第55話 取り戻しに行く
18.
少し離れたところで男から解放されたパッセは、全力で「陽だまり亭」に駆け戻った。
パッセは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、何とか自分が見た限りのことをレニとコウマ、クシュナに伝える。
「どこの奴らだ」
リオを連れ去った男たちの身元について話が及ぶと、コウマは黒い眼に鋭く厳しい光を浮かべて問いを口にした。
パッセは震えながら呟く。
「たぶん、アーゼンの……」
「アーゼン?!」
クシュナとコウマの顔に、恐ろしいほどの衝撃が走った。
レニはとっさに呟く。
「アーゼン? イライス・アーゼンのこと?」
「知っているのか?」
コウマが驚いたように振り返った。
レニは慌てて首を振る。
「う、うん、名前だけは何となく」
コウマは一瞬、奇妙な表情を浮かべた。
「イライス・アーゼン」の名前を、田舎の貴族の出身で世間のことを余り知らないレニが知っていることに違和感を覚えたのだろう。
だがその違和感は、すぐに切迫した今の状況への焦りによってかき消された。
「イライス・アーゼンか。まずいことになったな」
「イライス・アーゼンは、この街の権力者、なんだっけ?」
「表向きは、な」
コウマは暗い顔で呟く。
「この街の富裕な名士の一人ってことになっているが、実質はこの街の支配者だ。いや、この街のどころじゃねえ。この大陸の裏社会全体に顔がきくっていう噂だ」
レニは唇を噛んで俯く。
皇帝であったレニは、コウマ以上にイライス・アーゼンのことを知っていた。
イライス・アーゼンは、ただの裏社会の顔役ではない。
ゲインズゲートを拠点にして、大陸中に散らばっている「黒い血盟」の首領だ。
「黒い血盟」は、諜報、誘拐、暗殺、闇取引など大陸の暗い面の歴史に深く関わる秘密結社であり、その歴史は現在大陸に存在する、どの国よりも古い。
外部に対しては無法で非情だが、党員たちは『黒い血の盟約』で親兄弟よりも強力な絆で結ばれている。
上の命令には絶対服従であり、一度「盟約」を交わせば、死ぬまで抜け出せず裏切れば必ず殺される。
その鉄の約定が、強固な組織を作り上げている。
宮廷にいた頃に、「黒い血盟」のことは聞いていた。
彼らは国の中枢に入りこんで情報や秘密を握り、国の支配者とすら取引をすることが出来る。
王族や高位の貴族にも影響力を持つ、闇の集団だ。
パッセが泣きながら、レニに取りすがった。
「レニ、ごめんっ。ごめんねっ、私、何も出来なくて……っ」
泣き伏したパッセの背中を、レニは宥めるようにさする。
「パッセのせいじゃないよ。パッセだけでも無事でよかった」
「それにしても、アーゼンが何でリオを」
コウマは呟き、苛立ったように黒い髪を乱暴に掻きまわした。
レニは泣きじゃくるパッセをクシュナの手に預けると、立ち上がった。
「おっ、おいっ、レニ。お前、どこに行くんだよ!」
「コウマ」
レニは振り返り、コウマに声をかける。
ハシバミ色の瞳の奥には、静かで冷たい光が音もなく揺れていた。
「アーゼンの屋敷まで案内してもらっていい?」
「アーゼンの屋敷って……お前、何しに……」
レニは宙の一点を睨み据え、低い声で呟いた。
「リオを取り戻しに行く」
19.
馬車は、道をかなりの速さで走り続けた。
車内に窓はなく、外の様子はまったく窺いしれなかった。
一体、誰が、何のために、どこへ自分を連れていこうとしているのか。
リオは自分の隣りに座る、男たちの頭目である男に目を向ける。
男は顔をマントの襟の中に隠しており、何を言おうが聞き入れる気はないことは明らかだった。
もし遠い場所に連れさらわれたら……。
そう考えると背筋に冷たいものが走る。
しかしリオの不安をよそに、馬車はしばらく走ると止まった。
馬車が止まると男は扉を開け、外に出る。
「出ろ」
感情のこもらない声で命じられたまま、リオは馬車から降りる。
さりげなく辺りの様子を探ろうとしたが、すぐに乱暴に小突かれ、進むように促された。
広大な城館のような建物の裏口らしく、リオが中に入ると鉄の扉が重々しく閉まり、辺りは薄暗くなる。
仄かな灯りに照らされた狭い通路が、目の前に長く続いている。
男は「歩け」と言うように、後ろからリオの背中を突いた。
男に促されるまま、長い通路を道なりに歩き続けるとようやく突き当たりに、扉が見えてきた。
男は片手でリオの腕を捕らえたまま、何かの合図とすぐにわかるやり方で扉をノックする。
しばらく待った後、男はゆっくりと扉を開けた。
20.
扉の先の部屋は、薄暗い通路から一転して、居心地よく整えられた応接室だった。
中央に客用の卓と腰掛けが置かれ、奥にはこの部屋の主人用のものか書き物机が置かれている。
一見すると、簡素で質素にさえ見える。
宮廷の豪奢な品々に慣れているリオには、部屋に置かれている調度のひとつひとつが庶民にはとても手が届かない高価な物であることがわかった。
書き物机の前に、男が一人立っている。
年齢は五十歳前後くらいだろうか。
ひどく穏やかな表情は知的で優しげにさえ見える。
中肉中背で特に目立つところはないが、学者か役人のような誠実そうな雰囲気があった。
男は灰色の瞳を、リオを連れてきた男に向けて軽く頷いた。
私兵のリーダーである男は素早く一礼し、何も言わずに入ってきた扉から出て行った。
灰色の瞳を持つ男は、ゆっくりリオに歩み寄り、その顔を覗きこむと軽く目を見開いた。
「なるほど、これは国王陛下がご執心なのもわかる。私もエリュアの娼妓を何人か手元に置いたことがあるが、これほどの逸品は見たことがない」
男はリオの頬に手を触れ、優しく、だが有無言わせぬ仕草で顔を上げさせる。
「素晴らしい、何という瞳の色だ。エリュアの交配技術が生んだ最高傑作でしょうな。これを手に入れるためなら全財産をはたいても惜しくはないという道楽者や変態を、いくらでも見つけられますよ」
男の声は穏やかで理知的だったが、その奥には身を震わせるような冷たさが宿っていた。
灰色の瞳の男は、部屋の中央に置かれた腰掛けに座っている人物のほうへ振り返った。
「国王陛下のご寵愛の品でなければ、私が譲り受けたいくらいです。殿下、金に糸目はつけませんが」
「おいおい、アーゼン。そいつは国王のモノだ。買いてえなら、話はあの坊やに持っていけよ。尤も……」
灰色の瞳の男……イライス・アーゼンから、「殿下」と呼ばれたもう一人の男は、悪意がしたたるような嘲笑を浮かべた。
「あの坊やが、そいつを手放すとは思えねえがな。おかしなぐらい惚れ込んでやがる。まったく、男同士ってのは、そんなにいいのかねえ」
リオは腰掛けに座っている男を凝視した。
青い瞳が、「信じられない、否、信じたくない」というように、驚愕で大きく見開かれる。
リオは微かに震える唇から、我知らず呟きを漏らした。
「オズオン……殿下」
「オズオン」と呼ばれた男は、唇を歪めるようにして嗤った。獰猛な野獣のような表情で、リオの顔を見る。
「久しぶりだなあ? 売娼のお姫さま」
★次回
第56話「叔父・オズオン」




