第226話 月には行けない。
「ランスはさ、あんたに済まないことをしたと思っていると思う。そうは言わないけどね」
アストウの言葉は、リオに、と言うよりは、自分自身に問いかけ答えているような調子だった。
「済まないと思ったら、それを言わないことがあいつなりの誠意なんだ。わかりにくいんだよ、昔から」
喋っているうちに腹が立ってきた、と言いたげにアストウは言う。
「ランスは、あたしがあんたを逃がすために決闘をふっかけてきたってわかっていた。いつもそうなんだ。わかったとも言わないで、こっちがやりたいと思っていることを当たり前みたいにわかっていて、何もいわずにサッサと動くんだ。だからこっちは逆にわかっているのかわかっていないのか、納得してんだかしてないんだかわかんなくて、訳がわからなくなっちまう」
アストウは、苛立だしげに赤い頭をかく。
それからふと、リオが笑っていることに気付いて、半ば怪訝そうに半ばふて腐れたような顔をする。
「まあだからって、あんたにあいつを許してやってくれとかわかってやってくれって言ってるんじゃないよ? あんたからすれば、許せなくて当然だろうからさ」
リオは微笑んだまま首を振る。
「私はあの人に感謝しています」
「感謝?」
「私が生きてここにいるのは、あの人が出来うる限りのことをしてくれたおかげですから」
いくらアストウが騒ぎを起こそうと、見張りが多数残っていたら、逃げることは難しかった。
ランスは何も言われなくともリオを逃がそうとするアストウの意図を察して、見張りをすべて村まで引き上げた。挑発に乗り、長を決める決闘も受けた。
これまでずっと、そうやってアストウの考えを本人が意識するよりも早く察することで支えてきたのだ。
アストウはリオの言葉に何と答えていいかわからないといった表情になったあと、仏頂面で言った。
「あんたは何でもわかっているみたいだね」
リオは微笑んだまま、窓の外へ視線を向ける。
「あの人は見ず知らずの私のために、出来るだけのことをしてくれました。ひと言、お礼を伝えたかったです」
今まで何度か同じことがあったように、男とわかっていてもアストウはその横顔の美しさに、しばし目を奪われた。
その時に、ランスとリオについて話したことを思い出した。
「ランス、あんたがもしイルクードじゃなかったら、リオが男だろうとモノにしたんじゃないか」
アストウがそう尋ねると、少し黙ってからランスは独り言のように呟いた。
「なぜ、そう思う」
アストウはその顔に浮かぶ表情を観察しながら答えた。
「リオのことを『危険だ』って言った時の、ああいうあんたを見たのは初めてだったからさ」
視線を向けてきたランスに、アストウは言った。
「よく考えたら、男が女を危険に感じるなんて惚れた時以外ないんじゃないかな、って」
ランスはしばらく黙っていた。
アストウは、何回か口を開こうか悩んだが結局はランスが口を開くのを待った。
長い物思いのあと、ランスは海に沈んでいた恋人の形見をようやく見出だしたような、静かな表情で言った。
「俺は海で生きていく人間だ。月に行くことは出来ないさ」
「リオに会ってはいかないのかい? 最後になるかもしれないよ」
思わず言ったアストウの言葉に、ランスは呟いた。
そんなことをしたら帰ってこれなくなる。
アストウはそれ以上は何も言わずに、ランスの後ろ姿を見送った。
※※※
その時のランスの横顔が脳裏から消えるのを待ってから、アストウはリオに言った。
「レニと一緒になれたんだね」
アストウの言葉にレニは瞬時に顔を赤くしたが、リオは静かな表情のまま微笑んで頷いた。
「はい」
アストウはその顔を、満足そうに見る。
「船に居たときとは全然違う。いい顔だ。所帯を持った奴は、だいたいそんな顔になるよ。一人前の戦士の面構えになるんだ」
「え……えっと……」
レニは戸惑ったようにさらに顔を赤くしたが、リオは真っすぐにアストウを見つめて言った。
「アストウ、再びレニさまのお側に戻れたのは、あなたのおかげです。私はこれから、レニさまに全力でお仕えして生きていくつもりです」
「お仕え、か。まったく、あんたも……困った子だね」
アストウは二人には聞こえないように口の中で呟き、辺りに視線を向ける。
食堂の端に座る三人を遠巻きにするように、人々がちらちらとこちらを見ていた。ほとんどが仕事の合間に食事を取りに来た若い男たちで、その目は吸い寄せられるようにリオの姿を追っている。アストウが威嚇するように睥睨すると、慌てて視線を逸らす。
二人のほうに視線を戻すと、レニは自分の思いに心がいっぱいになっている一方で、リオがひどく居心地悪そうに暗い表情をしていた。
「レニ、事情があるから大変だろうけどさ……」
レニが顔を上げたので、アストウは悩むように口をつぐんだ。
自分の思いをどうレニに伝えたらいいのかわからない上に、何となくそれをリオに聞かせないほうがいいような気がした。
アストウの脳裏に唐突に、今は村を留守にしているコウマの顔が浮かぶ。
アストウが見たところ、コウマはアストウはおろか、レニやリオ自身よりもリオのことも二人の関係も理解しているように見えた。
(やれやれ、あのお兄さんならこういうことを伝えるのが得意なんだろうけどね)
あたしは柄じゃないや、とアストウは首を振る。
「アストウ、どうしたの?」
レニから怪訝そうに声をかけられて、アストウは笑顔を作った。
「何でもない。リオを大事にしなよ。いい奴だし、何よりあんたに心底惚れているからね」
「う、うん」
「まだしばらくはこっちにいるから、何かあったらいいなよ」
直接的な言葉に顔を赤くしながらがも頷くレニを見て、アストウはそう付け加えた。
二人は再会を約束して、アストウに別れを告げた。
★次回
第227話「それだけの存在」