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第72話 傷ついても。

15.


「……コウマ?」


 忘我の境地にいたリオは、薄く瞳を開きコウマの名前を呟く。

 コウマは首筋が露になり、胸もはだけそうになっていたリオの衣服の衿元を合わせると、自分の中の未練を思い切るように体を起こした。

 リオから少し離れた場所に座り込むと、身の内の興奮を治めるように、固く握った拳で自分の胸を何度か叩く。


「コウマ」

「あっ、ぶねえっ!」


 コウマは大きく息を吐き出すと、乱れた姿のまま起き上がったリオを、横目で睨んだ。


「何すんだよっ! 危うくやっちまうところだったじゃねえか!」


 まだ妖しい熱で頬を上気させているリオを、コウマは何とも言えない表情で睨む。やがてがっくりと肩を落とし、頭をかきむしった。


「かーっ、やりてえっ! 滅茶苦茶やりてえっ! ここしばらく、ご無沙汰だったっつうのに」

「コウマ……」

「お前な、ふざけんなよっ!」


 コウマはガバッと突然顔を上げる。


「男っつうのは、そういうスイッチを押されると、自分でも抑えがきかなくなるんだよ! 男の性欲っつうのは、化物みたいなものなんだからな! 今度、そういうことをしてきたら、本当に見境なくやっちまうぞ!」


 いいか、ほんとにやっちまうからな。俺はちゃんと言ったぞ。

 コウマの自棄のような言葉に、リオは呟いた。


「化物……」


 リオは言葉を続ける。


「魔物、ですか」

「ああ、ああ、化物でも魔物でも何でもいいよ。とにかく、男には性欲っつうもんがあるんだから、そういうことは止めろ」

「……抱いて欲しいのです」


 濡れた光を放つ翡翠色の美しい瞳で見つめられて、コウマは我知らず唾を飲み込む。伸ばしかけた手をかろうじて抑え込み、慌てて顔を背けた。


「だから止めろって」

「何故ですか? 私は本当に……」


 コウマは顔を横に向けたまま、リオの言葉を遮った。


「お前は、俺に抱かれたがってなんかいねえよ。やっちまったら、俺もお前も後で滅茶苦茶後悔する。お前はすげえ傷つくだろうし、傷ついたお前を見て俺も落ち込む。そういうことが分かっている。分かっていてもスイッチが入ると、やっちまうのが男なんだよ」

「傷つく?」


 リオは、背けられたコウマの横顔を見つめた。


「私も、あなたも?」

「お前は、いま俺のことなんか何も考えちゃいねえ。他の奴のことで頭がいっぱいだ。パンパンになった頭をどうにかしたいだけで、相手は俺でなくとも、誰でもいいんだろうよ。さすがの俺も、んなもの傷つくわ」


 コウマはリオの顔をちらりと見てから、また横を向いて言った。


「お前がどうでもいい奴なら、おっ、ラッキーと思って、適当に優しくしてやっちまうよ。その後のことなんて考えもしねえ。でも……俺は、お前をダチだと思っている。だからしねえんだよ」

