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第31話 会いたい

8.


 レニとコウマは、昼過ぎに荷物を持って宿営地を出発した。

 目的地の村までは、山道を越えて三時間ほどだ。売り物である荷物を抱えていることを考えると、陽が落ちる前にギリギリたどり着けるかどうかというところだ。


 着いたら村に品物を卸す。その晩はコウマの知人の家に泊めてもらい、夜明け前に村を出て宿営地に戻ることになっている。



9.


「リオは、まだ怒っていたか?」


 木立が茂る山道を歩きながら、コウマは横を歩くレニに声をかけた。

 背中に大きな荷物を背負っていることが信じられないほど、足取りは軽快で速い。

 賑やかなことが好きでよく話すレニにしては珍しく、出発してからほとんど口をきかない。何かが気にかかっているように、ずっと考えこんでいる。


「うん……」


 レニは心の中にわだかまるものがうまく掴むことができない、というようにぼんやりとした口調で呟いた。


「リオは何も言わないし、態度も変わらなけれど、時々凄く怒っているんじゃないか、って思える時があるんだよね」


 レニは、自分の形にならない疑問の答えを求めるかのように目の前をジッと見つめる。


「考えすぎかな?」

「よくわからんけどよ、お前がリオに甘えすぎなんじゃねえの? 自立しろよ、自立」


 コウマはいかにも取ってつけたような、適当な口調で答える。

 レニは、ムッとしたように顔を上げた。


「だから、今日だってこうやってリオを付き合わせないで一人で付いてきたじゃん」

「おうおう、偉い偉い。その調子で足も動かしてくれよ」


 コウマが揶揄するまでもなく、二人は話をしている間も、休みなく足を動かし続けていた。

 夜になり、辺りが暗闇に塗り込められれば、山は昼間より格段に危険になる。夜の闇を見通せない人間は、獣にとっては無防備で狩ることが容易い獲物でしかない。

 日の光があるうちしか山に入らない。

 山の中で日が落ちたら、視界が開けた場所で火を絶やさずに一晩ジッとしている。

 それは旅をする者にとっては鉄則だ。


 二人は日の光と競うように早足で進み続けたが、そろそろ日が傾きかけてきたところで一瞬足を止めた。

 誰もが安全な村の中に、一刻も早くたどり着こうとするこの時間に、のろのろとした足取りで山道を歩く五人の男たちに出会う。

 身なりが一様に貧しく、衣服も身体も薄汚れている。

 黒ずんだ顔にはぼんやりとした表情しか浮かんでおらず、緩慢な動きで足を運んでいた。

 レニの視線に気付いて、コウマが言った。


「ありゃ、農奴のうどだな」

「農奴……」

「この辺りは農業が盛んだからな。農奴が多いんだ」


 コウマは事も無げに言って足を速める。

 レニは遅れないようについて行きながらも、生気のない歩みの農奴たちのほうを何度も振り返った。


「あの人たち、日の入りまでに村に着けるかな?」

「さあな」


 コウマは、大して興味を引かれない風に答える。

 レニは、なおも何度か振り返る。


「村に着けなかったら、山の中で一晩過ごすんだよね?」

「まっ、そうなるんじゃねえの?」


 口をつぐんだレニの横顔をしばらく観察してから、コウマは元の通り、前を向いて言った。


「ここに来る途中、小麦畑がずうっと広がっていただろう? すげえよな、夕日が当たるとキラキラしてさ。この辺りは作物が実りやすいからな、小麦以外のものもたくさん育てて収穫して加工して出荷して」


 コウマは特に口調を変えることなく続けた。


「それをやっているのは、全部農奴だ。朝から晩まで働いてな。ありゃしんどい仕事だよ。終わったあとは、精も根も尽き果てちまうだろうな」


 コウマは、隣りを歩くレニのほうにわずかに視線を向けて、ゆっくりと言った。


「俺はそれを売り買いして、飯を食っている」


 しばらく口をつぐんでいたが、レニが何も言わないので言葉を続けた。


「お前が旅のために持ち歩いている食料だって……」

「わかってるよ」


 コウマは、俯いて地面を見ているレニをジッと見つめてから、また前方に視線を戻した。


「そうは見えねえけどな」

「わかっている」


 レニは低い声で、もう一度呟いた。

 コウマは懐から水袋を取ると、口に含んだ。口の中に水分を行き渡らせながら、目顔でレニに水袋を手渡す。


「まっ、別に説教するつもりはねえよ。俺だって、どうして世界ってやつはこうなんだろうな、って思うことはあるさ。ありすぎてキリがねえくらいだ」

「……うん」


 レニは水袋を返してから、コウマに、というよりは自分自身の内部に響かせるように言った。


「私は、そういうものを自分の目で見たいんだ。いいものも悪いものも、綺麗なものも汚いものも」


 リオと一緒に……。


 レニの心の中に、リオの姿が浮かび上がる。

 ほっそりとした壊れ物のような華奢な肢体、鮮やかな夜の闇で染めたかのような光沢を放つ黒い髪、緑色の光も帯びる青く深い瞳、珊瑚色に色づいた唇には匂い立つような品を漂わせた、柔らかい笑みが浮かんでいる。


 まるで月の光に地上が照らされることによって生まれた、幻影のようだ。

 幻のように儚く美しい。

 見ていると胸が締めつけられるような気持ちになるのは、この地上に本当に存在する者なのか、いくら見てもわからないからなのかもしれない。


「あの人たちは、自分の主人のことをどう思っているのかな?」


 レニの独り言のような呟きに、コウマは少し考えてから答えた。


「どうも思っていないんじゃねえの」

「どうも思っていない?」


 レニは弾かれたように顔を上げ、コウマの顔を凝視した。

 コウマはレニの反応の強さに驚きの表情を浮かべたが、それについては何も言わずに言葉を続ける。


「主人にだって、いい奴も悪い奴もいるだろ。いい奴だったら良かった、悪い奴だったら最悪。それだけじゃねえの? 俺らが世の中に感じているのと一緒だろ。いいことがありゃあラッキー、悪いことがありゃあクソ。それ以上は何も考えねえ……つうか、いちいち考えたってしょうがねえだろ、んなこと」


「考えたって仕方がない……」


 レニは呟いた。


「やっぱり、そうなのかな?」

「あん?」


 レニは唇を噛む。


(何も興味なんてなくて、言われたことに従うだけ、なのかな?)


 心の中に、緑色の光を帯びた青い瞳が浮かんだ。

 その瞳は優しくレニのことを見つめ、耳元では吐息のような柔らかな声が響く。


(私はレニさまが所持されているモノに過ぎません)

(レニさまの、ご意思とお言葉に従うだけのモノですから、何も構う必要はございません)

(私は人ではなく、ただのモノなのですから)


 リオが自分に与えてくれる献身も心遣いも従順さも、全て仕える者としての習いの性に過ぎない。

 そこに心はない。


(だから寂しいのかな、一緒にいても。一緒にいないから)


 すぐ側にいても、優しく抱きしめられている時でさえ、本当のリオには触れておらず、とても遠くにいるような気がする。

 自分がリオを想う気持ちは、どこにもたどり着く場所がない。行き場がないまま、永遠にこうやってただ遠くの星を見るように想い続けるだけなのだろうか?


(ねえ、リオ。どうしたら行けるの? リオがいる場所に)


 その場所を探し求めるように、レニは暗くなりつつある山道の中を歩き続けた。


★次回

第32話「取引成立」

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