第32話 取引成立
10.
二人は日没寸前に、山奥の村に着く。
村は木で出来た家が二十軒ほど立ち並ぶ、小さな集落だ。
それぞれの家には、牛や鳥を飼う厩舎がついている。村の奥の囲いで覆われた共同の牧畜地帯には、かなりの数の山羊や羊が飼われている。
牧畜地帯のすぐ脇には、天気の悪い日に家畜を入れるための長屋があった。
集落の家々には柔らかな灯りがともり、大人が上げる陽気な声や子供たちが騒ぐ声が外まで聞こえてきた。
「ここの搾りたてのミルクやチーズは絶品だからな。美味くて目の玉が飛び出るぞ。後は酒だな。羊の乳酒なんかもあるぞ。他じゃ飲めねえからな」
コウマはうきうきしたように、辺りを見回した。
普段とまったく変わらない様子だが、この陽気な商人が、柄にもなく道中沈みがちだった自分の気持ちを引き立てようと事さら明るく振る舞っていることがわかったため、レニは笑顔を浮かべた。
「うん、お腹ペコペコ」
「まっ、まずは仕事だ。お楽しみの食事はその後だ」
コウマが言った瞬間、村の中央にある比較的大きめの家から人が出てきた。
「コウマ、久しぶりだな」
いかにも山中の農民といった様子の小綺麗な身なりの男が、笑いながらコウマのことを抱きしめる。
「遅かったじゃないか、心配していたぞ」
「わりぃ、思ったより、向こうを立つのが遅くなっちまった」
「暗くなると、ここらも物騒だからな」
男は親しげに笑いながら、コウマを家の中に招き入れる。
木造りの家の玄関に入ると、コウマの後ろにいるレニの姿に目を止めた。
「コウマ、そちらのお嬢さんは?」
コウマは「ああ」と言って、レニを男の前に押し出した。
「隊商で知り合った奴。商売に興味があるみたいだから、色々仕込んでいるんだ」
「レニです、よろしく」
レニが差し出した手を握りながら、男は笑った。
「何だ、てっきり嫁さんでも連れてきたのかと思ったよ」
「バーカ、ちげえよ。弟子みてえなもん」
コウマは、荷物を木の卓の上に並べながら言う。
「こいつ、筋は悪くないぜ。アホだけど鼻が効く。逆よりはずっといい」
「アホ……アホって」
「なに言ってんだよ、最大級の賛辞だぜ」
「言い方がなあ」
「そんなことはいいから手伝えよ。ボサッとすんな」
ブツブツ言いながらもコウマを手伝いだしたレニを見て、男は笑った。
「仲がいいな。息がピッタリじゃないか」
「言ったろ? こいつ、カンはいいんだ」
男は力仕事も厭わずにやり、クルクルと休みなく動くレニの姿を感心したように眺めた。
「よく動くな。この山道を歩いて来たって言うのに。うちの息子の嫁に来て欲しいくらいだ」
「よ、嫁?!」
目を丸くして叫んだレニを見て、コウマはニヤニヤと笑った。
「こいつ、酒を凄い飲むぜ。飯もよく食うし」
「いいじゃないか。よく飲んでよく食べてよく動く。嫁は丈夫で体力があって、働き者なのが一番だ。農家の嫁は、都のお姫さまみたいなのじゃ務まらんよ」
「俺は、お姫さまみてえな女がいいけどなあ」
コウマは宙を見つめて顔に弛緩した笑いを浮かべながら、「リオみたいな」と呟く。
卓の上に、コウマが持ってきた荷物が全て並べられると、男はそれをひとつひとつ丁寧に検分した。
道具は手に取って様々な角度から眺めたり、試しに使ってみたりする。
調味料や香辛料は、指につけ少し舐めたりし、時々コウマに質問をする。
「うん、いいナイフだ。肉を処理するのに助かるな。砂糖はこんなものでいい。塩のほうが、もう少し欲しいな」
「ナイフの砥石もあるぜ。北の鉱山から切り出した石を使っている上等なナイフだが、肉処理をするんじゃ手入れをしないとすぐに駄目になるからな」
「こっちからは干し肉とチーズの塊を出せる。豚と牛の脂、呪い用の動物の骨もあるが、こいつは現金で引き取ってくれないか。秋に取引するときのために、少し欲しいんだ。牛黄もあるぞ」
「ほんとか! 都だと高値で売れるんだ。貴重な薬の元だからな」
コウマは慣れた様子で話をすすめ、愛用の算盤をはじき、次々と取引をまとめていく。
レニは何ひとつ聞き漏らすまいとするかのように、ハシバミ色の瞳でその様子を見守った。
家主の男が売り物である品物を持ってくると、コウマはひとつひとつ品物を点検する。点検の終わった品を、レニは丁寧に荷袋に詰めていく。
全ての品を詰め終わり、荷物が整ったところで、コウマが男に現金を支払い、二人はかたく握手を交わした。
「んじゃ、これで取引成立ってことで」
男はコウマの手を握ったまま、空いたほうの手で何度か肩を叩いた。
「いつも悪いな。こんな辺鄙なところまで。町まで遠くて、隊商も通らん場所だから、お前が来てくれてだいぶ助かっているよ」
「ここのチーズば絶品だからな。肉も脂も質がいいって、街でも評判だぜ?」
「下の奴らが育てている家畜とは、食わせているものが違うんだ。水も空気もうまいしな」
コウマの言葉に、男は自慢げに笑った。
それからレニのほうへ顔を向ける。
「待たせたな。腹が減ったろう。母屋のほうに食事を用意してある。遠慮せずにたらふく食べて行ってくれ」
男の言葉に、レニは笑顔で頷いた。
★次回
第33話「山村のご飯」




