第73話 お前のために
17.
翌日。
レニが目を覚ますと、寝台の中に横になっており、毛布がきちんと肩までかけられていた。
昨夜は出て行ってしまったリオが戻ってくるのを待つうちに、いつの間にか寝てしまった。
寝台にうつ伏せの姿勢のまま寝てしまったレニに、誰かが毛布をかけてくれたのだ。
例え深く眠っていても、人が近寄れば目を覚ますように訓練しているレニに近づける、ましてや体に触れられる人物は一人しかいない。
「リオ」
レニは、身支度を整え側に静かに控えているリオを見て、慌てて起き上がった。
リオは毎朝、必ずレニよりも早く起きて、身支度を整え、レニが目を覚ますまで側に控えている。
「おはようございます、レニさま」
リオは起き上がったレニに向かって微笑むと、用意してあった手水用の盆を持ってくる。
その姿は、普段と何ひとつ変わりがない。
レニは寝台から出ると、台を用意しその上に水を張った盆をのせる作業をしているリオの側へ躊躇いがちに歩み寄った。
「リオ、昨日は、その……ごめんね」
リオはふと作業をする手を止め、盆の上で僅かに揺れる水面を見つめる。
そのまま呟くように言った。
「レニさまが私に謝る必要などございません。私のほうこそ、身分をわきまえぬ出過ぎたことを申し上げました」
「リオ」
目のまえで戸を閉ざされてしまったような感覚があった。レニはその戸の前で、訴えるようにリオの名前を呼んだ。
「ち、違うの。リオの言葉は嬉しかったんだけど、私はただ、リオに身分とかじゃなくて、その……」
自分の気持ちを言い表す言葉を見つけることが出来ずに、曖昧に言葉を紡ぐレニの前で、リオは不意に立ち上がった。
しばらくジッと盆の中で揺れの鎮まった水面を見ていたが、やがてゆっくりとレニのほうに体を向ける。
「レニさま」
リオは僅かに緑色の光を帯びた青い瞳で、レニの顔を見つめた。
「しばらくの間、お側を離れることをお許し下さい」
「えっ」
レニは怯えたように声を上げ、慌ててリオの体にすがりつく。
「は、離れる? ど、どうして? リオ」
「レニさまがおやすみになられている間、キオラさまのところへ行って参りました」
リオは自分の体を掴むレニの手に、宥めるように手を置いた。
「昨日、キオラさまからいただいた、『水の器』になり舞いを奉納して欲しいというお話を、お受けすることにしました」
静かな口調のリオの言葉に、レニは顔を蒼白にさせた。
「な、何で?! 駄目だよ、リオ。だって、だって、あんな寒いところで舞うって……」
リオは緑色の瞳に優しい光を浮かべ、レニの手に触れる自らの手に僅かに力を込める。
「お許しがないまま決めてしまい、申し訳ございません。舞いを奉納する時までは、身を清めるために、舞の伝授以外では籠らなければならないそうです。しばらくお側には上がれません」
「何で、そんな」
レニはリオの体から手を放して項垂れた。
「リオ、怒っている、の?」
レニは顔を上げて叫んだ。
「私が変なことを言ったから、怒っているの?」
リオは、自分を見つめるレニの顔をしばらく見つめた後、瞳を伏せた。
その唇から、ぽつりと言葉が零れ落ちる。
「……わかりません」
リオは独り言のように言葉を続けた。
「ただ、舞い終わったあと、レニさまに聞いていただきたいことがあるのです」
「聞いて欲しいこと?」
しばらくの沈黙のあと、リオはゆっくりと言った。
「そのために、舞を捧げたいのです。北への道を作るために」
18.
「水の器」になることを翻意するよう、一緒にリオを説得して欲しい。
朝食から部屋に戻る途中にレニに捕まり、そう頼まれたコウマは、あっさりとした口調で言った。
「やらせてやれよ」
「でも……!」
レニの抗議は気に留めず、コウマはそのままの調子で言葉を続ける。
「リオの奴、意外に頑固だからな。止めたって聞かねえだろ」
レニは反駁しようとして言葉を上げかけたが、すぐに力なく下を向いた。
「リオは意外に頑固で、言い出したら退かない」ことは、コウマ以上にレニがよくわかっていた。
「リオ、何で急に……」
独り言のように小さく口の中で呟くレニを、コウマは横目で見た後、わざとらしい口調で言った。
「誰かさんがビィビィ泣いたからじゃねえの?」
レニの顔が瞬時に赤く染まる。
「な、泣いてはいないよ」
コウマは肩をすくめて笑い、レニにではなく、ここにはいない他の誰かを見つめるような眼差しになる。
「男にはなあ、やらなきゃならねえ時がある。それは女でも同じなんだろ」
「でも、でもリオは……」
コウマがレニに視線を向けた。
その中に含まれる何かが、レニの口をつぐませた。
「あいつが体を張るのは、いつだってお前のためだよ、レニ。今回だってさ、あいつはお前のために、お前のためだけに引き受けたんだ」
コウマはレニに笑みを向けた。
「だからさ、見ていてやれよ。あいつがお前のためにすることを」
★次回
第74話「お前の女か?」




