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第79話 あなたにふさわしい火。

29.


 クルシュミの湯にたどり着くと、イズルは手綱を引き、橇を停止させた。

 御者台から下りると、橇を引いていた四頭のカリブーの体をねぎらうように叩く。カリブーはよく訓練されイズルに懐いてもいるらしく、甘えるように体を撫でる大きな手に顔をすり寄せた。

 カリブーたちに声をかけた後、イズルは御者台の後ろに設置された輿に歩み寄り、木戸を開いた。


「着いたぞ。クルシュミの湯だ」


 そう言いながら、中にいた細い人影に鍛えぬかれた腕を差し伸べる。


 手を差し伸べられたリオは、控え目な品のある仕草で手を取り、支えられて外に出た。華奢な硝子細工のような肩に、イズルは用意していた毛皮の羽織を丁寧にかけた。

 二人の目の前には、小さいが頑丈そうな作りの木の小屋があり、その向こうから温かそうな湯気が立ち上っているのが夜目にもわかる。

 片手に松明を持ち、もう片方の手でリオの手を引いていたイズルは、前方に目を向けたまま言った。


「今のあんたは……王宮にいる貴族の女のようだな。さっきまでは、ユグの火の神だったのに」


 イズルは少し黙ってから、ぶっきらぼうな声で付け加えた。


「不思議な奴だ」


 リオは、イズルに手を引かれるがままに歩きながら自問するように言った。


「湖は凍る、でしょうか?」

「それは神にしかわからん」


 イズルは、愛想のない声で答える。

 それからふと、リオの手を握る手にわずかに力を込めた。


「夜の中にいたのに、お前の手は温かい。火の神が入った証拠だ。火の神がお前の中に降りたのであれば、うみは必ず凍る」

「そうか……」


 リオはホッとしたように体の緊張を緩ませ、微笑んだ。


「良かった」


 イズルは視線を吸い寄せられたかのように、微笑むリオの顔を見つめた。


「良かった?」


 問われて、リオは微笑んだまま呟いた。


「はい。湖が凍れば、北へ行ける。また旅を続けられます」


 小屋へ向かう道の途中で、イズルは立ち止まった。

 手を取られていたリオも、怪訝そうな顔をして足を止める。

 イズルは、視線を他の方向へ向けたまま言った。


「キオラの言った通りだ」


 自分の手を握る力が強くなったことを感じて、リオは青い瞳を見開いて、イズルの無骨な顔を見つめた。


「お前はユグにいる誰よりも、火の神の心に適う。『水の器』だ」


 イズルは、リオの顔を見つめたまま言った。


「娘、ここに……ユグに残らないか? 俺とつがいになって」


 思いがけないことを言われ、リオは呆気にとられた顔になる。

 その表情から、イズルは視線をそらした。だがすぐに、見えない引力に惹きつけられるかのように、再びリオの顔を見つめた。


「すぐに一緒にならなくても構わない。ユグに残るのであれば、俺はあんたに仕えあんたを守る。獣を取って供え、どんなに寒い冬の日も、あんたの周りだけは春のようにしておく」


 イズルはそこで言葉を区切り、答えを待つようにリオの顔に空色の瞳を向ける。

 リオはしばらくイズルの強い眼差しを見ていたが、やがてそこから視線をそらした。


「私は、本来、『水の器』になれる者ではありません。キオラさまにも、そのことはお話ししました。それでも構わないから引き受けて欲しいと言われたので、お受けしましたが」


 あなたやユグに、自分が必要とは思えない。

 そう言って離れようとしたリオを、イズルは腕を引いて引き寄せた。


「キオラは、何と言った?」


 リオは一瞬、迷うように視線をさまよわせた後、静かな声で答えた。


「条件、などというものは本来は関係がない。あなたは火を入れることが出来る器であり、それが全てだ、と」


 イズルは頷いた。


「その通りだ。あんたは水の器であり、俺は火に属する者だ。それが全てだ」


 リオは捕らえられた手を引こうとしたが、イズルは離さなかった。

 そのままリオの体を、太い腕の中に捕らえる。


「今の俺では不足なのであれば、必ずあんたにふさわしい火になる。俺を認め受け入れてくれるまで、あんたにふさわしい火であることを証明し続ける」


 リオはそれ以上は逆らわず、イズルの腕に抱かれるままになっていた。

 淡い色合いの唇から、囁くような静かな声が漏れる。


「その通りです。私は『器』であり、人を受け入れるために作られたモノなのです。あなたさまがもし、私が欲しいとおっしゃるなら差し上げます。私は、そのために作られたのですから」


 翡翠色の瞳の中にたゆたう妖しい光に見えない糸で操られているかのように、イズルはリオの顔に自分の顔を近づける。

 その目の中には、狂おしい、と言えるほど、リオを求める欲望があった。

 唇が触れあいそうになる寸前、リオははっきりとした声音で言った。


「一夜限りでよろしければ」


 イズルは一瞬黙ったあと、リオの瞳を見つめて言った。


「俺が望むのは永劫だ」


 自分の唇を奪う男の動きに、リオは逆らわなかった。

 目を閉じて従順に自分の激しい口づけを受け入れるリオの体に触れようとして、ふとイズルは手を止めた。


「……永劫には無理、なのか?」


 かすれた声で問われて、リオは顔を上げた。

 息がかかるほど間近にあるイズルの顔を、恐れ気もなく見つめ返す。


「はい」


 リオは、自分を求める若者を見つめながら言った。


「強い火、弱い火、優しい火、汚れた火、暗い火、今まで数えきれない火が私の中を通りすぎました。それは、いつも一瞬で燃え尽きます。私の中に熱は残りません」


 リオの眼差しが、イズルを圧するほどの強い光を帯びる。その瞳の中には静かな表情に似合わない、怒りにも似た激しい感情が音もなく揺れていた。


「私という器を満たせる火は、この世界にたったひとつしかないのです」

「あんたの中に、もう火は在るのか」


 翡翠色に燃える瞳を、イズルはひどく切なげな眼差しで見つめた。


「あんたは、既に火水かみだったのか」


 だから、火の神を降ろせたんだな。

 そう呟くと、イズルは力なくリオの体を離した。


 イズルはしばらくリオの姿を見つめていたが、やがて自分の中の未練を断ち切るように背を向け、歩き出した。

 湯の小屋の前にたどり着くと、リオのほうは見ずに尋ねる。


「あんたの身の内を焼くのは誰だ? コウマか?」


 リオは答えず、深い藍色の空を見上げた。

 そこに広がる蒼白い極光の先にあるものを見透すように、光を見つめる。


 その時。

 ふと何かに気付いたように、リオは小屋の横の暗い繁みに目を向けた。


★次回

第80話「あんたが正しかった。」

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