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第61話 宝の持ち腐れ

24.


 レニは結局、イライス・アーゼンをリオの下へ案内した。

 

 アーゼンのことを信用したわけではない。

 だがもしアーゼンが、自分たちに未だに害意があるのであれば、医師のフリをしてリオの診察をするという、まどろっこしい方法を取る必要はない。

 部下を連れず一人でやって来たことを考えても、「恩を売る」以上のことは考えていないと判断したのだ。


 アーゼンは裏社会の人間の多くがそうであるように、自分の正体について秘密主義だった。

 クシュナやパッセはもちろん、コウマも顔を見たことがなく、レニが外をかけずり回って探し当てた富裕層相手に商売をしている医師だ、と伝えるとすんなりと納得した。


 レニはアーゼンが診察する場には同席し、鋭い視線でその様子を見守った。

 少しでもアーゼンがリオに妙なことをすれば、何があろうとも五体満足では建物から出さないつもりだった。

 だが、アーゼンはリオの体を触るときはもちろん、話の内容も医師としての範疇を一歩も出ない職業的なものに留め、先日の関わり合いのことは一切言動に出さなかった。

 レニですら、ここにいるのはイライス・アーゼンという裏社会の首領ではなく、自分がリオのために探してきた高名な医師ではないかと錯覚するほどだった。


 リオの体を丁寧に診察すると、アーゼンは傷痕のために塗り薬、よく眠れるようにと飲み薬を出し、レニについて部屋から出て行った。



25.


 リオの診察を終えたアーゼンを、レニは自分の部屋に招き入れる。

 部屋にひとつしかない、背もたれのない椅子に座らせると、相手の動きから目を離さないようにしながら、自分は正面にある寝台に腰かけた。


 自分の顔を油断のない眼差しで観察するレニに向かって、アーゼンは良心的な医師のような顔つきで口を開いた。


「殿下のお連れの者ですが、体の傷痕以外は特に目立った外傷はございません。発熱は、あるいは傷から悪いものでも入ったかと思いましたが、それもなさそうです。疲労と精神的負担が大きかったのでしょう。ああいうたぐいの者は、外の世界の空気には余り慣れておりませんから」


 アーゼンは、注意して見ていなければわからないほどわずかに、肩をすくめる。


「美術品と同じです。扱い方というものがある。恐れ多いことながら、大公殿下はみやびを介されない」


「恐れ多さ」などまったく感じさせない、淡々とした口調だった。レニは冷たい眼差しのまま、ハシバミ色の瞳を細めた。

 アーゼンはレニの様子を気にも留めず、別のことを口にする。


「殿下は、我が血盟の者とご縁があったようですな」


 アーゼンは、レニの小柄な体と鋭い目つきを観察しながら言った。


「我らが血盟の技の真髄は、身体にこそある。自身の肉体こそ至高の凶器であり、人体という敵の不自由さこそ最強の武器。道具は、真なる技を隠すために存在するに過ぎない。殿下はその教えを、忠実に守られている」


 アーゼンは、記憶を反芻はんすうするかのように瞳を閉じる。


「先日の大公殿下をしいさんとした動きは、見事だった。人間の肉体がいかに脆弱で不合理かを知り尽くす、我らが血盟の技の極みといっていい。殿下は体術と暗殺術において、天賦の才がおありだ。師も良ろしかったのでしょう」


 アーゼンは日なたで世間話を楽しむ老爺ろうやのような、穏やかな顔つきで言葉を続けた。


「殿下に我らの技をお伝えした、ということは血盟にとっては裏切者。既にこの世にはいないでしょうが」


 レニは、ハシバミ色の瞳を僅かに翳らせる。

 レニに武術を教えた人間は、「黒い血盟」から逃げていた。レニの兄アイレリオは、身柄を匿うことを条件に、レニに「血盟の技」を教えさせたのだ。


 師は、ある日突然姿を消した。

 その後は何ひとつ消息はわからない。恐らくアーゼンが推測した通りの運命をたどったのだろう。


 レニは少し黙ってから、呟くように言った。


「わざわざ、私を褒めに来てくれたの?」


 アーゼンは微笑んで、僅かに首を傾げる。


「私どもが生きる世界は、とても特殊な世界です。多くの素質を必要とする。それだけでもいけない。向き不向きもある」


 レニを見つめるアーゼンの表情は、自分が心血を注ぐ分野で有望な才能を見出だした教師のようだった。

 穏やかな声には、滅多に露にしない、ごく個人的な熱意のようなものがほんのわずかに宿っていた。


「殿下、もしあなたが、我らの盟約に連なる者であれば、私はあなたを自分の後継者として育てるでしょう。あなたが皇族などというものに生まれついたことが、残念でならない。宝の持ち腐れだ」


