった。
◇◇
ケネスを誘拐しようとしていた者たちは、国王の命で一網打尽にされた犯罪組織の残党だったらしい。学校の警備体制が問題になったけれど、一応は、落着した。
私との婚約が解消になったケネスは、とてものびのびとナンパに明け暮れている。けれど成果は芳しくないみたい。なぜだかルチアと私が慰め役になっている。
そしてルチア。私は、ほかの攻略対象と恋愛を進めるのではないかと考えて、様子を伺っていたけれどその兆候はないみたい。
もしかしたらこの世界が乙女ゲームの世界という想定が間違っていたのかもしれないわね。
勘違いから、ずいぶん的外れなことをしてしまったけれど。結果的に私が最高に幸せになったのだもの、この世界は私のための世界だったのかもしれないわ。
「ミランダ」
婚約者になったバルナバスが、池のほとりに置かれた椅子にすわって、私を呼ぶ。
そばによると、目にも止まらぬ速さで膝の上にすわらされた。
目の間に差し出される、焼き菓子。
とろけるような笑顔のバルナバス。
「食べさせてくれ」
菓子を受け取り、彼の口元に運ぶ。
パクリと指ごと食べられる。
私をみつめるいたずらげな瞳。
これもすっかり定期だわ。
《おわり》