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第246話 寵姫さま

 リオは、コウマの意識がないあいだはほとんど休まずにその面倒を見た。顔に疲労が色濃く出ており、肌はいつも以上に白く透き通って空気に溶けてしまいそうに見えた。

 余りにその姿を見つめ続けたせいだろうか。

 リオが目を開き、ハッとして顔を上げた。


「いいよ、リオ。寝ていて」


 慌てて言ったが、リオはその言葉を耳に入れる様子もなく身を乗り出す。


「コウマの様子はどうですか?」

「うん、だいぶいいみたい。ずっと付いていなくても大丈夫だって」

「そうですか」


 リオは安堵したように吐息した。


「リオも来なくていいから、部屋でゆっくり休めって言っていたよ」


 リオは顔を伏せる。

 その顔を見つめながら、レニは何度か口を開きかける。そのたびに悩んで口を閉ざすことを繰り返したが、思いきって言葉を紡ぐ。


「コウマが言っていたんだけど……リオは何か悩みがあって、あの司祭のところに行ったの?」


 リオは膝の上にのせられた白い手が、強く握りしめられる。

 その手はわずかに震えていた。

 レニは何度も躊躇ったあと言葉を続ける。


「私が話を聞いても……リオの助けにならない?」


 沈黙の重さによって、リオが抱える葛藤と煩悶がどれほど深いかが伝わってきた。

 レニは祈るようにその姿を見つめる。


 長い時が流れたあと、リオの唇がほころび、小さな囁きがこぼれ出た。


「考えるんです」


 リオは呟いた。


「もし俺が奴隷ではなく、別の場所に生まれて男として育てられたら……あなたの夫の寵姫としてではなく、最初から俺自身としてあなたと出会えていたらどうだったかと。いくら考えても仕方がないことだとわかっているのに」


 リオは固く拳を握りしめて、震える声で呟いた。


「何もかもなくせたら、と思うんです。過去のことが何もかも消えて……今の俺があなたと出会って、一緒になったのだったら……。そういう夢を見てしまうんです」


 レニは苦悩が揺れるリオの横顔をジッと見つめる。

 どれほど深く愛しその重荷を分かち合いたいと願っても、リオがいま感じている苦しみを他の人間が代わることは出来ないものだ。

 リオもそれはわかっている。

 だからレニに何も言わず、自分だけで苦しみを抱え込んでいたのだ。

 いまレニに問われて、図らずとも心情を吐露してしまったことも、それをどうすることも出来ないとレニに思わせてしまったことも、リオを責めさいなむ重荷になるだろう。


 リオの力になりたい。

 どれほどそう強く願っても、何もすることは出来ない。

 自分は無力だ。

 強い胸の痛みと共に、レニは目をつぶる。

 その時ふと、こんな苦しみを前にも感じたことがあることを思い出した。


(こんなことが前にもあった)

(いつだったっけ……)

(そうだ、あの時)


 レニの心の中に、まるで映像が切り取られ映し出されたかのように、鮮やかな記憶がよみがえる。

 広大な広間に集まる着飾った宮廷人たち。

 皇帝の正装をして、彼らを見下ろす位置に人形のように置かれた自分。

 宮廷人たちが次々と目の前に進み出てきて挨拶をする。

 彼らは女帝である自分に心のこもらない型通りの言葉を並べたあと、そそくさと隣りに座る祖父の下へ移っていく。

 自分よりも一段低い位置に座っているのに肩の位置が並ぶ、巨大な体躯を持つ祖父グラーシアは、追従の言葉を並べる宮廷人たちを満足そうに見回している。


 宮廷人の列がそろそろ途切れる。

 その時、イリアスがやって来た。

 誇り高いイリアスにとって「簒奪者の孫娘を娶らされたこと」は、癒えることのない屈辱だった。

 あの頃のイリアスは、常に敵意と憎悪に満ちた刺すような眼差しをレニに向けていた。

 冷えた刃のような暗い表情を端整な顔に浮かべ、明るい空色の双眸に怒りと蔑みをたたえて、何者にも屈さないと言いたげに昂然と頭をもたげてレニの前に歩み寄る。

「グラーシアの操り人形」を装っていたレニは、イリアスにとって明確な敵だった。敵意と侮蔑を向けられることにはとっくに馴れていたため、いつも通り女帝であり妻でもある身にふさわしい挨拶を機械的に返す。

 その時。

 イリアスに伴われたあの人を初めて見た。


(……寵姫さまに初めてお会いした)


 レニの心の中に、まるで月明かりに溶けてしまいそうな、美しい寵姫の姿が浮かび上がる。

 祖父グラーシアによって無理やり連れ出された寵姫は、華やかで美しい装いをしながら、触れたら消えてしまいそうなほど儚く寂しげに見えた。


 その姿をひと目見たその瞬間、他のすべてが視界から遠退いた。


 その存在を憎み、必ず殺すように教えられた巨大な祖父の姿も、命を賭けて守るべき忠誠の対象であると教え込まれた怒りと憎しみを向けてくる夫の姿も、自分を閉じ込める牢獄のように感じられる宮廷も、独裁者の傀儡かいらいという哀れみと蔑み、忌避の眼差しを向ける人々の姿も。

 すべてが視界から消え去り、背けられた白い横顔、か細く震える肢体、闇の中でほのかに灯る光のようなその存在だけが世界に残った。


 思うよりも早く、考えるよりも早く、願いが心の中で膨れ上がっていく。


 この人のそばにずっといられるなら。

 この人の心に寄り添って生きていけるなら。

 他には何も望まない。

 何もかも捨てる。

 兄から与えられた使命も皇族として生まれた義務も、大陸や世界の命運も。

 寵姫さま、あなたがそばにいて笑ってくれるなら。


(私は……あなたのことが……)


 生まれて初めて、この世界の何物よりも美しいと思ったものに向けて、レニは祈るように言葉を紡ぎ出す。

 宮廷にいた時は、言えなかった言葉を。


「お願い、リオ。寵姫さまを消さないで……」


 顔を上げたリオに、レニは訴えるように言った。


「私がリオに出会えたのは、寵姫さまがいたからだから。……寵姫さまと出会ったから、リオにも会えた」


 レニは目の前の青い瞳を見つめて言った。


「私が初めて好きになったのは、寵姫さま、あなたなんです」


★次回

第247話「これから先、ずっと」

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