 アーゼンの言い方から、彼がどれほどそのことを不本意に思っているかがレニにも伝わってくる。

「しかし」と、アーゼンは口調を変えずに続けた。


「宝の持ち腐れであるなら、そのまま腐ってもらわなければならない。殿下がもし私どもとの友誼ゆうぎを大切に考えて下さるなら、殿下がお持ちのその技は誰にも伝えないようにお願いしたいのです。

 ご自身が使われるのは仕方がない。しかし、外部に漏らすのは避けていただきたい」


 アーゼンの声音や表情に、不意に非人間的な響きが表れた。


「殿下のように尊いお方に、このようなことを要求するのは気が引けます。だが、卑しい身分の者にも譲れないものはある。殿下がお持ちの技は、私どもにとっては命……いやそれ以上の、()()()()()()です。

 我らのように人の世から離れた世界で生きる者にとって、自分たちを形作る約定は絶対的な物です。人間は代わりがいる。しかし約定が破れれば、我らは我らではいられなくなる。私も殿下のことは敵には回したくない。しかし、自分たちの存在そのものが危ういとなれば、羽虫でも命がけで戦います」


 アーゼンはいかなる感情も浮かばない、底の窺えない灰色の瞳をレニに向けた。そこにはレニ自身の姿以外、何も映っていなかった。


「ご理解いただけますかな」


 レニはしばらく、自分に向けられた灰色の眼差しを見つめていた。

 そこから視線を引き剥がすように、わずかに横を向く。


「ご理解も何も、この技を誰かに伝えれば、私も伝えた相手も殺す。そこに『ご理解』は関係ないでしょう」

「ご明察、いたみ入ります」


 恭しく頭を下げるアーゼンに、レニは素っ気なく言った。


「安心してよ。私はこの前言った通り、リオと一緒に旅をしたいだけなんだ。あなたたちが、私とリオ、私たちに関わる人たちに構わないって言うなら、それ以上は何も望まない。あなたたちの気に障るようなこともしない」


 レニは少し考えた後、静かな声で付け加えた。


「叔父さんのことも頼みたい。私はあの人のことが顔も見たくないほど嫌いだけれど、殺したいとは思っていない。あんな人だけれど、今あの人がいなくなればこの国が大変なことになることは分かっている」


 レニの声が、さらに低く無機質なものになった。


「でも……リオのためなら殺す」


 レニはハシバミ色の瞳に暗い光をたたえて、アーゼンでもオズオンでもない、もっと別の者に言うように囁いた。


「国も何も関係ない。リオを傷つける人間は……許せない」


 アーゼンはその言葉の響きを味わうように、灰色の瞳を閉じた。

 やがて言った。


「あなたさまの叔父君、大公殿下は冷酷なかただ。野心家でもある。あの方ご自身は、自らの野心のために自分は冷酷なのだ、と思っていらっしゃるが、私には逆に見える」


 アーゼンは目を開いて、穏やかな口調で言葉を続ける。


「そこがあの方の最大の不幸でしょうな。闇を飼うのではなく飼われていらっしゃる。暗闇の中にいる人間には、他の闇を見通すことは出来ない」


 レニは、アーゼンの言葉を遮った。

 

「叔父さんの性格に興味はないよ。もう関わることもないだろうし」


 レニの言葉を退室を促すものと捉えたのか、アーゼンは椅子から立ち上がる。まるで宮廷で拝謁しているかのように、仰々しい礼をした。


「では殿下、良き旅を。私どもは、殿下の壮健と幸運を願っております」


 興味を失ったように脇を向いたレニに向かってもう一度礼をすると、アーゼンは部屋から出て行った。


★次回

第62話「守られている。」

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