第228話 男なのだから。
4.
「リオ!」
強く体を揺さぶられてリオはハッとして目を覚ました。
反射的に声のほうに瞳を動かすと、寝台の脇に座ったレニと目が合う。レニがリオの体にかけられた毛布の上に手を置き、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「レニさま……」
「大丈夫? うなされていたよ」
レニはおずおずと手を伸ばし、リオの頬に流れた涙を拭う。
「嫌な夢を見たの?」
リオは反射的に目をそらした。
レニは軽く瞳を見開き、頬に触れていた指をわずかに引く。
リオは目立たないように涙を拭って、なるべく落ち着いた声を出す。
「なんでもありません。少し疲れているだけです」
リオは、カーテンの隙間から明るい陽射しが漏れていることに気付いた。
「もう昼ですか?」
「うん」
レニは頷いてから言った。
「リオ、私、今から村の人たちと出かけてくるね。お昼ご飯はここに用意したから、食べられそうなら食べて」
「どちらへ行かれるのですか?」
リオの反応が余りに素早く鋭かったせいか、レニは驚いた顔をする。
「ええっと、木の切り出しとか漁の手伝いだけど」
冬は天候が荒れると家から一歩も出られなくなるため、晴れた日は一日外で作業に追われる。薪となる木を運んだり、氷の下に網を仕掛け漁をしたり、除雪して道を作ったり、犬やカリブーを運動させたりなどやることはいくらでもあった。
玄関のほうから「おおいレニ、まだかあ」という、村の男が呼ぶ声がする。
「いま、行く!」
扉越しにそう返事をすると、レニはリオのほうを向いた。
「じゃあ行ってくるね。夕方には帰ってくるから」
そう言って立ち上がろうとしたレニの手を、リオは反射的に掴んだ。
驚くレニの手を掴んだまま、寝台から起き上がる。
「俺も行きます」
「えっ? 駄目だよ、寝てなきゃ」
「大丈夫です」
起き上がろうとしてよろめいたリオを、レニは慌てて支える。
「リオ、無理だよ。まだ寝ていないと」
「レニさま一人では行かせられません」
リオはふらつきながらも、レニの手を固く握りしめる。
レニはひどく困惑した顔になった。
「大丈夫だよ、いつもの森に行くだけだし。今日は人数が多いから、そんなに大変じゃないよ」
「他の奴らになんて、あなたのことを任せられない。俺が行かないと」
「リ、リオ、声が大きいよ」
レニは慌てて扉の向こうの様子を伺う。
「みんなに男だってわかっちゃう」
リオはカッとなって叫んだ。
「それが何です? 俺は男なんですから、知られても構わないじゃないですか」
「リオ……」
レニの顔が聞き分けのない幼子を相手に困惑する母親のようなものになっていることに気付くと、顔がのぼせたように熱くなる。
レニを心配して言っているのに、母親に置き去りにされまいと駄々をこねる子供のように思われているのか。
部屋の扉の外に何人かの人間がやって来た気配があった。
「レニ、どうした? リオの具合が悪いのか?」
今にも扉が開けられそうな気配を感じたのか、レニは飛び上がって入り口に駆け寄る。
「だ、大丈夫。すぐに行くから」
「リオ、起きているのか? 具合はどうだ?」
扉の外の男の声は、レニに対したものよりも柔らかく、精一杯の気遣いを表したものになる。
「何か必要なものがあったら言えよな。村から持ってきてやるから」
「おい、お前、一人でいいカッコするなよ」
「おおい、リオ。俺も来ているぞ」
「バカ、うるさくするな。寝ているかもしれねえだろ」
「レニ、リオは寝ているのか?」
「こんな不便なところより村に来たほうがいいんじゃないか」
てんでバラバラに騒ぎ出した男たちに答えるために、レニは慌てて部屋の外へ出ようとする。
「レニさま」
反射的に声を上げたが、自分の声がすがりつくような色合いを帯びていることに気付きハッとして言葉を飲み込んだ。
