第217話 助けに来たよ。
レニは小動物のような素早さで窓枠に足をかけると、縄を持っていないほうの手でリオの指に触れる。
毛皮の手袋に包まれたその手を、リオは夢の中にいるような眼差しで見つめる。目頭が熱くなり、涙で目の前が曇った。
レニはリオの手をグッと掴む。
「リオ、掴まって。私がリオを支えて、下まで下りるから」
「レニさま、止めて下さい」
縄にぶら下がるレニの姿を見て、リオはたまらず叫ぶ。
「私を抱えて下りるなど無理です」
「大丈夫! 下にはコウマとイズルが待っている。みんなでリオのことを助けに来たんだよ」
「コウマとイズルさんが?」
レニは、リオの手をもう一度掴もうと身を乗り出す。
リオはその手から逃れるように、反射的に後ずさった。
驚いた顔をするレニに向かって、リオは臓腑から絞り出すような、悲痛な声で訴える。
「私にはそのような価値はございません」
リオは、爪が食い込むような強さで手を握りしめる。
「お願いです、レニさま。あなたにとって私が不要なら、もう死んだ者と思い、打ち捨てておいてください。もう一度あなたに捨てられたら、私は……私は壊れてしまう」
それならば、あなたも私と一緒にいたかったのだという夢を抱いたまま、この命を終えたい。
苦しげに絞り出されたリオの言葉に、レニは言葉を失う。
レニはしばらくのあいだ、俯いたまま自分のほうを見ようとしないリオの姿を見つめた。
やがて閉ざされたリオの心に訴えるように叫んだ。
「リオ、ごめん! 私、リオのこと、もう絶対に放さないから。もう一度だけ、私を信じて!」
レニは必死に手を伸ばす。
「お願い、リオ!」
呼ばれた瞬間、リオの中で過去の記憶が甦る。
緊張で顔を紅潮させて、真っ直ぐな視線で自分を見つめるレニの姿が浮かぶ。
旅に出るため別れを告げにきたレニは、唐突に別のことを喋り出した。
(私と一緒に行きませんか?)
(王宮を出て……外を旅しませんか)
(ふ、二人で)
(だ、駄目ですか……?)
私……。
あなたと一緒にいたいんです。
人に飼われて生きたことしかない自分が、王宮の外を旅するなど無理だ。
そうわかっていても一緒に生きたかった。
「お願い! リオ。一緒に来て!」
リオは顔を上げる。
どうしてもこの人と、外の世界で生きたいと。
そう思って生まれて初めて、自分の意思で手を伸ばした。
俺もあなたと一緒にいたい。レニ……。
リオは差し出されたレニの手を取った。しっかりと握りしめたまま、窓枠から外の世界へ身を乗り出す。縄を掴むと、レニの体をしがみつくようにして抱き締める。
ずっと求めていたレニのぬくもりが伝わってきた瞬間、安堵と幸福が全身に広がり、涙が溢れそうになった。
「レニさま」
「リオ、手を離さないでね」
レニは両腕をリオの体に回すようにして縄を持った。決して離さないという強い意思が伝わってきて、リオはホッとする。
縄を二回を引くと、それが合図であるかのように、ゆっくりと縄は下ろされていった。レニは足を船体につけて体の全体でリオを支える。
「上に誰かいるのですか?」
「うん、アストウの部下の人がここまで案内してくれたんだ」
「アストウ?」
「リオのために力を貸してくれたんだよ」
「アストウとその部下が協力してくれていること」「レニの口からアストウの名前が出たこと」そのどちらにも驚きが隠せず、リオは目を丸くする。
聞きたいことはたくさんあったが、すぐに寒さで歯の根が合わなくなり、口がきけなくなった。縄を掴んでいる手は凍りついたように冷たくなり、感覚がなくなっている。
レニは凍えるような冷気と風からリオを守るようにその細い体を抱き締める。レニの腕の中で、リオの体はガタガタと震えていた。
レニは縄がつながれている甲板を見上げる。アストウの部下がいるその場所では、カンテラが微かな灯りとなって揺れている。
下は真っ暗だが、厚い氷がところどころ暗い光を放つのが見える。
辺りを見回したが、待機しているはずのコウマとイズルがどこにいるのかはわからなかった。
「リオ、もう少しだから」
レニは震えるリオの体を励ますようにさする。
「寝ないで、リオ。しっかりして」
意識が朦朧としかけているリオに、レニは必死に声をかけ揺さぶる。
凍った海面に降り立った時、リオの意識はほとんどなくなっていた。
レニは自分が着ていた毛皮の外套で、リオの体をしっかりとくるむ。
(絶対に死なせない)
腰に巻いていた命綱を切ると、リオを背中に背負い、縄で自分の体にくくりつける。
ザンム鋼で出来た短刀の青白い灯りで辺りがうっすらと明るくなった。
レニは短刀を口にくわえると、リオを背負って氷の上を歩き出した。
★次回
第218話「アストウとランス・2」