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第62話 守られている。

26.


「起きていたのか」


 コウマがノックをして部屋に入ると、リオは寝台の上で上半身を起こして、ぼんやりとした表情で手元に開いた本を眺めていた。

 中身を読んでいるわけではないことは見ればわかる。

 コウマはそのことには触れず、椅子に腰掛けて言った。


「リオは、本当に本が好きだな。俺なんて、字が並んでいるのを見るだけで眠くなっちまうけど」


 コウマがそう言って笑うと、リオは視線を開いた本の上に落としたまま呟いた。


「レニさまも、そうおっしゃっていました」

「ああ」


 コウマは納得したように頷く。


「レニもそうだろうな。あいつは飯食う時と寝る時以外は、ジッとしていられねえだろ」


 コウマはうんうんと頷くと、それ以上何も言わないリオの整った横顔を眺めた。それから窓の外に広がる、空気が澄んだ冬の青い空に目を向ける。


 しばらくの沈黙の後、リオが不意に一人言のように呟く。


「コウマさま」


 コウマは夢から覚めたように窓の外から、リオのほうへ視線を戻した。

 リオは手元に視線を落としたまま、わかるかわからないかほどの唇の動きで言葉を紡ぐ。


「レニさまのことを、どう……思っていますか?」

「どう?」


 やや大きな声で繰り返してから、コウマはしばらく黒い髪に隠されたリオの横顔を見つめた。

 その姿はどこか不鮮明で、空気の中に淡く溶けてしまいそうに思えた。

 コウマは頭を振ると、乱暴に髪をかいた。


「どう、って言われてもな。どうも思っちゃいねえよ。面白しれえ奴だな、とは思っているけど。まあ、友達ダチだよ、ダチ」


 静かな声が耳に届いた。


「可愛い、と思ったことはありませんか?」


 コウマは、リオの横顔をマジマジと見つめた。

 リオはコウマの視線に気付いているだろうが、頑なに視線を下に落としたままだった。

 コウマはしばらく黙って考えていたが、この青年にしては珍しく、ひどく真面目くさった顔で答えた。


「ねえよ」


 リオは顔を上げた。

 青い瞳で、真っ直ぐにコウマの顔を見つめる。


「本当ですか? 一度も?」

「ない」


 コウマはリオの視線を受け止めて、はっきりとした口調で答えた。

 リオは顔を背けた。

 淡く色づいた唇から、微かに震えを帯びた小さな声が漏れる。


わたくしは、あなたが羨ましい……」


 リオは細い手を震わせて、掛け布を強く握りしめる。


「あなたのようでありたかった。強い男に……」

「リオ」


 コウマの声に含まれる何かが、リオの顔を上げさせた。

 リオの目の前でコウマは不意に相好を崩し、リオの体を粗っぽくどやしつけた。


「お前がいないとさ、レニの奴、しおれた菜っ葉みたいでマジで調子が狂うぜ。酒も飲まねえ飯も喉に通らねえ、絡んでもちっとも反応しねえし、何かあるとメソメソしやがるし。ちっとも面白くねえよ」


 コウマはリオを見つめて、小さく笑った。


「リオがいるから、あいつは元気でうっせえんだな」


 コウマはそこで口を閉ざして、リオの顔をジッと見つめる。

 まるでリオの美貌に書いてあるものを読むかのような口調でコウマは言った。


「リオ、レニが旅を続けられるのは、お前がいるからだよ」


 コウマは自分を見つめる、リオの青い瞳を覗き込む。


「レニと旅をしているのは俺じゃない。お前だ」


 リオは大きく瞳を見開いた。

 コウマは不意に照れたように、リオの顔から視線を逸らす。


「ったく、お前ら、いい加減にしろよ。辛気くせえことばっかり、俺のところに持ってきやがって。友達ダチだから特別タダで忠告してやるけどな、お前らがグルグル考えていることは、顔を突き合わせて話をすりゃあすぐに解決することだよ。いちいち俺を挟むなよ、うざってえ」


「コウマ……」


 コウマは身の置き所がない、というように椅子から乱暴に立ち上がった。

 その慌てぶりから、商人の若者がひどく照れてしまい、何をどう振る舞っていいか分からなくなっていることが伝わってくる。


「北に行く道がいい具合に凍結したんだ。荷を運ぶ橇隊も見つけたし、ようやっと北に向かえるぜ。お前ら、気合いを入れねえなら置いていくからな」


 まったく、それを伝えにきたのに、お前が妙なことを言い出すから、とコウマは口の中で、ブツブツとぼやく。


「俺は出発の準備で忙しいからな。用事があったら、レニに頼めよ」


 コウマは早口でそう言うと、リオの返事を待たずにそそくさと部屋から出ていった。



27.


 その夜。

 レニは中庭の石段に腰掛け、冬の空気の中、一人でぼんやりと空を見上げていた。

 空気は冷たいがそのぶん澄んでおり、月や星がよく見えた。

 月の冴えた美しい光をずっと見ていたかった。


 月の温かい光を浴びていると、不意に背後に慣れ親しんだ気配を感じた。

 すぐに振り返りたかったが、振り返ればその淡い気配はあっという間に雲の影に隠れてしまうような気がして、レニはそのままジッとしていた。


「レニさま」


 背後から呼ばれて、レニは唇を噛んだ。

 そうしなければ涙が溢れてしまいそうな気がした。


「リオ、ごめんね」


 レニは腕の中に顔を埋めて、自分の心の中にうずまく感情を吐いた。


わたし、リオを守れなかった。リオを傷つけた……!」


 震えるレニの小さな肩に、背後からそっと手が置かれた。

 リオは青い瞳を僅かに伏せて、強い感情に耐えきれないように震え続けるレニの赤い髪を見つめる。


「レニさま、わたくしが辛いのは、私の痛みがあなたを傷つけることです。私を守れなかった、とご自身を責めるあなたを見るのがとても辛い」


 リオはレニの肩の上で、僅かに手を滑らせた。

 静かな沈黙の中で、リオが何度か口を開き躊躇う。

 だがやがて、レニの背中を見つめたまま口を開いた。


「レニさま、私の心の内を聞いていただけますか」


 リオは夜の空気に溶けてしまいそうな声で、言葉を続ける。


「どなたが聞いても笑うでしょう。私のように人に飼われ、つながれて生きてきた、愛玩されることにしか価値がない、何もできない、何の力もない人形が何を言っているのか、と」


 言葉は月の光と混じり合い、冷たい冷気から守るようにレニの体を包んだ。


「でも、それでも、私はいつもあなたを守りたい、私のほうがあなたを守るのだと、そう思っていた。どんなことをしてでも、あなたのことを守りたいと……」


 リオはレニの体の温かみを感じるように、手を当てたまま呟いた。


「そのことをレニさま、あなたにだけは知っていていただきたいのです。俺は、あなたを守るためにここにいるのだと」


 レニは顔を上げた。

 自分に光を注ぐ空の月を見つめたまま、レニは肩にのせられたリオの細い手に、そっとと自分の手を重ねた。

 その形を確かめるように指の一本一本に手の甲に触れ、その存在をしっかりと握りしめた。


 そうしてゆっくりと頷いた。


★次回

第63話「真実の愛は続く」

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