「ダチ……」

「俺はダチとはやらねえよ。だから、お前も俺にそういうことするのは止めろ」


 コウマはリオのほうを向き、少し目元を緩ませた。


「話なら聞いてやっから」


 リオは衣服の乱れを直しながら、「すみません」と小さな声を落とす。


「どうかしていました」

「それも微妙に傷つくな」


 コウマは苦笑いをして、酒杯を手に取りひと息に煽った。


「レニと喧嘩でもしたのか?」


 唇を噛んで目を伏せたリオを見て、コウマは半ば呆れて笑った。


「お前、ほんとレニのことしか考えてねえよな」

「私のことを、母君か姉のように考えていただけないかとお伝えしました。レニさまのお側にずっといて、寂しさをお慰めする存在になるから、と」


 リオは一瞬黙りこんでから、呟いた。


「そうしたら、私はレニさまの母親や姉ではない。自分がいなくなっていいと言ったら、自分の側を離れるのか、とおっしゃられて……」


 リオがか細い声でそこまで言った瞬間、不意にコウマが吹き出した。

 顔を上げたリオに向かって、コウマは笑いながら言った。


「何だよ、レニの野郎。しっかりお前に甘えてんじゃねえか」


 虚を突かれたように、リオは口の中で呟いた。


「レニさまが……私に、甘えて?」

「俺の話を聞いて、ママのことが恋しくなったんだろう? 四の五言わず、ヨシヨシしてやりゃあいいんだよ、んなもん」


 コウマは適当な口調で言い、自分の杯に酒を注いだ。


「まったく、レニの奴もまだまだガキだな」


 コウマはリオのほうを向いて言った。


「お前、ちゃんとレニのおふくろや姉貴代わりをやってんじゃねえか。レニも明日には頭を冷やして謝ってくんだろ」


 すっかりくつろいだ様子で酒を飲むコウマとは対照的に、リオは沈んだ様子のままだった。


「私は……」


 リオは独り言のように呟いた。


「レニさまの母親でも姉でもありません」

「あ? でも、母親代わりになりたいんだろ?」


 戸惑ったようなコウマの言葉に、リオはコウマが初めて聞くような固い声で答える。


「そんなものに……なりたいわけじゃない」


 コウマは口元に持っていきかけた杯を下ろし、リオの秀麗な横顔をジッと見つめた。


「お前……」

「コウマ」


 コウマが何か言うよりも早く、リオが口を開いた。

 その声は、いつもよりずっと固い響きを帯びていた。


「さっき、あなたは言われた。あなたは私を友達だと思っているから、傷つけるのが嫌だから、私を抱かないと」

「ま、まあな」

「それは相手が私ではなく、あなたが愛したかたでも同じではないのですか?」


 リオの瞳に、ひどく苦しげな光が宿る。

 コウマは薄闇の中で、その光を魅せられたように見つめた。


「あなたの心の中の化け物は、あなたの愛する人も傷つけるのではないですか。それは罪ではないのでしょうか?」


 コウマの顔から笑みが消えた。

 彼は、自分に向けられた狂おしい輝きを宿す翡翠のような瞳をジッと見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「もし、俺がお前のことを好きだったら……」


 コウマは、喉に絡む掠れた声で囁いた。


「俺がお前に心底惚れていたら、そんなに苦しんでいるお前をそのままになんかしねえよ。全部、俺に預けちまえってそう言うさ。お前のことを何もわかってねえ奴がお前を傷つける、その痛みを俺で晴らせばいいし、俺とやっちまったことでお前が苦しむとしても、ずっと側にいるよ。

 滅茶苦茶キツいだろうけどな。でも仕方ねえよ、それはお前に惚れているからで、結局は離れられねえんだから。俺がお前にとって、お前を傷つけちまう化物だとしても側にいてえし、俺がお前にとって化け物であることに俺が傷つくとしても側にいたいんだ」


 コウマはそこで言葉を区切り、リオの顔を見つめた。

 リオの緑色の瞳に浮かぶ苦痛が、少しずつそうではないものに変わっていくのを見て、ため息をつくように小さく笑った。

 そうして不意に目線を剃らし、いつもと変わらぬ陽気な声になる。


「俺はさあ、そういう女を探してんだよ。なんつうかな、傷ついてもいいからそいつの傷ごと抱きたくなるようなそんな女。そういう奴に会ったら、ぜってえ放さねえんだけどな」


 リオは小さく微笑んだ。


「パッセさんは、どうなんですか?」

「パッセねえ。あいつは、俺にとっちゃあ妹だからな。うーん、パッセかあ……」


 コウマは頭をかき、杯の中で揺れる酒を見つめた。


「お前はもう、そういう相手を見つけたんだよな」


 コウマは視線を動かさずに、少し笑った。


「お前には、もういるんだな。そういう奴が」


 コウマの言葉に、リオは虚を突かれたように瞳を見開く。それから赤くなった頬を隠すように俯いた。


「……はい」


 淡い朱色の唇から、小さな、だがはっきりとした声がこぼれ落ちた。



16.


「おいリオ、お前、寝てんのかよ」


 暖かい部屋の中で、コウマはいつの間にか毛皮の敷物の上で眠ってしまったリオに声をかける。


「ったく、勝手な奴だな」


 仕方ねえなとぼやきながら、コウマは寝台の上から毛皮でできた毛布を取り、密やかな寝息を立てているリオの上にかけた。

 再び杯を取ると、コウマはリオの苦しみが取り除かれたような穏やかな寝顔を見ながら言った。


「お前がさ、俺の探していた女じゃねえかと思っていたんだぜ」


 コウマは少し笑うと、自分も眠るために酒を片付け始めた。


★次回

第73話「お前のために」

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