レニはリオを安心させるためか、大袈裟なほど明るい笑顔を作る。
「すぐに帰って来るから。待っていて」
レニが外に出ると、待ちかねたように男たちがいっせいに質問を浴びせる。部屋の中のリオの様子を伺おうとする者もおり、レニが押し留めているのが扉越しに伝わってきた。
その騒ぎも次第に小さくなっていき、家の外へ消えていった。
※※※
レニがいなくなると、温かいはずの部屋がひどく寒くなったように感じる。
誰か他の男がレニの美しさに目をとめ、奪い去っていくのではないか。
そんな不安が心を焼き、煩悶させる。
何故だろう。
寵姫だったころは、自分の感情を押さえつけることなど簡単だったのに。
レニには自分がついている。手助けは必要ない。
いくらそう言っても、男たちが声をかけてくるのをやめることはなかった。
これまでもそれとなくレニに言ったことがあった。
いま、話しかけてきた男は、この前わざわざここまで訪ねてきた男は、親切ごかしに色々な手伝いを申し出る男たちは、もしかしたらレニに会いたいがためにそうしているのではないか。
レニは半ば戸惑ったように、半ばおかしそうに言った。
「みんな、リオと話したいんだよ。私のことなんか、全然気にしてないもん」
いつものことだ。レニの顔にはそう言いたげな表情が浮かぶ。
そう言われるたびに、喉元まで言葉が出かける。
もし、そうではなかったら?
他の男たちが、あなたを好きだと言ったら?
それでも、あなたは俺を必要としてくれるでしょうか?
ずっと女として扱われて、今も姿形がいい人形としてしか扱われない、それしか価値がない俺を。
リオはその問いの答えを何とか知ろうと、レニの無邪気な笑顔を見つめる。
そこには自分への愛情が確かにある。だがそれがずっと続くものだという保証は、どこを探しても見つけることは出来なかった。
いつの間にかまどろんでいたらしく、次に目を覚ました時は日が傾きかけていた。
家の中は静まり返っており、レニが戻ってきた様子はない。
リオは寝台から起き上がった。
立ち上がった瞬間、ぐらりと視界がかしぐ感覚があり、よろめかないように片手で寝台の端をつかむ。呼吸が浅く、体の内部が熱っぽくて不快だった。
何とか着替えを済ませると、リオは壁を伝うようにして家の外に出る。
外はまだ陽の光があったが、空気は冷たく寒い。雪が踏み固められた通り道を、近くの森へ向かって歩き出した。
こうしている間にも、レニは自分からどんどん遠ざかっていく。
理屈に合わないことはわかっているのに、そう思うことを止めることが出来ない。
早くこの不安を鎮めて欲しい。
そう思いながら、リオはふらふらとした足取りで道を歩き続けた。
心が焦れば焦るほど、体は気だるく重くなっていく。呼吸が苦しく、なかなか前に進むことが出来ない。まるで鉄鎖に縛られてどこかにつなぎ止められているように。
森の入り口に入ったところで、リオは動けなくなった。足を前に踏み出すと倒れてしまいそうで、木に寄りかかって立っているだけで精一杯だ。
「え? リオ?」
その場にうずくまりそうになった時、驚いたような声が聞こえた。
顔を上げると、レニと共に出かけた村の男の一人が、木材を積んだ橇に乗っている。
男は慌てて橇を止めて駆け寄ってきた。
「どうしたんだ? 何だってこんなところにいるんだ?」
レニさまは……?
リオはそう尋ねたつもりだったが、声は音とはならなかったようだ。
「フラフラじゃないか。汗もかいているし」
男はリオを半ば抱えるようにして、橇の御者台に座らせる。
「治癒師の婆さんのところに行かねえと。少し辛抱しろよ」
(レニさまを置いては行けない)
そう訴えたつもりだったが、男は何も答えず「すぐだからな」と言って橇を走らせた。リオはさらに何か言い募ろうとしたが、その瞬間、意識が暗闇の中に飲み込まれた。
★次回
第229話「何だってこんなところに」




