第243話 伝えて欲しい。
「人違いでしょう」
レニは老人の思考を断ち切るように、はっきりとした声で言った。
「猊下が私に似た者を見たとしても、それは私ではありません。別の人間です」
「ふむ」
教区長はしばらく思案するように黙ったが、やがて微笑みを浮かべて目を伏せた。
「あなたがそう言うのであれば、そうなのだろう」
教区長は口調を再び元のものに戻したが、顔つきは先ほどよりもずっと穏やかになっていた。
「そなたの忠告は肝に銘じよう」
教区長はレニに向かって目礼をすると、残っていた村人たちに声をかけて部屋から出ていった。
「あんな偉そうな坊さんを、よくここまで引っ張って来れたね」
教区長の姿を見送ると、アストウはレニに声をかけた。その顔には半ば感心し、半ば訝しむような表情が浮かんでいる。
「アストウだって、海のことや船のことは何が起こってどうすればいいか、すぐにわかるでしょう? それと同じだよ」
「ふうん」
アストウは幼く見えるレニの顔を観察する。
「あんたは、あのいけ好かない司祭を追い払う方法が、こういうことが起こった瞬間にすぐにわかるってことかい?」
少し黙ってから、レニは言った。
「前は、昔の自分を思い出すのが嫌だった。でも、リオを守るためなら何でもするって決めたから」
強い決意が浮かんだ、レニの顔をアストウは眺めた。
やがてホッと息を吐いて表情を緩める。
「力ってのは、そのためにあるからね」
アストウはレニの肩に手を置いた。
「あたしも、あんたらの力になれて嬉しいよ」
「うん、ありがとう」
アストウの横にいたランスが無言で去ろうとしていることに気付いて、レニは声をかける。
「ランスさんも。ありがとう、来てくれて」
ランスは足を止め、黒い瞳をレニのほうへ向ける。それから感情の揺れのない静かな口調で言った。
「あんたの夫に伝えて欲しい。借りは返したと」
「おっ、おっ……と?!」
レニは瞬時に顔を真っ赤にする。
焦りの余り汗まで浮かんでいるその顔を見て、アストウはからかうように言った。
「何を照れているんだい。リオと一緒になったんだろ?」
「あ……う、うん」
「さっき言っていたじゃないか。リオを守るためなら何でもする、って」
「そ、それは言った、けど」
ランスは、焦るレニの姿をしばらく眺めていたが、やがて軽く片手を上げると部下の者たちを連れて部屋から出て行った。
その後ろ姿を見送ったあと、アストウはレニに言った。
「レニ」
「う、うん?」
「リオにさ、伝えてやってくれよ。ランスがリオを助けるためにここまで来たって」
頷きかけて、レニはふと、アストウが「ランスは、リオが危ないって言ったらすっ飛んできた」と言っていたことを思い出す。
レニが顔を上げると、アストウは微笑みを浮かべた。
「頼んだよ」
「アストウ、あの……ランスさんっていう人……」
いい淀むレニを見て、アストウは笑う。レニが前のめりになるほど強くその背中を叩いた。
「レニ、リオのこと、しっかり捕まえておきなよ。ライバルが大勢いるからね。ぼさっとしていると、すぐに他の奴にかっさらわれるよ」
「う、うん。頑張る」
レニは大真面目な顔つきで、拳を目の前で握りしめる。
その姿を見て、アストウはもう一度、大きな声で笑った。
9.
時折、強い痛みと耐え難い体の不快さを感じて意識が水面から顔をのぞかせる。しかしそれも束の間、すぐに何かに足を引っ張られるように再び深い水の底に意識が引きずり込まれていく。
それを繰り返すうちに、少しずつ痛みと不快さが減り、薄皮を一枚一枚はぐように、意識の混濁が晴れていく。
水面近くに意識が浮上し、夢か現かわからない場所で、コウマは自分に語りかけるリオの声を聞いていた。
俺は……ずっと、あなたが羨ましかった。
リオは涙に濡れる声で呟く。
★次回
第244話「だから泣くなよ」